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大谷がスプリットをなげた英語 [英語学習]


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* はじめに
大谷がするどくおちる変化球、スプリットをなげたところの実況である。

ほらみて。ここでおちて、ここまで。
You see where that starts, and look where it ends.
_.---.--```-..-----...----..-````-._.-.....-````-.............---``-.._

* 発音の説明
一 はやくて自然な英語である。当然だが流暢でうつくいしい。よい教材とおもう。
二 「where」はどちらも「w」がかすかにひびく程度。
三 「and」は何度も確認したが息の圧がさがったとかんじたが、何がひびいてたかわからなった。発音記号でいえば曖昧母音と「n」がひびいたのだろうが、きこえない。原音をご自分でたしかめてほしい。ここでは正確な発音より、イントネーションをおえればよい。
四 「it」は弾音とおもう。日本語のように息をとめては駄目、なめらかに発音できない。前の「look」をつよく発音して、そののこりの息をつかう。
五 単語をみると特別なものはない。こんなに平易なんだと感心した。だがそれはスペルがわかったからいえる。このユーチューブの解説があればこそである。

(引用:大谷4勝目「この落差見て!」英語実況を解説、さわけん(おっさん英会話)、2018/05/21 に公開)

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うまくあてた大谷の英語 [英語学習]


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* はじめに
大谷が変化球をうまくうった実況である。
大谷、カーブをうまくあてた。打球は右中間に。ヒット。

A little blooper into right-center field, a base hit.

* 発音のむずかしさ

一 blooperは「b」がほとんどきこえない。これはまず母音の息がもれる。それを追っかけて「b」がはじまり、ただちに「l」にうりつよく発音される。なのでほとんど「b」がひびかない。まず母音からと意識しないと「b」がつよくひびきすぎる。

二 米語の「t」は変化にとむ。真似るのがすごくむずかしい。

little -> 「t」が弾音となってる
into -> 「t」も弾音だが「the」のようにきこえる。
right -> 「t」はひびいてない。破裂させてないとおもう。
center -> 「t」が発音されず「n」が弾音となってる。
hit -> 「t」ははっきりと発音してるとおもう。弾音化してないようだ。
四 これは個人的説明がすぎるかも。「t」の発音は日本人にはむずかしい。まず母音の息を外にだし、それを舌が追いかけ「t」を発音する。この特徴が弾音化や発音の省略(「n」の弾音化)につながってるとおもう。私はこんな時、いつも「t」の音がのこってるようにおもう。舌もうごいてるのではとおもう。一つ注意。

これはICレコーダーで録音し速度をおとして確認したもの。とても通常の速度では無理。こんなこまかな違いに気をつけそれと同時にイントネーションの変化をおっかける。そうでなければこの自然なはやい発音は真似られない。

(引用:技あり!大谷2安打の現地実況を解説します!、さわけん(おっさん英会話)、2018/04/21 に公開)

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大谷がなげたという英語 [英語学習]


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* はじめにその内容
投球は外角。空振り。そしてストライク だった。
Outside part of the plate. Swing and miss. And it's a strike.

相変らずはやい。ついてゆけない。だからきけない。ではどうすればついてゆけるか。このように息をつかってるとおもう。

* 息の変化の模式
Outside part of the plate
_.```----..----....--....._.-``._

一 「outside」が強音。これは息でしっかりと発音、ほかの弱音は残りの息で発音
二 息のはじまりとおわりだけが零になるがその他はならない。
三 微妙なとこだが「plate」も強音にはいるかも。だが「outside」のoutが肝。これはアの発音であるがはやい私はイの口の構えをして一瞬でアにかえる。こんな感覚をもってるが、わかるだろうか。ぜひ実物をきいてこのアの発音をきいてほしい。絶対に日本語にない。

私はこのはやい英語についてゆくため、まずきいて発音する。どこでおくれてるかをしらべる。上の説明もこの作業からうまれたものである。

(引用:大谷の変化球「しかもストライク!」英語実況を解説、さわけん(おっさん英会話)、2018/05/14 に公開)

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大谷が五号ホームランをうった英語 [英語学習]


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* はじめに
大谷が五号ホームランをうった場面である。「センターにおおきな飛球。中堅手バクストンが背走、打球はホームランに」と実況。

Shohei Ohtani hits himself by a high fly ball to center field.
Buxton is back, but this one is gone.

* 解説
実況は早口。これを追いかけるのは大変だが、発音の息の圧がどのように変化するかに注目する。次のとおり。
hits himself by a high fly ball to center field.
_...----````````--.._.-```````---..---.. _.---```````---```-._

一 hitsとhimselfの間の変化である。まずhitsはゼロの圧からはじまり、たかまり、次につづく。だがここでまたゼロにはもどらない。むしろ圧をたもったまま次のhimselfにつづく。ゼロになるのはbyをおえてからである。つまり「hits himself by」を一拍で発音してる。ここではやい発音についてゆくためにhitsをおえて圧をゼロにもどしてはいけない。ついてゆけなくなる。別の言い方をすればはやい発音ではこんな発音の仕方をする。

二 「high fly ball」ではhighが強音である。だがhighはゼロからはじまらない。前の「a」のすこしたかまった圧を引きつぐ。むしろ息が「a」でたかまって、おちることなくつづく。このように発音しないと冠詞、不定冠詞、うしろに強音をひかえてる弱音は発音できない。

ここでわたしの発見をつたえたい。

* 強調したいこと
私は五十年間英語をやってきたが一度も英語をしゃべれたとおもったことがないといった。これは自分は一度も自然なはやい英語をしゃべってない。どんなに真似たつもりでもどこかがちがうという違和感をぬぐえなかった。ここで私はやっとそれをみつけた。つまりこれである。日本人は音節ごとに 区ぎって発音する。つまりゼロの圧から圧をたかめ最後にゼロでおわる。ところが英語喉ではちがう。「hits」はゼロからはじまるが、たかまったままで次につづける。この圧のちがいが音に反映して何度きいてもおなじでない。どこかちがうという違和感につながった。これで私の違和感は解消した。もうすこし敷衍する。

put it
_..--._

このちいさな発音は一拍ですます。この時putはゼロからはじまり、たかまって、その圧がitに引きつがれ、そこからゼロにおちる。「it」に着目してはしい。たかまった圧から、おちてゼロになっておわる。こんな発音を日本人は想像できるか。日本語にはない。大事なことだが、はやい自然な英語ではよくある現象である。英語をまなぶ皆さん、もしはやい自然な英語についてゆけないとなやんでたら、このことを思いだしてください。

(引用:大谷5号ソロ「ゴーン!」英語実況を解説します、さわけん(おっさん英会話)、2018/05/11 に公開)

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大谷選手がたすける米語発音 [英語学習]


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* はじめに
私はストリカーズさんの米語発音の教本で勉強してきた。すばらしい教材だが悲しいかな現在、その音源を手にいれることがむずかしい。替わりのいいものはとさがしてた。ユーチューブで視聴できる教材をみつけた。

「三塁に滑り込む大谷選手の現地実況を解説します!」
「さわけん(おっさん英会話)」さんが2018/04/13 に公開したものだ。早速、中身、アナウンサーの実況である。

* まず内容の説明
That's out towards right-centger field. That's gonna go all the way to the wall.
Ohtani on his way to third.
Easily sliding in with a bases-clearing triple.

意味だが、大谷がうった打球がセンター方向に。それが壁際まで。走者大谷は三塁にむかう。スライディングしてセーフ、走者一掃の三塁打だ。

* はやい自然な発音、米語の特徴がよくでてる
一 米語特有のやわらかな「t」がでてくる。「out」、「center」
二 「l」の後の「the」が「l」に吸収され「la」のように変化してるようだ。
三 典型的な変化だが「going to」が「gonna」となってる。
四 はやい自然な米語である。これについてゆくには強音をきっちり発音しなければならない。「Ohtani on his way ...」ここで「Ohtani」をつよく発音しないと次の弱音をなめらかに発音できない。「go all the」も「all」をつよく発音する必要がある。それとも関係があるが、「sliding in with ...」の「in」、普通は弱音だが強音として発音してる。

* こんなよい教材がもっとほしい
私はこれをICレコーダーで録音し八十パーセントの速度できいた。ストリカーズさんの勉強でその音源につかえるよい教材とおもう。英会話教材は発音がきれいすぎる。さらに「さわけん」さんは意味や文法も適切に解説してる。はやい自然な米語がを取りあげたすぐれた教材となってるのでおすすめする。なおこのような動画を今後もアップしてもらえそうだ。期待したい。

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英語がうまくなる [英語学習]


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* はじめに
上川一秋氏がいう英語喉で英語習得をやってきた。最近一応の完成をみた。わすれないうちに説明する。

* 発音は母音が基本
通常、音節は子音と母音がある。発音はまずよわい音圧の息による母音がもれる。次に子音がひびきついで本格的に母音がひびく。日本語ではこのような漏れでる母音はまずない。口の構えでいうとまず母音の構えを用意する。それから子音である。音圧の変化である。

統計学に正規分布の曲線がある。こんな山をもつが山が右にかたよってる。日本語の音圧はまったく単調で変化しない。一息で発音する単位を拍とよぶことにするが、一拍が複数の音節からなることがある。この場合はアクセントのある強音にこの山がくる。アクセントのない弱音はこの山の麓の息をつかう。

* 母音の相互関係
イ、ウ、エ、オ、アに構造がある。イが喉の一番あさいところでひびきアがもっともふかいところでひびく。五音の深浅ははこの順序である。これをひびかせるには筋肉もこの順序でうごかす。イをひびかせるにはイの筋肉をうごかす。これは単純に理解できるがウだったらもうすこし複雑となる。イとウの筋肉が関係する。この順序にうごかしウをひびかせる。エ、オ、アも仕組みはおなじである。だからアだったらイ、ウ、エ、オ、アとうごかす。つまりアはこれだけの筋肉をうごかす必要がある。だからイがもっともはやくアがもっともおそい。これで腑におちる。これ本当かと疑問がでるかもしれない。

* イ、ウ、エ、オ、アの順で発音する
これは私個人の感覚の説明である。だがイがあさくアがふかいというのはあきらかに実感できる。アが先だつ四音の筋肉をうごかすような面倒くさいことをしてる。そんな実感もある。そんなことしないでもアににた音はだせる。だが音がひびくタイミングがあってないとかにてるがどうも深みがない。だからちがうとおもう。

上川さんの説明に「上からはじまり下におりる。一つの発音をおえると上にもどってまたはじめる」というような説明があった。何のことかまったくわからなかったが、このこととかんがえれば腑におちる。では子音の発音である。

* 子音は母音を発音する口の構えから発音
子音は目的の母音を発音する口の構えを用意し発音する。これはややひくい音圧の時に発音する。イだったらその子音はすぐひびく。「he」とか「she」である。ところが「don't」とか「time」ならその子音は一瞬だがながくかかる。私の感覚では日本語にくらべ随分捏ねくりまわして発音してるとの実感である。子音が後の母音によりほんのすこしだがはやくなったり、おそくなったりする。日本語にはないとおもう。

音節は母音の構えを用意し発音する。後の母音により子音に遅速がうまれる。母音は相互関係があり母音発音には他の母音の筋肉の動きをふくむことがある。やっとここまできたか。おわりきたとおもった。だからここにのこしたのだが確認しておくことがある。

* 確認しておくこと
一、この説明がいきるのは英語喉の発音によってこそである。日本人がおちいりやすいのは日本語の発音方法で英語ににた発音をする。できた気になる。こうならないよう注意が必要である。
二、細部については説明しきれてない。たとえばアクセントのない弱音はふれてない。あえていえば強音のイ、ウ、エ、オ、アをよわく発音する。その程度である。また曖昧母音とか英語には上の五音のほかの母音もある。特に説明してない。これは英語習得の本道はネイティブの英語をきき真似る。そしてこれを繰りかえすだけ。あまりこまかな説明に時間をつかっても仕様がない。この辺まで納得してもらえたら、さらに詳細がはなせる。

* はやいネイティブの喋りについてゆく
本道は真似るといったがはやいネイティブに日本人はついてゆけない。その原因には弱音ができないという問題がある。たとえば「center」だが強音と弱音からなる。これは一拍で発音する。その際に強音を発音しのこった息で弱音も発音する。私の感覚だが強音を発音すれば弱音は自然にひびく。そのために筋肉をうごかすという意識はない。日本人はこれを二拍、つまり強音と強音で発音する。一拍の発音を二拍で発音するから、一拍分おくれる。

これが随所にでて、ついてゆけなくなる。日本語には弱音がないから追いつこうとして早口になる。現地で英語がうまいという日本人にこのタイプがいる。一拍の中に「center」のような二音節も「the center」のような三音節もありえる。この時、いずれも一拍であり、私には弱音の筋肉をうごかしてるとの意識はない。

「he」、「she」、「it」のような発音は通常は弱音。だから強音の息をつかうのだが日本人はこれを強音で発音し拍数がふえてしまう。さらにこまかな説明である。

通常では弱音になるものでも疑問文の先頭の「do」とか否定文の「don't」は強音になる。これは注意しないと気づかない。これと弱音がある時に日本人は全部おなじ、強音で発音してしまう。間違いである。強音をきちんと発音し前後の弱音をその息で発音する。これができないのでなめらかに発音できない。つまりついてゆけなくなる。

弱音が三つつづいてるようにみえる時には注意したほうがよい。どこかが強音になってるはず。強音をきちんと発音すればネイティブについてゆけるようになる。さらに機微にわたることがある。母音の発音でどう喉の筋肉をつかってるかである。

* 母音の筋肉はどううごかす
率直にいうがまったく私の感覚の説明。どこまで一般性があるかわからない。
一、イは口蓋の上の奧、声帯の入口近くを緊張させる。大袈裟にやると顔の表情に変化がでる。犬がおこってる時にながくきれてる口の端だが唇をゆがませておこってる。あんなイメージである。
二、アであるが奧の筋肉で声帯を引つぱりあげてる。大袈裟にするとお腹にまでひびく。これは上川さんもいってる。さてもうおわりである。

* 窮作文庫に「英語がうまくなりたい」をまとめる
今後、これまでのブログを整理し私のホームページ窮作文庫(http://www006.upp.so-net.ne.jp/kusaq/index.html)にまとめて発表する。関心のあるむきは是非ご覧いただきたい。


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スパルタの崩壊とその遺産 [英語学習]


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* はじめに
イーゴスポトマイの海戦に勝利したスパルタはギリシャの覇権をにぎる。だがその時期はながくなかった。マイシニア人の奴隷の解放によりスパルタの栄光はおわった。スパルタの特異性、後世にのこる影響をかんがえる。スパルタ全体の歴史をあつかったユーチューブから関係部分をまとめた。参考情報だが私のブログではスパルタの全体の歴史を概観した三部作やペロポネソス戦争の一連の歴史の末尾の数部作などがある。
(Rise and Fall of the Spartans |2|、Stelios Christakis、2012/10/04 に公開)

* アテネの敗北、その運命
イーゴスポトマイ(aegospotami)の敗北の後にアテネ市民はアテネの港町であるパイリアスの防御壁の後にかくれた。スパルタの艦隊を指揮するライセンダは船をつらねて港の入口を封鎖した。アテネは艦船をすべてうしない完全に包囲された市民は食糧供給の手段をうしなった。彼らが飢え死にするのは数ヶ月の問題である。

紀元前四〇四年にアテネは降服した。ライセンダは都市内にはいり政府の支配をうばった。二十七年間のペロポネソス戦争がおわった。アテネ市民は凍りつき石になった。彼らは戦争の遂行のなかで他の都市にやっていたこと、それがおきる。すべての男はころされ、すべての女と子どもは奴隷にうられる。スパルタの強力な同盟者であるシーブスとコリンスが圧力をかけた。彼らはアテネを灰にし奴隷とするようもとめた。しかしスパルタはちがう方法をとった。この戦争のおわらせかたである。アテネを破壊しなかった。スパルタの市民のなかに同調するものがおりアテネがのぞんでたことだった。

* スパルタの方針
アテネを破壊しなかったのは慈悲の心からでない。政治的な考えである。スパルタの同盟国はアテネの死をねがった。しかしライセンダはこれにより力の空白がうまれることをおそれた。ここにシーブスがはいってくる。そこでスパルタにとり重要になったこと。アテネを破壊しないのなら何をするのか。あたらしい外交政策がはじまった。それはスパルタのおわりのはじまりだった。

* アテネの凋落
紀元前四〇四年、この戦争がおわりアテネの栄光もおわった。戦争がもたらしたもの。すべての世代が戦いをすることしかまなばなかっ。想像力をつかい都市を発展させる投資が建築、文学活動、都市計画などにできなくなった。アクロポリスの偉大な建物の建設が停止し、悲劇の公演が徐々になくなった。偉大な歴史がさっていった。アテネは勝利したスパルタが栄光の帝国への道をすすむのをみた。海軍は解散し防御壁の破壊が要求された。防御能力がうしなわれた。アテネは資金力をうしない艦船をうしない スパルタの同盟に参加することをもとめられた。他の同盟国と同様のスパルタがもとめるところにゆくことももとめられた。

* アテネ、三十の専政主、民主政治の弾圧
あらたに政府が発足した。かっての民主政治がかわりミニスパルタとなった。スパルタは可能ならどこでも民主政治を貴族政治にかえようとした。スパルタは彼らをあまりに好戦的な国家だとかんがえた。彼らはすぐに大衆政治の弊害にそまる。すぐ混乱におちいる。異様なかんがえにそまりやすいとかんがえた。和平の条件である。

アテネに貴族政治を原理とした政府をつくる。それを三十人のスパルタの同調者であるアテネ人が監視する。これは三十の専政主とよばれた。アテネを占領しスパルタが最初にやったのは政府の建物にはいることだった。ライセンダの指導のもとにおこなわれた施政はおどろくほどの失敗だった。彼は非常にすぐれた将軍だったがかならずしもすぐれた政治家ではなかった。三十の専政主は非スパルタ勢力にたいしきびしい弾圧に乗りだした。彼らは実にひどいことをやった。これまでアテネで味わったことのないひどい内戦となった。彼らは千五百人の市民をころした。当時のアテネの男性の数が二万五千と推計されるからこれは血まみれの内戦だった。アテネの民主勢力は海外に逃亡した。彼らはアテネの民主政治を回復するためもどってきたが、その時、スパルタの王はこれを支持した。パウセニアス王は伝統をおもんじることに忠実な王であったが彼はライセンダのやることにはいつも反対した。また二人の王のあいだにも争いがあったというのはいいすぎでない。

* スパルタの意見対立、ギリシャ世界の分断
アテネに勝利してから数ヶ月たった。スパルタは深刻な意見対立により分断されれた。それにおうじおおくのギリシャの都市がどちらにつくかを強制された。どちらにもつかない姿勢のおおくの市民がころされた。ペロポネソス戦争は民主政治か貴族政治かの選択が自分自身の安全の選択であることをおしえた。中道をもとめる人々やことなる政治的立場の人々、経済的な差がある人々、これらの人々と橋をかけようとする人々は最終的に死がおとづれることをおしえた。これは誰もが勝者とならなかった戦いであった。

アテネは戦いにやぶれ帝国をうしなった。二度とかっての栄光を取りもどすことはなかった。スパルタにも奇妙なことがある。スパルタもこの戦争により荒廃した。非常に皮肉なことだがスパルタの勝利の瞬間から将来の崩壊への道筋がつけられた。アテネに貴族政治を導入してからライセンダはかってアテネ帝国にぞくしてた都市に政治体制の変更をもとめた。スパルタはただちにそれぞれの都市に十人の貴族政治家を配置した。都市の解放をおこなうより市民に自分たちの政治体制を強制した。市民からみればそれは拙速。アテネのやりかたを拙速に否定してるとかんじさせるものだった。彼らは今までのやりかたをすててスパルタ風の教育やつつましい食事にかえない。アテネのドラクマ貨幣をスパルタの鉛の貨幣にかえない。スパルタ人はアテネ人とちがい口下手な人々だった。

彼らは他のギリシャ人があつまってくるような事業を提案することもできなかった。あたらしくはじまったスパルタの政治は征服された人々を納得させる魅力がなかった。そのような資質はあきらかにスパルタの文化にはかけてた。その文化は想像力がかけてた。彼らは大胆さにかけてた。魅力がとぼしかった。他のギリシャ人を犬のようにあつかった。彼らは自分たちを特別にすぐれた種類の人間とかんがえた。海外にでた将軍や指揮官は彼らが征服しようとしてる人々に苛酷だった。ギリシャの世界ではこの場合スパルタのような暴力をふるう人種にかえより洗練された人物を帝国の主人にしようとする。

* 苛酷なスパルタへの反発
スパルタが自分たちの軍にかしたきびしい規律はさておき、それを他の人々にかす。それは同じでない。たとえば艦船の船員に鉄製の錨を肩にかつがせ一日中たたせる。こんなことされたらほこりたかい人々は反発する。スパルタ人は人気をえることができなかったスパルタがわかいスパルタ人にあたえる訓練をかんがえる。自分の班にいなければ問題にしない。世界はうまく立ちまわる。よい人は利用される。これがエーゲ海の人々にも適用される。彼らは強欲にたいする。これが同盟の人々とのいさかいを引きおこす。

スパルタと同盟をくみ二十七年間たたかってきたのはそのようなスパルタのためでない。スパルタはアテネの次の帝国の道をあゆもうとしてる。これは同盟都市にとっては衝撃である。彼らはアテネの桎梏をはなれ自由なエーゲ海の民となる。その解放者として期待してた。実際はスパルタは自分たちがほしいものをえる、そのよい機会がきたとかんがえてた。

* アテネの反乱、 貴族政治の追放、同盟国の反発
最初にスパルタの覇権に対抗して反乱をおこしたのはアテネであった。紀元前四〇三年、アテネ人がパイリアスにもどってきた。ライセンダが設立した三十の専政主政治への反乱に成功した。

アリストートルがいう。戦場における勇気で文化をつくろうとしても意味がない。恒常的にあつかわねばならないのは平和だからである。スパルタ人はこれを理解してなかった。戦争に勝利してえた平和が一年ももたなかった。同盟国との連帯がすぐくづれた。ペロポネソス戦争がおわって後におけるスパルタの致命的な失敗は同盟都市を安心させることの重要性を過小評価したことだった。ギリシャにおいてどれほど強力な軍事力をもっていても同盟都市の協力なしではうごかせない。それにくわえペルシアという巨大な存在を無視することができない。スパルタはこれらの都市を友邦として維持する方法を見つけねばならなかった。ところがこれらのすべてと仲違いしてしまった。これが彼らを待ちうける崩壊への道筋である。

* シーブス、コリンスの同盟離脱、スパルタの新王の登場
スパルタはほどなく二つの強大な同盟都市の憎悪を引きおこした。それまで忠誠心をしめしていたシーブスとコリンスである。十年もたたないのに戦争がはじまる。今度は無敵をほこったスパルタの軍が回復不能なほどの敗北をきっすることとなる。

紀元前三九八年頃である。変化の嵐がふいた。スパルタ帝国への道をささえてきた王がしんだ。彼の弟のアジェスレイアスが王位をついだ。彼は筋金いりの帝国主義信奉者であった。友邦国をいっそう締めつけた。

* シーブスの台頭
これがシーブスをいっそうとうざけた。実際にあたらしいシーブスが登場しその憎悪をいっそうたかめた。シーブスはながいあいだよき同盟国でありアテネの北方のビオーシャにある。ペロポネソス戦争においては地理的、戦略的に枢要な位置にあった。スパルタはシーブスの協力をえてアテネに勝利した。

しかしシーブスはスパルタのしらないあいだに、この戦争を利用して国力をまし富裕となっていった。田園地帯でみつけられる有用なものすべてシーブス人は荷車ではこぶ。それだけでなくこの戦争を遂行してゆくうちに彼らはオート麦を軍事的な力として利用できるとかんがえるようになった。そして彼らはビオーシャの統一に成功した。戦争が沈静化してゆく頃にはより強力な政府を樹立させることに成功した。ペロポネソス戦争が進行してゆくなかでシーブスはしんじられないほどの変革をおこした。非常に保守的な自作農たちが突然に民主主義社会を作りあげた。それはそこにすむすべての人々を巻きこんだものだった。

* シーブスの軍事力強化
民主主義シーブスはアテネにちかい。そうかんがえるとこれはスパルタを恐怖におとしいれた。同盟国の市民のあいだにながれる風にスパルタは従来どおりの外交方針でおうじた。スパルタはシーブスを宥和し力を共有するより彼らの弱点をつき彼らを自分たちのいいなりにしようとした。シーブスの民主政治を押しつぶしその独立をそこなった。スパルタは非常に苛酷な攻撃をくわえ、その政府の転覆をはかった。これはおおきな反動よんだ。これはスパルタへの反感を生みだしただけにとどまらずシーブスの社会におおきな変革をもたらした。彼らは一万の重装歩兵隊をつくった。彼らは肉体的にすぐれた兵たちでありよく訓練され戦略的思考にもすぐれスパルタの軍とおなじほどの優秀な軍であった。彼らはスパルタに憎悪をもっていた。

イパマナンデス将軍が彼らを引きいた。彼は極めて優秀な将軍でありスパルタの将来におおきな影響をあたえる。彼は熟考とともに戦略をねる。その戦略はこれまでかんがえたことのないものである。戦いがはじまった。アジェスレイアスは断固としてたたかい 貴族政治を維持することに成功した。だが彼は戦いのたびに大切なものをうしなった。兵である。長期的にみるとスパルタは兵力をおおくそこねた。さらに頻繁なシーブスとの戦いは彼らのあたらしい態勢の軍に向上の機会をあたえた。イパマナンデスはここですぐれた才能をみせた。軍事の天才であり政治にもすぐれてた。

* 硬直したスパルタと復活するアテネ
それにたいしアジェスレイアスはスパルタがもってる知恵に基本的に注意をはらわなかった。それはおなじ敵と頻繁にたたかうな。敵が自分たちの戦法になれる時間をあたえるなである。イパマナンデスはスパルタの戦法をまなんだばかりでなく彼はその対抗策も編みだし勝利した。スパルタには不運がある。彼らはあまりにおおくシーブスとたたかった。相手の軍事力はどんどんと上昇していった。その軍事力は強力でありあらたな戦法に対応しており非常に効果的な戦術をもってた。イパマナンデスはさらに利用できる強力な力があった。アテネである。

紀元前四〇三年、アテネは三十人の専制政治を追放してから、徐々にかつ着実にその海軍力を強化してきた。彼らはあたらしい世代の兵を訓練し強力な民主政治をそだててきた。民主主義の観点からいえばペロポネソス戦争における敗戦はアテネにとり最善の幸運だった。極めて示唆にとむ皮肉かもしれない。スパルタ人が擁立した血まみれの貴族政治後に、民主政治が復活した。その頃の流血の時代に一貫してシーブスの重要な同盟都市だった。またシーブスはアーゴスとコリンスとも強力な同盟関係をもった。

* スパルタとシーブス、アテネ、コリンスなどが対決
この統一された戦線でスパルタに対抗した。ここで鍵となるのはコリンスである。ここは地理的に北のビオーシャ、シーブス、東のアテネ、西のアーゴスをむすぶ重要な位置にある。またペロポネソス同盟の構成員である。その影響はおおきい。

紀元前三七九年、シーブスにおいて反乱をおこした勢力はスパルタ流の貴族政治の排除に成功した。シーブスの他にスパルタに反感をもつ都市国家はシーブスからの支援をえることができるようになった。そのような都市がふえていった。またスパルタの帝国主義や覇権をかならずしもきらっていない都市国家の話しである。そこにあたらしい不満がたかまっていった。スパルタが自分の兵より同盟の兵を犠牲にして勝利しようとする。そんな不満である。

* スパルタ兵の不足、同盟国にたかまる不満
同盟も参加する戦いにおいてスパルタは名誉の右翼をになう。彼らはこれに固執する。敵の側もおなじく強力な軍を右翼におく。するとスパルタはこれにぶつからない。スパルタは普通はよわい部隊にぶつかる。ここでもし、うたがわしい同盟軍を左翼におけば意図的にそれを排除することができる。スパルタは露骨にこのやりかたをとった。

* ルトラの戦い、イパマナンデスが重装歩兵隊をやぶる
非常に皮肉なことがおきた。もっとも孤立主義をまもり、もっとも反帝国主義であり絶対必要でなければたたかおうとしない都市国家たちが彼らの支配をまもるためにいたるところでたたかうこととなった。彼らはビオーシャにあるルトラにあつまった。その理由はいろいろ。彼らはスパルタ人に抑圧されてた。彼らはスパルタ人とともにたたかい彼らをしった。彼らはすぐれた将軍をもってた。特にシーブスは想像できないほどすぐれた将軍をもってた。彼らは重装歩兵による戦いでスパルタをやぶった。

紀元前三七一年、あたらしく民主政治に復帰したシーブスの地にスパルタがもどってきた。もう一度 貴族政治にもどそうとした。ルトラの平原で彼らはぶつかった。イパマナンデスは三百の選りすぐりの兵、神聖部隊やほか多数の同盟軍を引きいた。シーブスは斬新な戦術を用意してた。それはスパルタ重装歩兵に対抗しようとするものである。イパマナンデスはそのもっともすぐれた部隊を左翼においた。その編隊は従来より何倍もの厚味をもってた。それは選りすぐりの部隊がおこなう接近戦の戦いであった。彼はスパルタの兵をころすがペロポネソスの同盟軍の兵をころさない。彼は 自軍側の同盟軍もころさないという作戦である。シーブスがスパルタに立ちむかう。

* スパルタ軍の壊滅の理由、革新能力の欠場
スパルタは敗北というより破壊された。七十パーセント以上の部隊の兵がころされた。その理由は二つ。まず戦術の革新に対応できない硬直性。革新しようとの意志もなかったろう。たとえばシーブスが厚味をましたあたらしい編隊。あたらしい武器への対応である。もう一つは単純である。兵数の不足。もはや充分な兵を招集することができなかった。ペルシアとの戦いでは九千をそろえた。五千をペロポネソス戦争ではそろえた。だがそれからは減少するばかりだった。

スパルタのひどい敗北だった。彼らの無敵神話は崩壊した。イパマナンデスはこれでおわりとかんがえてなかった。これからはじまることを見すえていた。敗戦の後にスパルタの軍は退却して本国にもどった。あたらしく軍を再編する必要がある。これは大敗北であったがもしスパルタに変革の力がのこってれば致命的な打撃でなかった。だがまさしくその力がなかった。スパルタの最大の強みはその社会構造であり政治構造である。それが彼らの力の源泉であり安定性の源泉であった。しかしそれが今や弱点であり自分自身を変革できない原因となった。

紀元前三六二年、スパルタはふたたびシーブスにやぶれた。それは第二回目のマンテニイの戦いであった。スパルタの保守主義は極めて強固だった。彼らは経験からまなぶことができなかった。何度も失敗を繰りかえした。その典型がマンテニイの戦いである。彼らはまったくルトラの戦いとおなじ戦術でたたかってやぶれた。スパルタは彼らの伝統である重装歩兵隊でやぶれたばかりでなく、あたらしい戦術の変化に対応する戦術を編みだすのに必要な柔軟性をかいた。戦争は進化する。戦争をするには勇気、強さだけでなく知識や科学が必要である。もし飲み水に毒をいれられたら夜襲のおそれがあったら投石機、弓矢、投げ槍の攻撃があったら、これらに対応が必要である。スパルタが確立した戦術が崩壊しはじめる。

* スパルタ軍壊滅の理由、人口減、スパルタ兵の不足
しかし彼らは生まれたばかりの男の子にする残酷な選別をやめない。苛酷な訓練をしいるアゴギをやめない。彼らは遺伝的におとる者を排除するがその基準は厳格すぎた。三七〇年頃に成人男子が千まで減少した。皮肉なことだが勇気を第一とするスパルタの理想、臆病は罪とする考えはもっとも優秀な戦士を戦場からスパルタにある墓場に追いやった。戦場から逃亡することがかならずしも臆病とはいえない。それは戦場で他のすべての人がころされ自分が生きのこる価値があるならという仮定でそういえる。

人口が減少した。それは出生率の低下が一つの原因であるが、すくなくとも半世紀のあいだつづいた。夜の営みからの逃避、もし発見されれば罰があたえられる。それはそれほどおおくはなかった。だが子どもを生む機会を減少させることは悪名たかいスパルタの人口減に貢献したことはたしかである。もし子どもをたくさんんうむ人口の増をのぞむなら、生産性のたかい十五、十六、十七、十八の年齢層の女子が必要である。古代においては幼児の疾病罹患率のたかさ死亡率のたかさ、これらへの処方箋が必要である。

選りすぐりの兵士の数が絶望的に不足してる問題があるが、スパルタの仕組みのなかにさらに下士官の数を抑制する傾向があった。階級をさげるのは簡単だがその反対の昇進はほぼ不可能だった。格下げにはいろんな理由がある。共餐仲間に食事を振るまわなかった。戦場で臆病な振る舞いがあった。日常生活のなかでわるいことをした。格下げをうけた者は復活の機会がほとんどなかった。そのためスパルタ社会を不安定化する階層がうまれた。彼らはスパルタ人にうまれ、訓練をつうじスパルタ人としてみとめられたがその市民権をうばわれたものである。スパルタのような名誉がすべての社会で彼らはすむ場所がなかった。スパルタはこれを仕方ないこととみなした。。考えかたをかえて社会に組みいれる。率直にいえば富を基準にあたらしい市民層をつくる。だがこれはスパルタ社会へのきびしい告発としてまったくふれることができなかった。かくして弱体化したスパルタははじめて侵入をうけ自国の防衛にまわることとなった。

* ラコニアに侵入されたスパルタ
このもっとも窮地におちたスパルタはよりによってシーブスの将軍、イパマナンデスの侵入に対抗しなければならなくなった。彼は先見性にとんだ将軍である。彼はペロポネソスの勢力地図をあたらしくえがく。そしてスパルタの力の源泉となった根本を切断しようとする。彼はスパルタの物理的な力を破壊するばかりでなく、その無敵神話を破壊しようとする。これが強力なスパルタの復活に決定的な打撃となる。ヘロットをもたないスパルタはもはやかってのスパルタとなりえないことをわかってた。彼らはヘロットの農業による生産力に全面的に依存してた。ヘロットがいなければ第一級の勢力となりえない。

* イパマナンデス、マイシニア人奴隷の解放
シーブスと同盟のアテネ、コリンス、アーゴスはスパルタを破壊するという今回の作戦の第一局面を開始した。紀元前三六九年のはじめにマイシニアに到着した。そしてもはやマイシニア人は奴隷でなく、かっての先祖がもっていた地位を回復したと宣言した。自由で独立したギリシャ人となった。これは米国における奴隷解放宣言のようなものであった。イパマナンデスは部隊をおくりほぼ四ヶ月とどまった。そこで奴隷解放をおこない巨大な壁をつくりあたらしい都市、マイシニアの守りとした。彼らは長年奴隷とされてたヘロットの子孫である。スパルタは彼らの独立、生活を犠牲にしてきた。彼らは今や死にゆくスパルタをながめることとなった。スパルタが何世紀ものあいだ絶対にあってはならないと警戒してたことマイシニアの独立が成功した。ヘロットが壁をきづいているあいだイパマナンデスはその作戦の第二局面にすすんだ。

* イパマナンデス、メガロポリスの建設
同盟軍は戦略的地点、アルカディアの北に都市を建設しそれを要塞化した。メガロポリスという。ギリシャ語で偉大な都市の意味。それはスパルタの復活を警戒する人々の手により要塞化された。こうしてスパルタはほろびゆく恐龍のような存在となった。イパマナンデスはスパルタを追いつめる。七万の部隊を指揮下においた。彼は極めて優秀な将軍であった。その権威だけで軍を編成し六百年ものあいだ進出不可能だったラコニアに進出した。有名な諺がある。六百年のあいだスパルタの女性たちは敵軍の戦火の煙をみたことがないという。敵の侵入にたいしスパルタは以前にはありえない行動をとった。退却した。そしてあきらめてギリシャ世界において第二級の勢力となることにあまんじた。

* スパルタの栄光のおわり
歴史は逆流した。人口の減少、閉鎖された地理はスパルタに不利にはたらいた。さらにイパマナンデスという将軍の登場もそうだった。マイシニアの解放、紀元前三七〇年からスパルタは再生することはなくかっての力はもどらなかった。

彼らは温室のような環境、それにより腐敗や誘惑をとおざけることができた環境でえた成功からころげおちた。他の都市に注目があつまる。スパルタはかっての栄光の影のような存在となった。そして今にいきる博物館のようになった。事実、ローマの時代にヘイドリアンのような指導者がやってきてその独特さをほめた。

歴史家、ツキジデスはもし未来の人々がアテネをみた時にアテネは十倍おおきくみえる。だがスパルタは反対に十倍ちいさくみえるといった。彼らはおおくをみせなかった。その遺産を子孫にほとんどのこさなかった。家屋は簡素、寺院は簡素であった。スパルタの力がおとろえてしまうと人々がみるものがほとんどなかった。アテネは今までつづいただけでなく世界が賞賛するものをのこした。しかしスパルタものこしてるものがある。戦火がおさまらないうちにアテネの知識人たちはスパルタの高貴な側面を彼らの都市国家に復活させようとした。

* スパルタを評価する人々
スパルタは国の基本をしめす法をさだめた先駆者である。相互監視と釣り合いの先駆者である。他のギリシャがこれを模倣した。おおくの都市国家は深刻な内戦を経験してる。しかしスパルタにはなかった。何故か。今の我々ならできることだが当時の彼らは民主政治とは、貴族政治とは、あるいはそれらが入りまじったものは。これらを区別することができなかった。ながい期間に何度も問題となってきた安定性の問題がある。彼らはある意味、美徳を堅持するギリシャ文明の理想である。このためソクラテス、ゼネフォン、プラトンは自分たちの共和国のなかにもあることをみとめている。

この後の二千年のあいだ哲学者や政治家が何度もスパルタの栄光に立ちもどってる。イタリアのルネッサンス期には理想とみなされた。その 貴族政治がもつ安定性はベニスの模範だった。十八世紀のフランスにおいてスパルタを好意的にあつかった。ルソーはスパルタを人でなく半神が支配する共和国とよんだ。おおくの人々がスパルタのような名誉ある死を希望した。アメリカの革命期において安定した民主主義国家を目ざす人々にとってはスパルタはあこがれの国であった。トーマス・ジェファーソンは地元の新聞をよむよりツキジデスの歴史からおおくをまなぶといった。ツキジデスはいってる。この極端な民主主義がどうなったか、アテネがペロポネソス戦争にどうやぶれたのかを説明してる。私は何故、我々の憲法にジェファーソンやその友人たちがアテネよりスパルタが取りいれられたのかわかる。

アメリカの民主主義を創設した人々はアテネの民主主義をさして取りいれるべきでないといってる。それはおそるべき実例である。貴族政治の考えをもつ人々の監視をへない直接民主主義である。スパルタはすべての人が公共意識をもち市民を最初にかんがえる人々であるという。今日のアテネをみる。そのパルテノン神殿をみて民主主義の揺り籠とおもう。だがそれは彼らの揺り籠であったが我々の揺り籠でない。

* スパルタ社会のくらい側面
二十世紀にはいってスパルタはあらたに出現してくる民主主義が関心をしめすばかりでなく彼らの社会がもつもっと邪悪な側面に関心をしめす指導者がでてきた。ドイツのナチはスパルタを理想化して国の教科書にのせた。ヒトラーとその友人たちはスパルタについて肯定的にとらえ、ヒトラーは他の国をドイツの戦士階級のヘロット、奴隷にする希望をあきらかにした。スパルタはソビエトやドイツのナチににてる。もし人々をいくつかの集団に強制的にわけ、すべての人々の生活を支配するような中央政府をつくり、つよい軍隊をもったらそうなるだろう。こうかんがえるとスパルタは全体主義の発祥となるといってよい。

* スパルタ軍の規律、いまにまでつたわる伝統
今日においてもスパルタからまなぶことはある。スパルタは西洋の軍の規律の創設者であり確立者である。それはギリシャ、ローマ、中世、ルネッサンスから現代にまで生きのびるおおくの利点をもってる。

西洋の規律とちがう規律がある。イラク、イラン、現地の部族の規律と比較するなら、それはすぐれてる。我々の軍隊の規律はそのおおくをスパルタにおってる。我々は人生において名誉が重要な要素であることをしる。我々は名誉なしでいきることはできる。物質があればいきることができる。だが名誉なしでしぬことができない。というのは我々はしぬ時、自分の人生の総決算をする。そこにあるからである。

* スパルタが人々にしいた犠牲
スパルタの偉大さはそうだが、それはおおくの人々がはらったおそろしいほどの犠牲のうえに成りたっているという事実をおとすことができない。彼らは人間が上品におだやかにいきるのに必要な性質をすべて抑制しなければならなかった。もし彼らの残酷さ、自己中心主義、偏狭さをある程度ゆるすとして、優秀さと名誉ある地位を達成した。だがそれは自由を犠牲に彼ら自身の自由をも犠牲にして達成したものである。それは人間がさかえるために必要なものかもしれないが、まったく滑稽な戯画である。

* スパルタがのこした教訓
スパルタは結局のところ自分たちがやったことに値するものをえた。現代社会は歴史からまなぶことができるという利点をもつ。だからスパルタがあたえるもの、すてたもののなかから最善のものをとることができる。

(おわり)
お知らせ
次の簡略ギリシャの歴史シリーズを窮作文庫に収録しました。ブログ掲載分を修正し転載したものです。みやすくなったとおもいます。一度のぞいてみてください。

序論など)
序論
ミノア文明
マイシニ文明の一
マイシニ文明の二
ホーマーと暗黒時代
古代ギリシャと都市国家
密集隊戦法
スパルタ
アテネ
ペルシア
(ギリシャとペルシアの戦いなど)
マラソンの戦い
テルモピレの戦い
サラミスの戦い
プラティアの戦い
マイカリの戦いとデリアン同盟
アテネ帝国
ペリクリースの時代
(ペロポネソス戦争)
第一次ペロポネソス戦争
ペロポネソス戦争の一
ペロポネソス戦争の二
ペロポネソス戦争の三
ペロポネソス戦争の四
ペロポネソス戦争の五
ペロポネソス戦争の六
ペロポネソス戦争の七
ペロポネソス戦争の八
ペロポネソス戦争の九
ペロポネソス戦争の十
ペロポネソス戦争の十一
ペロポネソス戦争の十二
ペロポネソス戦争の十三
ペロポネソス戦争の十四
ペロポネソス戦争の十五
(スパルタの覇権など)
スパルタの覇権
一万人の行進の一
一万人の行進の二
小アジアの騒乱
(コリンス戦争)
コリンス戦争の一
コリンス戦争の二
コリンス戦争の三
コリンス戦争の四
(スパルタの崩壊など)
コリンス戦争のあと
平和なし
ルトラの戦い
アルカディアとマシーニアの反乱
マンテニイの戦い、最終のゲーム
ウルブルンの難破船

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スパルタの栄光、その三、栄光から崩壊 [英語学習]

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* はじめに
シラキュースにおいてスパルタ王が指揮するシラキュース軍がアテネをやぶった。さらにペルシアの資金で強化されたスパルタ海軍がアテネをやぶった。アテネの防御壁が破壊された時にスパルタはアテネにかわってギリシャの覇者となった。だがその栄光はながくない。奴隷制にたよった軍事国家は内部崩壊してゆく。あらたに登場したシーブスとの戦いにやぶれスパルタ軍はほぼ消滅した。シーブスが奴隷を解放しスパルタの栄光は完全にきえた。ここではスパルタの栄光と崩壊をあつかう。

(The Spartans - Part 3 of 3 (Ancient Greece Documentary)、Timeline、World History Documentaries、2017/08/28 に公開)

* デルファイの神託
ここはデルファイである。古代ギリシャにおいて宗教的に非常に重要な場所である。ギリシャ人にとってここは世界のへそ(中心)である。まだ天と地がはっきりとわかれていなかった太古と今をむすぶへその緒のようなものである。デルファイは神託で未来をのぞく窓となる。神託は精神世界との交流から日常生活の助言にいたる多様な人々の必要にこたえてくれる。恋愛問題から外交問題まで人々は神託をもとめてやってくる。この夏にアテネがあるアティカに侵入してよいか。レアンドロあるいはレオニダスと結婚してもよいか。その答は奇妙な現象のなかからやってくる。それは年おいた女神官、預言者の老女からやってくる。彼女はわかい処女の服装に身をつつんでいる。

彼女は薬物の効果により自分自身を興奮状態におく。幻覚をおこさせる草を口にふくみ月桂樹の葉のうえで毒性のある草をもやして、その煙を吸いこむ。こうして自分自身を興奮状態におく。そしてうわ言を口にする。そこに神意が吹きこまれたようにみえる。彼女の発言を男の神官が書きうつす。うつくしい詩文にかえる。これが神託である。

* 神託をおそれるスパルタ人
神託は難解である。その真意は事件がおきた後にあきらかとなる。これがよくおきた。そしてこれがたぶん紀元前五世紀頃にすこし時代遅れとなってた理由だろう。ギリシャでは懐疑主義や合理主義のあたらし思想はまだはいってない。これは人間と神と宇宙が存在するという根本的信仰に疑問をもつというものである。アテネで 哲学者は太陽をあかくねっした岩とかんがえ劇作家のアリストファニは雷を宇宙が消化不良をおこしたわるい例だといって冗談にした。しかしギリシャでアテネ以外のどこでもこのような考えかたはなかった。

スパルタ、ユラテスの谷は安全で事件がない。ここでは神は天にいましてすべて世界はこともなしとしんじられた。スパルタはかって革命的な社会であった。それは二百五十年前のことである。今やそれがつくった社会体制は固定化しかえることのできない伝統となった。スパルタの選良たる戦士は変化に臆病となり新規のことには敵意をしめすようになった。十年間、スパルタはアテネと戦争状態にあった。アテネは革新的な民主主義を生みだし、ますますデルファイの神託に懐疑的となった。ところが保守的なスパルタの人々にとりその価値はゆるぎないものだった。女神官がかたることを彼らはつつしんできいた。だからもし紀元前四一五年にスパルタ人がやってきてスパルタの未来について神託をもとめたら、そして女神官が神託をつげたなら非常に憂慮すべき知らせを持ちかえったろう。スパルタはその最大の敵、アテネの壁が破壊されるのをみるだろう。勝利のよろこびが爆発するだろう。だがその勝利も腐敗し最後にはきびしい敗北となるだろう。

* アルソバイアデス、シラキュースとの戦いを主張
スパルタとアテネの戦いは流血の惨事である。どちらがかったときめがたいものだった。十年の戦いが多数の死者をだしたが決定的なものでない。アテネの悲惨な疫病と屈辱的なスファテリアにおけるスパルタの降服の後に両者は一時休戦の協定をむすんだ。だがこの協定の六年後にはなばなしくもシラキュースとシシリーで戦いがはじまる。ギリシャから数百マイル(百六十キロメートル)はなれたここで、アテネは大敗北をきっした。ギリシャのすべての都市が地中海およびそれをこえる領域で植民地建設に乗りだした時代、シラキュースの都市も建設された。

この戦いにおいてギリシャの世界は二つにわかれた。それはスパルタとその同盟、それにたいするアテネである。紀元前四一五年、アテネにおいて戦争の気運がたかまった。その議論の焦点となったのがシラキュースである。その戦いを主張したのはアルソバイアデスである。彼は頭がよく美男子で野心的だった。典型的なアテネ人だった。彼には大衆人気があった。当時のアテネにひろまってたあたらしい思想の潮流にのってた。ソクラテスは彼の友人だった。彼の政敵は彼が無神論者であり神を冒涜してるという噂をひろめた。アルソバイアデスは美食家で酒をのみ美女をあいした。ソクラテスの忠告をきかなかった。アテネを疫病がおそった時に神を馬鹿にする言葉をはっしたという噂があった。だが彼が戦争をかたる時に市民は耳をかたむけた。

スパルタとアテネの戦いをかんがえる時、スパルタが好戦的にみえるが、かならずしもそうではない。アテネはその帝国主義の野心をみたすことに貪欲である。また戦いに賛同する三万人のアテネ人をみつけるほうが戦争に賛同する一人のスパルタ人をみつけるより容易だという。アルソバイアデスが好戦論を主張する時に彼は充分な手応えをかんじることができた。

* アルソバイアデス、スパルタに逃亡
艦船がうごきだす前に事件がおきた。神を冒涜する事件がアテネをさわがした。そのいたるところでエルメスの神像が破壊された。夜のあいだに何者かがおこなったという。上品な言い回しでは鼻がかけたというが事実は男根の破壊だった。アテネの将来に不安をなげかけ盛りあがった戦争気分に水をさした。不吉な予兆があらわれ犯人さがしの声があるなかで艦船は出発した。そこにはアルソバイアデスものってた。

彼の政敵は彼の不在を利用した。彼の名声をおとしめ、わるい噂をひろめた。その結果、アテネの当局は彼の召喚命令をだした。陰謀の罪、涜神の罪にとうためだった。アルソバイアデスはアテネ市民が噂に迎合する無定見さをよくしってる。彼自身もまた自分の目的のため世論を操作してた者である。彼の主張をまともにきいてもらえる可能性はひくいとおもった。逃走することにした。その行き先はなんとスパルタだった。そこににげて彼にどのような成算があったのか。彼は大衆政治家である。大衆受けする振る舞いはできる。スパルタでは衣服はみすぼらしい。生粋のスパルタ人にとっても食事はまずい、しかし彼はスパルタとあいいれない人物ではなかった。彼の背景をさぐると関係がありそうだ。彼の家族もアテネの貴族階級の人々とおなじようにスパルタと関係があった。彼自身もスパルタ名をもってた。彼はスパルタ人の養育係にそだてられてる、彼自身のスパルタとの関係にはこいものがあった。

* アルソバイアデスの恋愛事件
しかしスパルタの大衆は彼のおそるべき魅力にも心をうごかされなかった。だが噂によれば彼は王の妃、ティメヤを魅了したようだ。スパルタの性についての倫理観は奇妙なものだった。スパルタ以外のギリシャでは不倫は罰をうける罪である。しかしスパルタでは既婚女性がもし夫の同意をえるならば夫以外の男性を愛人にもつことができる。それはフリーセックスというわけでない。スパルタにおいては人口減の問題が 深刻であった。そのため一夫一妻制や核家族といった考えは重要でなかった。大切なのは健康な男の子どもをうむことだった。そのためにつよくて勇敢で多産な男性をもとめることがあった。これが本当か王が同意したかしなかったのか、たしかでない。だがこの問題はアルソバイアデスがスパルタをでていったあともながく問題としてのこった。

* アルソバイアデス、スパルタ王にシラキュース遠征をすすめる
さてアルソバイアデスは自分を受けいれてくれたスパルタにお返しをした。。彼はシラキュースにおいてスパルタと同盟しようとする人々に援助をあたえるよう助言した。これは従来のスパルタの発想ではまったくでてこない革命的だった。彼は説得してまわりジュリペス将軍がおくられた。それは費用をかけず海外に自国の防衛軍をおくる方法だった。これはアテネの数千人の兵たちには致命的打撃となる助言であった。

* アテネ、シラキュースで大敗北
王の遠征は最初から順調だった。ジュリペスが到着してからアテネにとり事態は不調となった。ジュリペスは彼自身がすぐれた戦略家というわけでなかった。しかし敵に包囲されたシラキュースの人々にとってスパルタの戦士がいる、そのことだけで士気があがった。彼らの反撃がはじまった。アテネは補強部隊をおくらねばならなかった。丘のうえにある砦に大規模な夜討をかけた。すこしずつ頂上にむけ前進していった。ある時点で彼らの攻撃が成功したようにみえた。夜明けとなった。アテネの兵たちは疲れはてた。彼ら港にある自分たちの野営地まで押しもどされていった。彼らのすべてがシラキュースから逃亡したいとおもった。彼らがシラキュースから出発しようとした夜である。普通ではない現象がおきた。神の存在をしんじることがもっともすくない人々である。だが月食という現象をみて不吉な予兆をかんじざるをえなかった。野営地の神官は落ちつくようにいった。また次の満月までには予兆はよくなるといった。その判断は間違いだった。ジュリペスは艦船の錨をおろしシラキュース湾の入口を封鎖するようめいじた。アテネは罠におちた。つづいて戦闘がおきた。数千のアテネの兵がころされた。ところが彼らは幸運だったかもしれない。生きのびた兵たちはもっと不幸だった。アルソバイアデスの裏切りが彼らの運命を苛酷にした。

彼らの数は約七千であった。都市の外にある石切場につれていかれた。ここはいま公園に整備されてる。それは岩が切りたったせまい空間である。日除けの場所も飲み水もない。彼らはここに閉じこめら数ヶ月のあいだ傷つきしんでいった。灼熱の日光にやかれその最後をむかえた。秋となれば夜はこごえるような寒さだった。ほとんど食事や水があたえられなかった。すぐ病気が萬延した。死者が積みあげられ、ほうむることができなくなった。それらはくさるまで放置された。苛酷な飢えと病気はつまりは処刑であった。拷問であった。シラキュース人は子どもたちをつれて彼らをのぞき、あざけりわらった。シラキュース人はエウリピデスの悲劇をこのんだ。もし囚人たちが音響効果のよいこの場所でその一文をみごとに歌いあげたならば、ここから解放され奴隷にうられることがあったという。シラキュースにおける敗北がアテネにつたえられた夜、悲しみの声がひびいた。そして彼らを絶望の奈落におとした。

* さらにつづくアテネの凋落
シラキュースにおいてスパルタがアテネに完全に勝利することはできなかった。アテネは一年の混乱の後にもう一度、スパルタに立ちむかった。だがそれは彼らの敗北を先にのばしただけだった。最後に打撃をあたえた男はライセンダという。彼はスパルタ人だが、いやしい身分の出身である。私生児である。父は完全なスパルタ人であったが母はヘロットであった。つまりスパルタの経済をささえてる奴隷、マイシニア人とおもわれる。いわば混血の身分であったがアゴギへの入所がみとめられた。これは苛酷な訓練によりスパルタの男子を戦士に仕たてるものである。彼は社会的地位をもってなかったが集団のなかで頭角をあらわし軍隊における指揮官として、すぐれた政治家にそだっていった。

* スパルタ、ペルシアの資金による海軍力の増強
彼の政治的活躍にはペルシアとのふかい関係の構築があった。とかくばらばらになりがちなギリシャであるが七十年前にスパルタとアテネを指導者としギリシャは同盟しペルシアとたたかった。今やギリシャ人同士がころしあってる。ペルシャ帝国はこれをみて自分に役にたつほうに黄金をくばっている。ほとんどのスパルタ人はペルシャをきらう。スパルタ人は法の支配をこえたところにいる一人の人間にこびへつらう、その無駄とおべっかをきらう。ところがライセンダはこの価値観をかくすことができる。彼はペルシャを扉をあければ金を取りだせる金庫のように利用する。彼はサイラス、ペルシャの王の息子と個人的な関係を作りあげた。これにより彼の艦船の船員の給与が二十五パーセントと昇給した。国にぞくしない傭兵の船員はアテネからスパルタに乗りかえた。その結果アテネの艦船の船員が一夜にしていなくなったという。

* スパルタ、ライセンダの勝利
ペルシアの資金をえたライセンダの艦隊はアテネとその同盟に何度も勝利した。その結果、彼はアテネにたいする穀物の供給路を封鎖することに成功した。紀元前四〇五年である。ライセンダは大規模なアテネの艦隊を迎えうった。彼は相手をうまく誘いこんだ。戦いを拒否し、おそれて退却するようにみせかけ、敵の警戒がおろそかになった時に攻撃した。アテネは大敗北をきっしてその運命が彼の手ににぎられた。

アテネが降服した時、ギリシャの全土がこれまでアテネにもってた不満や恨みを爆発させた。一人のシーブス人はアテネを完全に破壊しその領土をシーブスに引きわたすべきといった。しかしスパルタはこれまでの戦い、おおくの犠牲にもかかわらず感情的にならなかった。彼らは冷静に条件を突きつけた。アテネの民主主義政府の廃止、アテネの艦隊の縮小、三隻のみにすること。都市を防禦してた壁のすべてを破壊。これはスパルタ人がながいあいだ不満をもってたものである。アテネの壁がもえてる時にスパルタがギリシャの支配者となったことがみとめられた。ライセンダはアテネの売春婦、都市の周囲にキャンプしてた一人がたちまち態度をかえ残り火のなかで踊りをおどり帝国の滅亡の歌をうたってるのをみた。アテネはスパルタに同調する勢力により運営されることとなった。ふるい学派のひとたちが定住した時に流血の事件がおきた。そのなかにアルソバイアデスがいた。彼はスパルタに亡命したがたくみな弁舌でアテネ市民にとりいりもどってきた。この敗北がおきた時、彼は指導者となりスパルタに立ちむかう一人とみられた。しかしスパルタからの命令により排除された。

ライセンダは勝利をデルファイに記念碑としてのこすことにした。彼は自分自身を顕彰する立派な記念碑をたてた。これはスパルタ人の行動倫理、控え目にものごとをいう自分を目だたせない。この倫理から、あざけりの的となった。今は基底部だけがのこってるが、かっては三十以上の実物大の青銅の彫像があった。それらは彼の勝利をたすけてくれた友人、支援者である。そしてその中心に彼自身がたってた。彼に王冠をかぶせようとしてるのがなん と海の神、ポセイドンである。自己宣伝の一。まさに恥をしらない姿である。

抜け目ないライセンダがもたらしたスパルタの勝利がすべてをかえた。スパルタがもっとも有力な都市国家となった、ギリシャ世界においてそうなったことがあきらかとなった。もし選択するなら帝国にすすむ道である。ライセンダはおおきな計画をもってた。そこにはスパルタによるあたらしい世界の秩序とそのなかなでの彼の場所が用意されてた。

* 神託と王位継承問題
紀元前四〇〇年である。表面上はスパルタは何もかわらなかった。だが時代がかわる。その頃に神託がでた。それがスパルタの市内を駆けめぐった。ビッコの王、他部族の征服、戦争の発生についてかたってた。ほとんどの神託は曖昧で内容のないものだったが、これは内容のあるものだった。スパルタにおいて権力闘争がおきることに言及してた。アジェス王がしんだ。

二人の候補者が王位をあらそうことになった。彼の息子、ラヒヒダスと異母兄のアジェスレイアスである。王位の継承は単純であるべきである。ラヒヒダスは王の息子である。アジェスレイアスは、生まれつき足が不自由だった。普通のスパルタ人たったら障害のある男子はうまれた時に排除される。ところが王室についてはこの法が適用されない。アジェスレイアスはこれにより生きのびることができた。七歳の時に彼はアゴギにはいった。これはスパルタ人の男子を戦士にそだてる仕組みである。スパルタの王室にぞくする者でアゴギにはいったものはいなかった。彼はこのきびしい環境で丈夫にそだっていった。アジェス王がしんだ時に彼は充分な自信をもって候補となった。この神託が出まわったのはこの時であった。そこにビッコの王とかいてあるのはまさにアジェスレイアスをさしてる。そこで示唆されてる脅威は深刻である。ところで神託はその解釈が重要である。抜け目のないライセンダはこれを政治的に利用した。まずスパルタ人にかっての歴史を思いださせた。

* ライセンダの政治的発言
アルソバイアデスとアジェス王の妃、ティメヤの恋愛問題である。この噂が真実ならラヒヒダスはアルソバイアデスの子である可能性がある。ティメヤはおさない時にラヒヒダスをあやしてアルソバイアデスとなんどもささやいてたという。ライセンダは神託のビッコの王、そのビッコは正統でない子を意味するかもとあてこすった。これでラヒヒダスはおち、アジェスレイアスが王となった。

* アジェスレイアス王の登場
彼はスパルタの王のうちでもっともスパルタらしい王である。アゴギが生みだした典型だった。スパルタ社会の仕組み、考えかたに全幅の信頼はおいてた。しかしスパルタの社会はかわってゆく。アテネにたいする勝利は戦争によるほころびをもたらした。質朴な戦士にたいする誘惑をもたらした。戦争は彼らにあの豚の血と酢からつくった伝統の食事にそれ以上のものをもたらした。国外にでたスパルタの指揮官の身持ちのわるさが有名となった。国外で不当な利益をえて持ちかえる。このわるい傾向がながくつづいてた。これがはじめてアジェスレイアスによりかえられた。彼が王になると彼とその家族は質素にくらしはじめた。彼のぼろぼろの外套は彼の質素さの象徴となった。

* 王とライセンダとの対立
そしスパルタに存在する頽廃の芽をつむことが彼の惟一の関心事となった。そこでライセンダをどのようにあつかうかが問題となった。ライセンダが神託をたくみに利用したことでスパルタにおいて彼の政治的影響力が増大していった。これまでの行動のつけが彼にもどってくる時がやってきた。この国際的に活躍した将軍はアジェスレイアスを見あやまった。彼は支配者である王の威厳を極めて重大にかんがえてたのである。ライセンダの海軍がアテネに何度も勝利してゆくにつれ彼のまわりに支持者がふえてきた。政治的な野心をもつ人たちもあつまってきた。このような人たちは足の不自由なぼろぼろの外套をきた王より彼のほうを尊敬する人たちである。

アジェスレイアスは彼を公然と攻撃することにした。彼がすすめようとする作戦はすべて、その反対のことをやった。ライセンダの支持者が賛同をもとめてもこれを拒否した。さらにアジェスレイアスは彼の考えを次のとおりあきらかにした。ライセンダと関係をもつことは死をもたらすかもしれないといった。最後に破局がやってきた。アジェスレイアスはライセンダに彼の食卓にやってきて自分につかえるようめいじた。ライセンダはこれは友人への振る舞いでない屈辱だといった。アジェスレイアスはそれをみとめるとともに自分よりたかい位置にたつことをゆるさないとこたえた。ライセンダは行方をくらましデルファイにいってアジェスレイアスにたいする謀略をめぐらせた。彼は金をおくり神託をかえ警告をあたえるものにしようとした。彼はこれが迷信に左右されやすいスパルタ人に動揺をあたえることをしってた。

彼はこの謀略が実現する前に戦闘において死亡した。その謀略は相当深刻な内容であった。その死後に書類が発見された。そこにスパルタの政体を改革するということがかかれてた。王の選出に公選制を導入する。ライセンダ自身が最強の候補者となることを想定してた。アジェスレイアスはこれをただちに公表しライセンダがスパルタにとり脅威であったことをあきらかにしようとした。しかしこれをよんだ長老の一人がその内容があまりに深刻である。なのでアジェスレイアスにつよく非公開をもとめた。すでに死亡してるライセンダを墓場からよみがえらす。それより演説原稿も彼もそのままにしておくようもとめた。この事実はかくされスパルタは何もかわらなかった。だがスパルタをめぐる外界はどんどんとかわってゆく。一連の災害が深刻な神託の正しさをあきらかにしていった。

* スパルタ、内部対立の表面化、ケネドンの陰謀
深刻な事態がアジェスレイアスの近くにあつまってきた。古典ギリシャの力がもたらすよき秩序がしりぞき、みえなくなった。そしてこのわるい精霊になやまされる王のまわりに悪運があつまった。王位をついで一年がたった。ふだんどおり犠牲の儀式がおこなわれたが神官が警告をはっした。スパルタは邪悪な敵にかこまれているという。これに新味はほとんどない。ほぼ三百年のあいだその独自の社会構造、ヘロットがいる人種差別政策、彼らを最下層しその労働力に依存する。ペリオイコイという商人、職人の階層。彼らは市民権をもたない。その頂点にホミオエ、えらばれた市民、スパルタの戦士がたつ。人口の少数派がその下部をしっかりと支配している。神官はこれがもつ脆弱性を警告していた。実際の脆弱性はそれよりももっと深刻だった。その数日後である。陰謀が発覚した。それはスパルタの社会構造を根本的にくつがえそうとするものだった。その首謀者の一人はケネドンという。彼はヘロットでもペリオイコイでもなく下層のスパルタ人であった。

この人たちはいったいどのような人たちだったのか。戦争からの逃亡者、私生児、混血、借金による奴隷だったのかもしれない。この陰謀者たちで注意すべきはヘロット、ペリオイコイ、下層のスパルタ人という範囲の広さである。ケネドンは彼らがスパルタの理想郷の恩恵からはずれた人々といってる。彼らが自白し罪状があきらかになった時にケネドンとその仲間たちは。槍を突きつけられて追いたてられ処刑の場所につれてこられた。それはこの地中の裂け目がある場所だったろう。ここはスパルタから数マイルの距離にある。考古学的調査がおこなわれその底に数フィートの厚さの残存物が発見された。紀元前五世紀から六世紀にぞくする。男、女、子どもの骨がのこされてた。

この事件はスパルタの欠陥をあきらかにした事件である。それは異常なまでの選抜主義である。スパルタは市民の権利をはじめてみとめたギリシャの都市であろう。しかしそれは常に少数の人々の特権であった。この少数へのこだわりはさらに先鋭化してゆく。彼らは本能的に自分たちのきびしい基準にあわない者を排除してゆく。その結果はこうなった。スパルタからスパルタ人がいなくなる。百年前のテルモピレの戦いの時代である。そこには一万の完全な市民権をもつ人々がいた。今や千の少数となった。スパルタ人の人口は 危険水準にたっした。戦いにおいてスパルタ人は戦闘をおそれるようになった。彼らは指揮官になる。兵はヘロットがなる。彼らは戦いの後に奴隷からの解放が約束されてる。この他に不承不承に参加した同盟軍がいる。

* 枯渇するスパルタ戦士
スパルタにあたえられた時間はすくなくなってきた。アテネの防御壁が取りこわされた時、紀元前四〇四年が歴史家によれば自由なギリシャのはじまりであるという。傲慢なアテネはその振る舞いゆえにほとんど友人をもたなかった。だがスパルタ帝国も抑圧をくわえるものだとわかってきた。アテネはその艦隊のために資金を要求してきた。スパルタは戦争をたたかうために兵を要求してきた。f友人との仲がわるくなる時期であった。スパルタにあたらしい敵が登場してきた。シーブスである。軍事的にいえばさほどおおおきくない同盟の盟主である。しかしアジェスレイアスの理解しがたい行動により不満をたかめている都市がふえてゆく。事態はスパルタが予想してるよりはやくうごいた。紀元前三七一年の春である。都市国家があつまる会合がひらかれた。ここできびしい敵対関係や戦争への危機をやわらげようとした。ここでは外交や税の問題が重要となる。だがこれらはアジェスレイアスの得意とするところではない。スパルタはこの会合では筆頭者とみなされてた。しかしシーブスの代表にたいし他の都市が尊敬の態度をみせてるのに気づいた。彼はこれにいかり代表と論爭をはじめた。シーブスも受けてたち無鉄砲にも反論をかえした。 アジェスレイアスは完全に冷静さをうしなった。彼は平和協定を取りあげそこからシーブスの名前をけした。二十日後に二つの都市はぶつかった。その場所はレッキトラである。ここに記念碑がのこってる が当時はもっとたかく周囲を威圧するほどだった。アジェスレイアスはこの戦いの指揮をとらなかった。彼が戦争をこのむとおもわれたくなかったからだろう。別の王が指揮した。七百のスパルタ、千三百のヘロットである。それにあまり気持がすすまない同盟の軍である。

* スパルタとシーブス、レッキトラの戦い
それにたいするのは六千のシーブス軍である。彼らの士気はたかく復讐の念にもえてた。敗戦は兵力の差だけでない。シーブスはあたらしい戦術をとった。彼らの密集歩兵隊の編隊は八列の厚味でなく五十であった。四百のスパルタがその日にころされた。これはおおきな数字でないようにみえるが当時のすべてのスパルタの兵の半分にもたっするものである。軍事力の観点からは実質的にスパルタ軍は消滅した。

その敗戦の意味は深刻だった。ここは都市、マイシニアの壁がのこってるところである。スパルタ人がけっしてみたくないものである。これはレッキトラの敗戦の後に三百年のあいだ奴隷とされてたヘロットがたてたものである。シーブスはレッキトラの戦いの後にラコニアにあるスパルタを攻撃した。これでマイシニア人を解放した。アジェスレイアスのその後である。彼は八十歳になったが傭兵隊の将軍として、からになったスパルタの国庫をお金でみたそうとエジプトにいた。エジプト人が彼をみかけた。彼はぼろぼろの外套をきて砂浜にすわってた。ある歴史家によれば彼らはただわらったという。

* 軍事国家、スパルタの終焉
スパルタは嘲笑の的となった敗戦からけっして再生することはなかった。奴隷の支えをうしなってから再生することはなかった。第二流の都市国家に格下げされた。これにつづく数百年のあいだ、カルタゴ、シシリー、ローマとあたらしい領土をもった勢力が登場した。スパルタはそのたびにかってのスパルタの仕組みを復活させ再生を夢みた。だがマイシニア人の奴隷がいないスパルタはスパルタではない。ユートピアの正体があらわれた。もはや誰もスパルタを再生させることはできなかった。

スパルタが崩壊して四百年の後に重要な人物の訪問をうけた。ローマの最初の皇帝、オーガスタス・シーザーである。彼はここに皇帝としてでなく個人としてローマにおおくの文化的影響をあたえた社会に敬意をあらわすためにおとづれた。またここにはローマからの旅行者だけがきたのではない。ここのおおきな劇場ではスパルタの独特の踊りや軍隊での儀式がえんじられた。また近くのアルテミスの神域にいけばかっておこなわれていたスパルタ男子の通過儀礼、時には棒でなぐられ死にいたるかもしれない儀式。それの復活版をみれる。これらはスパルタの興隆と没落の象徴であるかもしれない


スパルタからながい旅をしてここ英国の田舎、バツキンガムシャーにある貴族の敷地にやってきた。ここにギリシャ風の建物がある。これはアテネの文化をたたえたものだろう。そこに美徳の寺院というものが ある。そこでは三人の賢人がかざられてる。ソクラテス、ホーマー、それと半分神話の人物であるライカーガスである。

彼についてこうきざまれてる。スパルタ建国の父。偉大な知恵をもって国をかたちづくる法をさだめた。それは国民を腐敗からまもり、強固な自由をあたえ、富、貪欲さ、贅沢と欲望をうしなわせる堅固な道徳をあたえた。

これは自己規制、自己否定に清教徒的な共感をもってかかれた極めて公平な総括である。だがそこにはスパルタ社会がもつより上流階層的でない側面、女性同士にある親密な関係、残酷な教育、奴隷制度、たえまなくつづく戦いについてふれられてない 。さらにいうがスパルタがもつ最大の欠陥、理想に拘泥しすぎ完璧さを追及するあまり時代とともに自分自身を改変してゆくことができなかった欠陥についてふれられていない。
(おわり)

お知らせ
次の簡略ギリシャの歴史シリーズを窮作文庫に収録しました。ブログ掲載分を修正し転載したものです。みやすくなったとおもいます。一度のぞいてみてください。

序論など)
序論
ミノア文明
マイシニ文明の一
マイシニ文明の二
ホーマーと暗黒時代
古代ギリシャと都市国家
密集隊戦法
スパルタ
アテネ
ペルシア
(ギリシャとペルシアの戦いなど)
マラソンの戦い
テルモピレの戦い
サラミスの戦い
プラティアの戦い
マイカリの戦いとデリアン同盟
アテネ帝国
ペリクリースの時代
(ペロポネソス戦争)
第一次ペロポネソス戦争
ペロポネソス戦争の一
ペロポネソス戦争の二
ペロポネソス戦争の三
ペロポネソス戦争の四
ペロポネソス戦争の五
ペロポネソス戦争の六
ペロポネソス戦争の七
ペロポネソス戦争の八
ペロポネソス戦争の九
ペロポネソス戦争の十
ペロポネソス戦争の十一
ペロポネソス戦争の十二
ペロポネソス戦争の十三
ペロポネソス戦争の十四
ペロポネソス戦争の十五
(スパルタの覇権など)
スパルタの覇権
一万人の行進の一
一万人の行進の二
小アジアの騒乱
(コリンス戦争)
コリンス戦争の一
コリンス戦争の二
コリンス戦争の三
コリンス戦争の四
(スパルタの崩壊など)
コリンス戦争のあと
平和なし
ルトラの戦い
アルカディアとマシーニアの反乱
マンテニイの戦い、最終のゲーム
ウルブルンの難破船

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アレクサンダー大王、その二の九、バルカン遠征 [英語学習]

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* はじめに
アレクサンダーはフィリップの暗殺後の混乱を乗りきった。まず有力将軍の支持をえて王位継承者の地位を確保、アテネ、シーブスなどにギリシャの覇者をみとめさせた。北の反乱をおさえ領土をダニューブ川まで拡大した。西の辺境の反乱も平定した。フィリップの後継者たる地位を確立しさらに東進しギリシャ人の都市をペルシアから解放するとかたりはじめた。
(Alexander the Great: The Balkan Campaign (336 to 335 B.C.E.)、Historia Civilis、2017/10/31 に公開)

* 暗殺後に有力将軍がアレクサンダーを支持
フィリップ三世が暗殺されだ。このような場合には王位継承が問題となる。しかし息子、アレキサンダーが有利な位置にいたことはたしかである。彼は三人いた息子の上から二番目である。一番目は認識に障害があり政治に関与してない。ところでおおくの人がしんじてるところだが三番目、幼児であるが、彼をフィリップが王位の継承者とかんがえていたという。おさない王は十数年にわたり摂政が政治をおこなうことを意味する。野心的な重臣たちはこの実現をもとめる。王にかわって実権をふるうことができる。フィリップのもっとも信頼がたかかった将軍、アンティパータ(antipater)がいち早くアレクサンダーのもとに軍を引きいてやってきた。このことはアレクサンダーこそがフィリップが予定してた継承者だと公然と主張したことにつながる。

これにより他の有力な将軍たちもアレクサンダーのもとにやってきた。マセドニアの軍は彼を支持した。幼児を王位につけようという陰謀は彼の死とともになくなった。その後の数ヶ月は事件がつづいたが事態が落ちついた。三つのことがかわった。

一、アレクサンダーは父の有力な支持者のすべてを味方につけ彼らを顧問に任命した。
二、アレクサンダーからなんらかの保証をえて臣下たちは満足して彼にしたがった。
三、アレクサンダーの有力な対抗馬であったフィリップのおさない息子はしんだ。うたがわしい状況のもとでの死であることを公平のため付言しておく。

* 内政安定化にうった手段
一、王として彼が最初にやったのはすべての税金を廃止。今後の国の歳入を鉱山開発と征服によるとした。これにより臣下は非常に満足した。これが彼を支持する条件の一つとなった。
二、フィリップが公布した法律、命令のすべての維持を誓約。これは軍の古老を満足させアレクサンダーを支持する条件の一つとなった。

* アレクサンダー、ギリシャの覇者の確認
王位の維持にどのような条件が必要かをみるのは興味ぶかい。マセドニアの権力組織をまとめあげた後には新王はギリシャ全土が彼の王位をみとめるかどうかをたしかめる必要がある。またフィリップの承継者としてギリシャの覇者である地位は要求しうる。これらをたしかめる必要がある。

* 各都市を巡行、テッサリの妨害
アレクサンダーは三千の騎馬隊を引きつれて南にむかった。テッサリのちかく山をぬける惟一の道にやってきた。テッサリが軍をうごかし道を封鎖してた。テッサリはアレクサンダーに使者をおくりまってくれとたのんだ。アレクサンダーと軍をとおすかどうかを検討してるといった。これは無礼な行為であった。フィリップはその統治時代にテッサリを併合していた。つまりここはマセドニアの領土である。彼らはアレクサンダーを外国の王のようにあつかった。この道は非常にせまく衝突をおこすのは小規模の軍を引きいるアレクサンダーにとり不利だった。彼はまった。

彼はひそかに山の道を切りひらくようめいじた。数日後に馬にのったまま山をこえた。間道をぬけたマセドニアはテッサリが何がおきたかをしる前に道にもどりテッサリ軍の後をすすんでいた。テッサリはとっさの判断で態度をかえアレクサンダーを新王として歓迎した。彼はこの服従の姿勢をそのまま受けいれた。

* アテネ、シーブスの服従、スパルタの姿勢
また南下をつづけた。おおくのギリシャの都市から外交使節がやってきた。彼をあらたな覇者としてみとめた。ところがシーブスとアテネは不気味な沈黙をまもってた。ところがさらに南下するのをしり不承不承に外交使節をおくり彼を覇者としてみとめた。ほこりたかいスパルタはアレクサンダーの覇者をみとめようとはしなかった。しかし文書をおくった。それにはおおくの人々のやることを追いかけるのは我々のやりかたでない。むしろこれらの人々を先導するのがやりかたである。すでにのべたがスパルタは当時、千の軍を編成するのが限界。それにくわえて奴隷の軍を編成するのがやっとだった。もはやマセドニアの脅威ではない。ある人はスパルタがはいってることが南の都市をおどす材料になるといった。ギリシャ人はマセドニア人を信用してない。だがギリシャ人はそれ以上にスパルタを嫌悪してた。

* デルファイの神託、不敗神話のもと
すべてのギリシャは平定した。アレクサンダーはすぐ軍をもどし神託をもとめデルファイにいった。これは父、フィリップもやったこと。ところが問題があった。神託は冬にはでない。寺院でアレクサンダーは拒否された。彼は事情をしらず激怒した。ある説によると寺院を急襲した。そして女神官の長に乱暴な行為をおこなった。彼女を椅子のうえに押しあげさらに暴力をふるい神託を要求した。この過程のどこかで神官が彼は無敵であるといったという。ややしんじがたいところがあるが彼はこれを真実の言葉と受けとった。ある人の見解ではアレクサンダーをおとしめる宣伝工作という。しかしこれを彼がしんじたとすると彼は自分は戦いでしぬことはないとしんじてマセドニアにもどったことになる。

* 北の辺境の反乱、スレイスの荷馬車攻撃をかわし勝利
さてアレクサンダーがその権力の確立にいそがしかった頃に、マセドニアの後背地で反乱がおきた。これらの地域はフィリップにより近年に征服されたものである。北部と西部の反乱は独立を要求してる。ところでマセドニアの北の辺境はダニューブ川の南、そこには五日の進軍でゆける距離にある。アレクサンダーは北方の辺境を永続的にするためダニューブ川のところまでひろげることにした。冬に彼は山で攻撃作戦をおこない春にさらにすすんで北方の脅威と向きあうことにした。ヘーマスモンスという現在のブルガリアにぞくする地点でスレイスの軍と遭遇した。道をすすんでた時である。

スレイスは丘のうえで待ちかまえてた。前面に荷馬車をおいて防禦としてた。アレクサンダーは斥候をおくり彼らを回避できる道をさぐらせたが見つからなかった。彼はいらついて後をむいて歩兵隊にめいじた。まっすぐ敵にむかえ。疎開しゆっくりした歩調ですすめといった。彼は慎重になり荷馬車がおいてある理由を予想した。予想はあたった。マセドニアが丘の中腹にきた時、スレイスはその荷馬車をおし斜面をすべらせてマセドニアのほうに突っこませた。アレクサンダーは冬のあいだにこのような作戦への対応を兵に訓練してた。彼の合図とともにマセドニアの兵は体を地面に投げだし盾で頭をかくした。荷馬車はいきおいよく滑りおち、うつむいたマセドニアの兵を乗りこえていった。若干の擦傷、切り傷をのぞくとまったく無傷のままでおわった。この荷馬車による攻撃はなかなかすばらしいものだった。マセドニアの無敵の密集歩兵隊をやぶったかもしれない。だが実際はそうならなかった。攻撃の道がひらけたのでマセドニアは丘の上の敵に直接攻撃をおこなった。弓矢隊は矢をさかんにいて歩兵を援護した。歩兵はすばやく攻撃をおえ、まったく損害がでなかった。

* ダニューブまで領土を拡大
アレクサンダーが王としての最初の作戦はまったく完璧な勝利だった。しかしバルカン遠征はまだおわってない。アレクサンダーとその軍がダニューブ川についた時に敵対する部族がいるのを発見した。彼らはアレクサンダーが北上するのを妨害していたものだった。彼らが川中の島にもどっていった。彼らはもしマセドニアが島に上陸しようとするならばいつでもたたかう用意がある。そうみえた。川をわたった北の岸べには別の敵が待ちかまえていた。彼らは草原からやってきた放牧の部族である。マセドニアを注意ぶかく観察してた。アレクサンダーはこの複雑な状況によい答がないかかんがえた。島への上陸作戦は被害がおおきいだろう。どのような方策があるのか。

彼には考えがあった。騎馬隊を扇型にひろげた。ちかくの村から釣り船をうばってきた。のこりの軍にはどんなものでもよから筏をつくるようめいじた。夜陰にまぎれて軍の一部を筏にのせた。島にわたるのでなく向こう岸にわたった。彼らは穀物畑の背後に上陸した。これらは充分に背がたかくそこに身をかくすことができた。彼らが下船しおわると朝日がのぼってきた。歩兵隊は横一列にならんび前進をはじめた。アレクサンダーは騎馬隊を引きいた。マセドニアを観察してる中立軍を攻撃した。放牧の部族は数ではアレクサンダーより優位にっあた。たぶん三対一だろう。だが彼らはまったく不意をつかれた。川からはなれ退却にうつった。彼らの野営地にもどると彼らは軍を再度編成した。ところがマセドニアがまだおっかけてきたのでおどろいた。放牧の部族は野営地を放棄し草原にきえていった。アレクサンダーにはおおきな勝利だった。しばらく略奪をおこないダニューブ川にもどった。川中の島にいた部族は川の両岸にマセドニアがいることを発見して非常におどろいた。彼らは島にとどまり長期の城攻めにたえるより降服をえらんだ。

アレクサンダーは神をしんじる気持のつよい人物である。マセドニアがここにとどまり神に彼らの勝利を感謝するために一連の儀式をおこなうよう主張した。軍を引きいてダニューブ川をわたることは兵站作戦のみごとな成果である。この後の数日間は他の部族があらわれて降服を申しでた。マセドニアの領土はこうしてダニューブ川まで拡大した。遠征の目的はみたされ、北方の国境は確保された。

* 西の辺境の平定、イィリアンの軍と遭遇
しかし西の国境についてはなお脅威がのこってた。イィリアン(illyrian)はアレクサンダーの父、フィリップの時代に降服していた。しかしフィリップがひいた国境線には満足してなかった。彼らはこの不安定化した時期こそこの問題を有利にすすめる絶好の機会ととらえた。アレクサンダーはイィリアンが進軍してくるのをきいた、ダニューブからただちにこちらにむかった。彼はペリアムというちいさな砦のちかくですすんでくるイィリアンをとらえた。イィリアンはこの砦にはいったがこれは賢明だった。その砦は東、北、西にかけて三つの丘でまもられさらにその南は川でまもられてた。丘をぬけて砦にむかうただ一つの道があった。アレクサンダーはそこにとどまり城攻めの準備にはいった。だがこれは戦術的には失敗だった。

* アレクサンダー、罠にはまる
ほとんど同時にまるでアレクサンダーをまってたかのようにもう一つのイィリアンの軍がやってきた。彼らは丘にのぼりマセドニアを包囲した。アレクサンダーはまるで罠に自分からはいっていったようなものだった。しばらくのあいだイィリアンはマセドニアとの距離をたもってた。この道は隘路となってた。この谷をぬける、あるいははいるにも一日仕事になるものだった。

もしマセドニアが谷から抜けでようとするとイィリアンは丘をくだりマセドニアを背後から追撃できる。これをよくみると砦をマセドニアが包囲しそのマセドニアを丘にいるイィリアンが包囲してる。イィリアンにとってはじっくり腰をすえてアレクサンダーが間違いをやらかすのをまつ状況となった。数日かけて彼と助言者のあいだで議論がかさねられた。次のような狂気じみた作戦を実行することとなった。それはマセドニアが絶望的な状況になってることをかんじさせるものだった。これはすばらしい作戦だった。彼らは戦いにはいるため兵をうごかした。ながい隊列をつくった。兵が実際よりおおくいるようにみせた。それから演習をおこなった。これが彼らがかんがえた作戦だった。これはさらにいえば見世物だった。歩兵隊が前進する。次に停止する。次に方向をかえる。隊形を変更する。これらはまったく合図なしだった。前進してる時に長槍を前後に振りまわす。そして完全に同期して長槍を前に突きだす。槍が風をきる音がする。それは丘のうえにいる敵にもきこえた。

* アレクサンダー、奇策で相手をまどわす
なんの合図もださずマセドニア軍のすべてが沈黙をやぶり戦闘の雄叫びをあげた。武器で盾をたたいて音をたてた。おどろくべきことだが、これはおおきな効果があった。イィリアンはこれほどの規律ある動きをみたことがない。それは人間業にみえなかった。ある部隊はおそろしくなって逃げだすこととにした。退却の動きがでたここが絶好の機会である。合図がはっせられた。マセドニアは丘の上の敵にまっすぐ攻撃を仕かけた。アレクサンダーも騎馬隊を引きいて攻撃した。イィリアンにとっては完全な不意打ちだった。

散発的な戦いがあったがイィリアンは総退却にうつった。マセドニアはこれで誰一人うしなうことがなかった。 アレクサンダーは自分をほめてよい。自分から危地にはいり、しかしそこから成功裏に抜けだした。それもまったく損害をださずにである。アレクサンダーは今や谷を支配下においた。イィリアンはまだ地平線のどこかにいる。アレクサンダーには食糧補給の問題があった。彼は食糧補給線をどのように確保するかをかんがえねばならなかった。彼は騎馬隊と弓矢隊を丘のうえにのこした。そしてそれ以外のすべてをつれて川にむかった。しばらくかんがえてから彼は道をとおって谷をぬけるより川をわたることにした。

* アレクサンダー、川をわたり戦況を好転
安全をたしかめるためまず選抜された盾持隊が最初にわたった。歩兵がその後につづいた。こうしてるなかで丘のうえにいる騎馬隊と弓矢隊はイィリアンがもどってくるのを監視してた。軍の大半が川をわたった頃騎馬隊と弓矢隊は丘をおりてきた。川をわたろうとした。するとイィリアンがもどってきた。すぐ川をわたってるマセドニアに気づいた。彼らは丘をおりてマセドニアの後方を追撃した。向こう岸にいたマセドニアの歩兵隊は投石機の攻撃の準備をととのえた。それは砦の城攻めのために用意してたものである。イィリアンが谷をすすんできた時に投石機の攻撃がはじまった。ある人によればこれは歴史上はじめて城攻めの投石機が野戦でつかわれた例だという。

川をわたっていた弓矢隊は川の途中で向きをかえ矢による攻撃を仕かけた。この一斉攻撃はイィリアンの進軍をとめるに充分だった。これによりマセドニアは余裕をもって川をわたることができた。これらを振りかえっていえるのはアレクサンダーは幸運だったということである。

* アレクサンダー、攻撃の仕上げ
アレクサンダーはこちらの岸で野営地を設営した。彼は馬糧調達の部隊をおくり供給線を確保した。ここでやっと食糧の荷物を受けとることができた。彼はここで猶予の時間をえた。数日後、川岸に斥候隊をおくった。そこでイィリアンが何をしてるか観察した。おどろいたことに彼らはただそこにいるだけで何もしてなかった。監視の兵すらおいてなかった。 彼らはまるで戦いに勝利したかのような振るまいだった。アレクサンダーは選抜された盾持隊と弓矢隊の兵を引きいて川をわたり夜討ちを仕かけた。予想したとおりだが敵はまったく気がつかなかった。監視の兵もおいてなかった。テントを攻撃した盾持隊はまったく気づかれないまま睡眠中の兵をころしていった。

敵襲撃に気づいた頃には野営地からおおくの兵が逃走してた。多数がころされそれ以上の数が捕虜となった。この攻撃だけでイィリアンの軍は消滅した。翌日、砦のイィリアンが降服した。ヘーマスモンスの城攻めは奇妙なものだった。

* ゴールズと友好関係をむすぶ
アレクサンダーは自分自身の失敗から危地に落ちいりそこから抜けだした。そこでしめした彼の行動はまったく天才を発揮した。彼がペリアム、ダニューブ、ヘーマスモンスでおさめた勝利は間違いなく一つのメッセージを周囲におくった。アドリア海沿岸のゴールたちがいつしょになり、このわかい王と外交関係をむすぼうとした。

彼が彼らゴールの代表団とあった時に彼らが彼の足下にひれふす機会をあたえた。そこでまずきいた。貴下は世界でもっともおそれてるものは何か。彼らはひれふすかわりに率直にこたえた。天が頭のうえにおちてくることである。あきらかにゴールの神話からきたものだった。神をしんじることのあついアレクサンダーはこの奇妙な答に感心した。彼は彼らに友好関係をむすぶことをみとめた。そして彼らが平和裏に彼のもとをさることをゆるした。彼の我儘がでた時だが後に自分の部下にむかってゴールズが彼を尊敬せず傲慢だと文句をいった。

* 権力移行をみごとにやりとげたアレクサンダー
我儘がでることは別にしてアレクサンダーが自分自身をたかく評価するだけの充分な根拠がある。彼の父の突然の死が混乱を引きおこした。この期間にフィリップの征服の成果をうしなうことなく、むしろそれを拡大させた。マセドニアを内乱からすくった。権力移行の困難な時期に重要なものをうしなうことなく権力移行を成しとげた。あかるい未来がみえた。国境地帯が平定されたことをうけ彼は公然と父がもってた夢の実現をかたりはじめた。それは東にすすみペルシアの支配下にあるギリシャ人の都市を解放することである。この目標を達成するためにも彼はほかのギリシャ人と協力する必要がある。そして当面の彼らの忠誠心はまだあきらかではない。

(おわり)
お知らせ
次の簡略ギリシャの歴史シリーズを窮作文庫に収録しました。ブログ掲載分を修正し転載したものです。みやすくなったとおもいます。一度のぞいてみてください。

序論など)
序論
ミノア文明
マイシニ文明の一
マイシニ文明の二
ホーマーと暗黒時代
古代ギリシャと都市国家
密集隊戦法
スパルタ
アテネ
ペルシア
(ギリシャとペルシアの戦いなど)
マラソンの戦い
テルモピレの戦い
サラミスの戦い
プラティアの戦い
マイカリの戦いとデリアン同盟
アテネ帝国
ペリクリースの時代
(ペロポネソス戦争)
第一次ペロポネソス戦争
ペロポネソス戦争の一
ペロポネソス戦争の二
ペロポネソス戦争の三
ペロポネソス戦争の四
ペロポネソス戦争の五
ペロポネソス戦争の六
ペロポネソス戦争の七
ペロポネソス戦争の八
ペロポネソス戦争の九
ペロポネソス戦争の十
ペロポネソス戦争の十一
ペロポネソス戦争の十二
ペロポネソス戦争の十三
ペロポネソス戦争の十四
ペロポネソス戦争の十五
(スパルタの覇権など)
スパルタの覇権
一万人の行進の一
一万人の行進の二
小アジアの騒乱
(コリンス戦争)
コリンス戦争の一
コリンス戦争の二
コリンス戦争の三
コリンス戦争の四
(スパルタの崩壊など)
コリンス戦争のあと
平和なし
ルトラの戦い
アルカディアとマシーニアの反乱
マンテニイの戦い、最終のゲーム
ウルブルンの難破船

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スパルタの栄光、その二、ペロポネソス戦争の勃発 [英語学習]

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* はじめに
ペルシアの敗退後、スパルタとアテネの同盟は長続きしなかった。両者の違いが際だっていたからである。軍事のスパルタと民主主義、経済、文化のアテネ。これだけでなくスパルタ女性の独特の地位。社会に積極的にでて発言、財産権をもつ。他の都市の女性にはない特徴である。スパルタはペロポネソスの奧にもどったがアテネは東地中海の覇権をにぎる。猜疑心をつのらせるスパルタが地震をきっかけにヘロットの反乱にあう。ここでアテネとのあいだに亀裂がうまれペロポネソス戦争に突入する。アテネの指導者、ペリクリースの死によりいったん小康をえるが、西の重要拠点パイロスをうばわれ百二十の兵が降服する。和平はなったがそれはあたらしい戦いのはじまりでもあった。
(The Spartans - Part 2 of 3、Timeline、World History Documentaries、2017/08/26 に公開)

* ちがいが際だつスパルタとアテネ
紀元前二千五百年前、西欧文明は破滅の危機にひんした。東からペルシア軍が侵入してきた。独立をたもってたギリシャの都市国家を従属させようとした。圧倒的な兵力にめんしてスパルタとアテネが抵抗に立ちあがった。テルモピレ、ここの隘路において三百のスパルタ兵が英雄的な戦いをおこなった。彼らは玉砕して敵の進軍をおくらせた。ギリシャの他の都市に戦いのやりかたをしめした。その数日後である。

アテネの海軍がペルシアの攻撃をうけた。彼らはアテネの中心から数マイルはなれたここサラミスの沖で彼らの艦船を攻撃した。この戦いでアテネとスパルタは同盟してたたかった。だが彼らは対称的であった。アテネの政治は民主主義、ギリシャにおいて経済と文化の中心であった。また対外的にひらかれたたかい文明をもつ社会であった。そこでは力は民衆とともにあった。他方、スパルタである。

彼らは軍事国家、えらばれた戦士が支配した。その生活を多数の奴隷がささえてた。スパルタの男子は常に試練がまってた。国がもうけた幼児殺しの関門をかりに生きのびたとして、七歳になったら母の手からはなれアゴギという訓練キャンプにはいる。きびしい訓練のなかで彼らに栄光か死というスパルタの倫理が教えこまれる。彼らはほとんど女性とは交流のない生活をおくる。ところで女性というと不可思議なもの独立したもの才知あるもの肉体的にも政治的にも強力な存在とみられてた。

* 同盟関係の破綻、ペルシア戦後のちがい
スパルタとアテネは対極にある。たがいに矛盾し両立しがたいもの。もし共通の敵がいなかったらたとえ協力をさぐっても結局は不安や猜疑心をさそい混乱におわるだろう。かって同盟関係にあったが両都市はたがいに武器をもって対立する事態となった。叙事詩に登場するようなスパルタとアテネの戦いがはじまる。その争いの結果はギリシャの運命をきめるだろう。

ペルシアが侵攻した時にスパルタ人がかんじてたものとアテネ人がかんじてたものはずいぶんちがってた。前線から数百マイル(百マイルは百六十キロ)はなれラコニアの牧歌的な田園地帯にあったスパルタ本土はまったく直接の影響はなかった。それにたいしてアテネは侵攻をうけそのアクロポリスは放火、破壊された。ここスパルタはペロポネソス半島の奧にあって戦争はとおいものだった。平和が回復するとスパルタ人は日常生活にもどった。それはいつもの規則にのっとり軍事優先のものだった。ここの社会は規則ただしく従順で、なかんずく家庭や個人の要求をおさえ国家のためにすべてを犠牲にするのをいとわないというものだった。必要だったら命をおしまない。その目的はただスパルタ人が作りあげたとしんじる理想郷をまもることだった。そのために必要なのはさらにおおくの重装装備の戦士を作りだすことだった。それ以上はほとんどない。ただ現状をまもりたい。それだけだった。しかし戦後のアテネはちがう。

事態は急速にかわっていった。くるしい占領の後に歓喜の勝利がやってきた。都市はおおきく変容する。戦争前に民主政治の基礎はきづかれてたけど実態のともなわない名前だけのものだった。それは一人の男、財力をもった男がおおきな権力移動をおこなった。うまれたばかりのアテネの民主主義にやってきたのだった。これは三段櫂船の展示である。これはほぼ二百の漕ぎ手がのる。このような船がペルシアの艦船をサラミスにおいて無力化した。たたかう艦船の漕ぎ手はアテネの貧困層の市民であった。彼らが攻撃の主体である。彼らは政治のなかで最下層にぞくする。筆者の注。伝統的兵力の主力は重装歩兵であった。鎧兜など高価な装備の調達は富裕層、地主層でなければむすかしかった。注おわり。サラミスの勝利の後に彼らは政治的要求を声高にさけぶようになった。

* アテネの民主主義の成熟、海軍をささえる下層民
アテネの民主主義は活気づいた。この艦船の漕ぎ手の頂上にたったのはペリクリースである。彼は富裕な貴族。何代にもわたりアテネの民主主義を牽引してきた。彼はするどい感覚で時代の変化を見ぬいてた。そしてその先頭にたつて牽引するという野望ももってた。その権力をたもつためには貴族から一定の距離をおき、平民の支持をえるようつとめた。彼はすぐれた演説家であった。議論や演説をとうして民衆の協力を獲得した。しか彼が民衆の支持をえたのはそれだけでない。巨大な建設計画を発表した。これは実際は貧民層のための仕事の創設だった。彼はいう。

* 新興勢力の指導者、ペリクリース
あらゆるかたちの事業とそのために必要な需要を作りだす。それはすべての芸術家の想像力、すべての働き手の参加が必要である。そこからすべての人々が報酬をうけられる。彼らは都市をうつくしくかざり維持する。

彼は市民のお祭りに公的支援をおこなった。パルテノンの建物のような記念的建物に公金をつぎこんだ。もっとも重要な業績は裁判の陪審員や戦争の兵たちに国が報酬をはらったことである。艦船の漕ぎ手たちはアテネの民主主義においてはじめて政治権力をにぎった。ここに人々により統治される民主主義がはじめて実現した。

ここ市場(いちば、アゴラ)では市民の声がきこえる。ここではアテネの日常生活がいとなまれる。ここに職人、法律家、商店主、哲学者など多様な人々があつまってきて都市の喧騒と活気をつくった。あつめられた彼らの声はアテネの民主主義の基盤となった。国家の公職は財力や地位に無関係にすべての人にひらかれてた。市民は政治活動に積極的に参加することが期待されてた。議場において演説や論爭がおこなわれる時には市場への入口はすべて閉鎖された。アテネでは民主主義に参加することが強制された。それはスパルタで軍隊の規律が強制されたのとおなじである。

* アテネの経済、文化の拡大、ペルシア対抗の盟主
ペルシアの敗北後に革命的に変化したのはアテネの政治だけでない。経済、文化の活動もそうである。それらには活力とあたらしい考えかたが吹きこまれた。ペルシアとの戦いでギリシャ同盟軍は勝利をおさめたがペルシアはなおもつづく脅威であった。ギリシャの都市は東の強敵とたたかう指導者を必要とした。スパルタはこの仕事を引きうける気がない。関心が内むきとなった。ところが旺盛な対外的関心をもったアテネの民主主義はこの仕事を引きるけることとなる。ペロポネソスにまもられている現状に満足してるスパルタとちがいアテネは常に海とともにあった。

ペルシアの敗北とともにアテネはパイリアスの港とのあいだに連絡路をつくりそれを壁でまもった。これはアテネが対外的に海上の覇権を主張したことを意味する。物資の交易、人の移動において帝国を作りあげれる力があることを宣言したようなもの。アテネはこの建設のため都市の資材を消費しつくした。都市の記念碑や墓場の墓石まで供出させた。その結果、十二マイル(十九キロメートル)の堅固な壁が完成した。これはアテネの富をまもり他の都市の干渉を排除できるものである。アテネは東地中海における警察官となった。

同盟国はアテネにしたがい貢納金をおさめることが期待された。もしこれにさからうならば彼らの港にアテネの艦船があらわれるであろう。これは三段櫂船外交というものである。このような力の均衡の変化をスパルタが見のがすはずがない。海軍の急激な発展はスパルタにとって充分な脅威だった。だがそのうえに防御壁の建設をしり彼らの憂慮はいっそう深刻となった。

* 台頭するアテネを懸念するスパルタ
スパルタは防御壁をきらう。壁は都市をつくり都市は注意してないと民主主義のようなものを輸出する。彼らは壁にまもられた都市をおそれ、それ以上に民主主義をおそれた。スパルタは壁をもたないことで有名であった。こういうことがいわれてる。壁は若者である。国境はその槍の先の刃である。スパルタ人にとって都市をつくるのは法、壁やおおきな建築物でない。それは彼らの思い、理想である。

アテネとスパルタは明快に違いをみせる二つの存在である。スパルタは軍事国家であり外国人ぎらいである。アテネは躍動的で世界に門戸をひらいてる。もちろん、実情はそれほど簡単でない。アテネは帝国主義的で傲慢で攻撃的だった。その民主主義は女性、外国人、奴隷を排除してる。ギリシャ人にとりアテネの問題は、彼らのはげしい移り気、ギリシャ人が大切にしてるよき秩序を破壊しようとしてることである。

紀元前五世紀の詩人、ピンダーがいう。よき秩序は都市をささえる強固な基盤である。これがおびやかされると何がおきるかギリシャ人はしってる。都市を二分する内乱、田園地帯で収穫の放置。都市での流血。スパルタのやりかたは平等主義と選抜主義をたくみに混合したもの。おおくのギリシャ人には魅力的であった。スパルタは良識、義務と一体性を重視しよき秩序を保障してくれるようにみえた。

* スパルタにおける女性の独特な地位
しかし他のギリシャの都市からみるとスパルタのよき秩序には極端な性にかんする政治的な扱いがある。これに他のギリシャ人はおどろきおそれた。保守的スパルタはあきらかに極端であった。紀元前五世紀頃のアテネで女性はどうだったか。その生活はけっしてたのしくなかった。都市における芸術、建築、民主主義はすべて男性が享受するものだった。女性ができることといえばおもに従順で男をたてる妻をえんじることだった。事実、古代のギリシャにおいては女性は外部の人からみられるものでも、その話しをきかれるものでもなかった。歴史家のゼネフォンがいう。女性は家庭にとどまるようすすめる。演説家、ペリクリースは公式の場において女性について言及することははずかしいこととおもってた。

アテネの女性は家庭のおくふかくにまもられ生活をおくる。家庭内で女性がおこなうべき仕事をこなす。そのための訓練をのぞいて彼女たちは最小限度の教育のみをあたえる。社会において女性の発言権はなかった。教育はよくいって無目的であり、もっとひどくいえば危険なものだった。ある風刺詩人がいう。女性に文字をおしえることは間違いである。それはおそろしい毒蛇にさらに毒液をあたえるようなもの。アテネの少女たちは十二歳のわかさで結婚するがめずらしいことでない。彼女のために適当な男がえらばれる。すると彼女は家族をはなれ夫の家庭のなかに姿をけした。女性の役割は家庭内を切りもりし雑用をこなし穀物を粉にひき、洗濯してパンをやく。奴隷をもつ富裕な女性は家計のお金を切り盛りする。こういうことなので女性はたまにある家庭の用事や宗教行事への出席、これらをのぞくと家庭内にとどまっていた。

ところがスパルタでは女性はどこにでもでかけた。もし六十や七十の年寄男性をのぞくとして空中から市街をながめる。すると少年より少女をおおくみつける。彼女たちは少年とちがい国の教育訓練の対象となってない。もし戦闘や訓練がないなら男たちは共餐仲間がすむ住居で休息してる。女性が街の日常生活を支配してた。スパルタの女性が外にでる生活様式は非スパルタ人男性からおそれられ魅惑の対象ともなった。ホーマーはスパルタを美女の土地とよんだ。トロイのヘレンの美貌はもともとスパルタにあった。トロイの王子と駆け落ちしてトロイのヘレンとなったと神話にある。もちろん、スパルタの女性がすべて美人であるはずがない。しかし彼女たちはその肉体をきたえていた。それはギリシャではみられないものだった。

* 肉体をきたえるスパルタの女性
国から彼女たちも少年とおなじ食事をあたえられた。ワインをのむこともゆるされた。国は歌唱や踊りの指導もした。レスリングも指導し投げ槍のなげかた円盤のなげかたも指導した。彼女たちは国により少年たちとおなじように競争にかつことをすすめられた。少年や少女の訓練は裸でやった。そしてそこには女性らしいつつしみはなかった。裸は規則である。というのは極端なつつしみぶかさをやめさせることが肉体をきたえることを増進するとかんがえたからである。そしてそれは効果をあげた。肉体的に彼女たちははるかにすぐれてた。アテネの喜劇作家はアテネの女性たちがスパルタの女性の肉体の美くしさを褒めたたえるセリフをのこしてる。

ここに神に願いをかける捧げ物として鉛のちいさな人形が展示されてる。当時のスパルタ女性のおどる姿を模型にしたものである。これをみるとアテネの男たちが熱狂したという理由がわかるような気がする。スパルタの踊りはその独特の躍動ぶりで有名であった。特に運動とちかいかたちの踊りはそうである。女性は飛びあがり臀部を踵でたたかねばならなかった。それをできるだけおおくやらねばならなかった。それは非常にむずかしかった。非常に重要なことはそれが裸の太腿部の大部分をあらわにすることだった。これはたぶん スパルタの少女たちを太腿露出狂とよぶ理由だった。国の教育の一部として彼女たちはここのような川岸にやってくる。ある詩人がいう。神々しい夜とよぶその時に彼女たちが性的興奮の儀式の踊りをおこない歌唱の競技会をおこなう。少女たちはたがいに歌いかける。下肢はゆるみ、ながい髪の毛を振りみだす。それは乗馬にのっている時のようである。愛の表現に疲れはてる。スパルタは非常にめずらしい性格をもつ古代の都市である。それはおどろくべきことでない。つまり女子同士の愛を奨励していた。

* スパルタ、独特な結婚観
スパルタの女性と男性は別々にくらすという生活になれていた。七歳になると少年は家族をはなれてアゴギにおくられる。きびしい妥協をゆるさない訓練をおこない戦争のやりかたをまなぶ。男同士のつながりは奨励されるというより強制される。十二歳の時に彼らは年長の男性と組をつくらされる。通常は二十歳から三十歳までの未婚の男性である。この男性は少年たちの物質的な必要をみたし世話をし住居の面倒もみる。彼らは母親と父親のかわりをつとめる。また教師であり家庭教師でもある。それにくわえて愛人、制度化された男色の愛人でもあった。

スパルタの戦士たちの対人関係の実相である。親密な関係は男たちの精神的、情緒的な側面に継続的な影響をあたえてるようである。結婚の時である。結婚に円滑にはいってゆくためにおおくの調整が必要となってくる。実際的なスパルタ人は普通でない方法で対応する。とらわれの結婚とよぶ方法を実践してる。結婚の夜、花嫁は頭をみじかく剃髪する。それはアゴギにいる少年のようである。花嫁は男の外套をき足にはサンダルをはく。そしてくらい部屋に一人おかれる。その頃夫は共餐仲間の館からしずかに抜けだす。彼女のもとにくる。彼女を藁のふとに横にする。愛の営みがある。抜けだした夫は共餐の館にもどる。同僚とともにねる。つまりふだんどおりの生活にもどる。古風でおもしろい。これは結婚の夜だけの風習でない。その後、数ヶ月あるいは数年もつづく。

このおどろくべき風習の意義についておおくの議論がある。だが女性の前で男性を最高に仕たてる舞台装置となってることはあきらかである。女性にとってはその時が男とのはじめての愛の経験である。スパルタ人がどれほどわかい男たちに結婚したくなるよう仕むけても、あるいは彼らに義務をはたすよう説得しようとしても問題はおきる。こんな話しがのこってる。たぶん誇張があるだろう。スパルタの女性が男の頭をなぐり祭壇のまわりを引きすりまわす。結婚を約束をすることをもとめる。またもっとありそうな話し。結婚してない男性が衣服を剥ぎとられ裸にされる。冬の最中、市場(いちば)の周りを行進させられる。そしてこの罰が正当であるという歌をうたう。これは彼らがスパルタの法がもとめるところをうまくすりぬけてるからである。スパルタには独身主義者をゆるす余地はなかった。

* スポーツをきそうスパルタの女性
これらの男子にあたえられる仕打ちは極端にみえる。しかしそのきびしさは次世代の戦士を生みだすことが本当に必要だということからきてる。女子に競争を持ちこみ肉体をきたさせる。そこにはおなじ不安が反映してる。女子に配慮された食事があたえられるのは健康な女子が健康な赤子を生みだす可能性をたかめるからである。これはイリシア、安産の女神の彫像である。一部がかけたものだが彼女の表情にはっきりとしたくるしみがある。妖精が彼女に寄りそい、その腹をなぜはげしい痛みにたえられるようたすけてる。スパルタの女性はこの女神にふかく帰依した。彼女たちは常に健康な男の子どもをうむべしという圧力をかんじていたからである。スパルタの戦士の数をおおきくたもつことがが何にも優先する目標であった。戦士の数は最大で一万であった。これは紀元前五世紀をとおしへりつづけた。その理由の一つがスパルタの女性は十八歳まで結婚せず、男性は二十四歳から二十九歳までは結婚しなかったという事情がある。これは他のギリシャと比較するとしんじられないほどおそいものだった。だがスパルタの女性は子どもをうむだけの存在ではなかった。

ある一定の時期になるとギリシャの女性は外にでなくなる。そうすることが期待されてた。だが彼女たちは彼女たちとして固有の力と責任をもっていた。スパルタの女性は政治の世界でも街中でも男に対抗する存在であった。特に神聖とみられてたスポーツ競技場においてたたかう人たちであった。外部のギリシャ人をおどろかせたのほスパルタの女性の肉体のうつくしさではない。彼女たちがしめす自由奔放さである。それが悪名として有名となった。アリストートルはいう。女たちがほしいままに社会をうごかしてるという。これはけっしてほめ言葉でない。アテネや他のギリシャの都市では女性は土地を所有すること、おおきな財産を所有することがゆされなかった。女性の相続人や未亡人は父の望みにそって結婚した。年長の兄弟あるいは従兄弟や叔父がそれをしたかもしれない。それは家族の富をへらさないためのことであった。

葬式や結婚式の出席に牛が引っはる車にのることはあるが乗馬はありえなかった。スパルタで女性は財産を管理する力がある。土地を所有することも財産を所有することもできた。彼女たちは財産を相続することもできた。結婚において誰と結婚するか、あるいは結婚するかしないかも自分できめた。経済的に独立した彼女たちは乗馬でスパルタから外にでゆき鞭をふるって物事をうごかしてゆく。アテネにおいて女性が公衆の面前にでることは制限されてたがスパルタで女性は社会的にみとめられる活躍をした。彼女たちは有名人となった。そのなかでもっとも有名なのはカイネスカ、スパルタの王女である。彼女はスポーツの世界で伝説の有名人となった。彼女の名前はちいさな犬という意味をもつ。

* 二輪戦車の優勝に名をのこすスパルタ女性
彼女はスポーツを愛好する家族にぞくし男の子のような活発な女性であった。彼女は二輪戦車競争で優勝したチームのオーナーである。カイネスカは乗馬の専門家であり非常に裕福であった。まさにつよいチームをつくる責任者として完璧な資格をもってた。彼女自身は競技に参加してないが男をやとい戦車をはしらせた。彼女は自分の野望をかくそうとはしてない。オリンピックゲームにチームを参加させた。そこにはギリシャ全土からすぐれた運動選手たちがあつまりその力を競いあった。彼女の勝利はおどろきだった。その四年後にもまた勝利した。残念なことだが彼女はその勝利を自分の目でみることはできなかっただろう。オリンピアにおい競技は男子のみが参加するという規則だった。

しかし彼女は自分の功績が忘れさられることがないよう手をうった。記念碑をオリンピアに奉納した。オリンピックの聖地の中心に記念碑がおかれた。そこにこうきざまれてる。

私、カイネスカは脚のはやい馬にひかれた二輪戦車の競争で勝利したので、ここに記念碑をたてこう宣言する。自分はギリシャ全土のなかでこの王冠を獲得したただ一人の女性である。

* 政治につよい影響力をもつスパルタ女性
しかし女性が 活躍したのはスポーツにおいてだけでない、彼女たちは都市の政治においても重要な役割をはたした。彼女たちは公衆の面前で演説するよう訓練されてた。彼女たちは公的な決定に権限をもっていなかったがその意見が尊重されるように手をうってた。彼女たちは戦士がその倫理を実行しようとする時にもっとも強硬な意見をいうようだ。スパルタの法律となってないが法について地域社会の声をきき何が正義かを見いだそうとする。その時に勇者をたたえ臆病者を非難する。その時声をあげる最前線にたつのが女性であった。スパルタの女性はおしゃべりで弁論の達人であった。適切にそれがつかわれた時には鎧、兜をまとった戦士たちをもうごかした。

戦士が同僚を勇敢な死と評価する時、女性はすばらしい高貴な旅立ちという。あなたもゆくべきだったのではという。ある男が自分の剣がみじかすぎると文句をいった時に一歩前に踏みこめば充分にながくなるとその母親がいった。スパルタの女性は言論の自由と経済的な権利をもっていたがスパルタを女性にとって夢の国とみなすのは間違いである。 スパルタの女性は軍の連隊の母である。社会の仕組みにおいてそれがスパルタの中心となる。彼女たちは子どもをうみ七歳にアゴギに手ばなす。スパルタは常に出生率の低下を懸念してる。スパルタの男子は母親にとって大切なものだった。奴隷がいて家事の雑事をやる必要がない。わが子に充分な時間をそそげる。しかし時がくればわが子をアゴギに手ばなさなければならない。それは非常な苦しみである。ためらうことはゆるされない。これがスパルタである。母の本能がみたされるより国の目的が優先される。我々がかんがえる母親の姿は母と子どもの関係を大切にしはぐくむものである。だがスパルタで感情的な側面が関与する余地はほとんどない。

* きびしい戦士の母、スパルタ女性
国家レベルではゆるぎない従順さ、生死の行動原理をつらぬく。彼ら個人の生命より重視される。母親においても息子がその義務をはたす。これをなによりも希望する。そのやりかたはまるでナチであり養育ではなかった。息子が戦いにむかつ時に母親がいう伝統的な別れのことばがある。盾をもて、そうでないならそのうえに。これは勝利の帰還、さもなくば死という意味である。もし息子がこの教えにそむくならば母親からの同情はほとんど期待できない。こんな話しがある。逃亡してきた息子に出あった母親が自分のスカートを引きあげ息子に自分がもともと生まれでたところにもどるかときいたという。

* スパルタとアテネの対立を誘発した地震
ペルシアが敗北したその後のこと。スパルタの男たちは母がほこらしくかんじるようなことをほとんどやらなかった。敗北の後からスパルタとアテネは平和裏に共存をつづけた。両者の同盟は問題があったものの維持されてた。しかし両者の考えかたはあまりにも違ってた。そのために相互信頼がうしなわれてしまった。あきらかな抗争の段階である。天変地異がおきた。これで両者の同盟が崩壊し対立から抗争の段階にはいった。紀元前四六五年、一連の地震がスパルタをおそった。被害はおおきかった。おおくの人命がうしなわれた。だがそれはスパルタ社会のなかにいる敵に絶好の機会だった。人口の大半をしめるヘロットが蜂起した。マイシニアの中心にあるアトミ山に反乱の奴隷がやってきた。

それは彼らの母国の象徴でありスパルタによりうばわれたものである。そこに要塞をきづきスパルタの到来をまった。スパルタは敵を山からおろすことができなかった。紛争はながびき、彼らは同盟都市であるアテネに助力をもとめざるをえなかった。アテネは反乱軍を山からおろすために部隊をおくり城攻めの機械をもってきた。それは伝統的戦術に固執するスパルタにはないものだった。この時である。ここでスパルタは不安をかんじた。さて概していうがギリシャで奴隷をもつことは問題でない。だがギリシャ人全体を奴隷とすることは簡単にはみとめることではない。

* ヘロットの反乱に干渉したアテネ
スパルタはこの事実をしってた。さらに彼らの偏執的な不安がある。もしアテネが 反乱者を支持したら、民主主義の病原菌をスパルタにひろめたらどうなるか。この危険を放置できなかった。アテネ軍には本国にもどってもらった。アテネはこの行為を侮辱ととり憤慨した。アテネは同盟を破棄した。そしてスパルタと衝突しはじめた。彼らはスパルタの敵と結託し妨害工作をし、さらに 反乱者をたすけ逃亡を援助した。そのためあたらしい都市まで用意した。あきらかな敵意があらわれた。

* あたらしい戦いのはじまり
今度は両者のあいだに戦いがはじまろうとする。戦いがはじまった。その原因はいろいろあっあったが、その中心には過去五十年のあいだにアテネがおおきな力を獲得した。それがスパルタのあるペロポネソス半島に影響がおよび脅威となったという事実である。紀元前四三一年、ささいな口実をとらえスパルタはアテネに戦争を宣言した。彼らは軍をアテネの領域におくった。彼らはアテネに七マイル(十一キロメートル)のところまで軍をすすめた。すでにのべたがアテネは厳重な壁によりまもられてる。かって友好国であったが今や不倶戴天の敵となった。

戦争最初の年、アテネの犠牲者である。ここの墓地にほうむられてる。都市の壁の外にあった。ペリクリースが公衆にむかって熱情的に演説した。この歴史的な名演説で彼はいった。この戦いでアテネがやったことすべてはただしくスパルタがやったことすべては間違いであるという前提があり、いうところ。

* 両者の違い、国に誘導された勇気と自発性による戦い
スパルタは幼少期から少年たちに重労働のようなくるしい訓練をしいている。ところがアテネでは少年たちはこのような制約なしで成長してきた。ところがおなじ脅威に立ちむかうに、我々は危機に自発的にむかう。国家が誘導した勇気をもってでなく自然な姿で立ちむかう。

彼はスパルタが社会の仕組みや政治、あるいは彼らの性格があまりに異質で平和的な共存は不可能であるといってる。演説はこの総力戦が前例のないほど大規模なもの残酷なものとなるとの見通しを示唆した。実際、戦いは西はシシリー東はダーダネルス海峡まで、また二十年以上もつづいた。残酷な戦いだったがどちらにも決定的な結果がでないまますぐ 停滞状況になった。スパルタは陸でアテネは海で支配を維持した。五年間にわたり毎年、スパルタはアテネの領土を侵略し田畑に放火し収穫物を台なしにした。アテネは田園地帯から逃げだし都市の壁のなかに退避した。その都市と港、パイリアスは壁で厳重にまもられてる。

* 停滞状況におちた戦い
孤立した都市は港町の艦船をつうじて住民の食糧、資材を確保した。一年すぎる頃、疫病が都市におきた。死体が道に積みあがった。人口のほぼ三分の一が死亡した。歴史家、ツキジデスは人間がたえられる限度をほぼこえてたといった。財力も権力もまもってくれなかった。ペリクリース自身もこの疫病にたおれた。スパルタにとってペリクリースの死は神の加護が自分たちにあることをしめすものだった。しかしそうでないこともおきた。ツキジデスがいう。こんなことがおきるとはとギリシャ全土がおどろいた。それはスパルタの裏庭というべきこの島でおきた。パイロスはペロポネソスの西端にある島である。戦略的な重要地点である。紀元前四二五年である。

* 西の重要都市をうばったアテネ
この島がそれまで奴隷でスパルタに反乱をおこした人々のたすけによりうばわれた。地震の後の出来事だった。スパルタはこの挑発に我慢ができず軍をおくりパイロスをうばいかえそうとした。彼らの計画は島と海でアテネを阻止しようというものだった。パイロスとアテネにたいし城攻めにうつった。ちいさな部隊を岩のうえにおいた。その岩は長さが一マイルと半分(二キロメートル強)パイロス湾を横ぎってのびていた。スファテリア島であった。スパルタは相手をみくびってたことをしる。アテネは海で活躍する人々である。

彼らは艦船をおくり数日後にやってきた。彼らはすぐ制海権をにぎった。戦況は一変した。スパルタは四百の部隊をのこし退却。部隊はスファテリア島に駐屯した。彼らは完全に包囲された七十二日がすぎた。ここでおどろくべき失敗をやった。何人かの兵たちが焚き火の管理に失敗し火はもえひろがり防禦施設を消滅させた。彼らは身をかくす場所をうしなった。アテネはこの状況からどこに何人の兵がいるのかをしった。彼らは島をうばうことにした。八百の弓の射手と八百の軽装の兵が参加した。
* 孤立したスパルタの守備隊
彼らは上陸したがスパルタとの接近戦はさけた。矢をいかけたり投げ槍の攻撃をしたがスパルタが接近してくるとすぐ距離をおいた。この戦い後に三百の死体をのこしスパルタはもどった。生きのこった者たちは防禦ができる島の北端に立てこもった。アテネは弓の部隊をおくった。距離をたもって矢の攻撃をおこなった。スパルタは完全に包囲された。かってのテルモピレの状況ににてきた。そこでは三百人がスパルタの栄光のためにたたかい玉砕した。しかしスファテリアではそのような栄光はなかった。アテネは巧妙な作戦をとった。彼らはしばらくの猶予をおいて使者をおくり丁寧に降服の意志をきいた。おそろいたことに彼らは降服に同意した。

* 百二十のスパルタ兵の降服
これがスパルタ以外だったらおどろくべきことではない。スパルタの兵たちは二ヶ月以上ものあいだ、ほとんどのまずくわずで閉じこめられてた。アテネの射手は毎日、弓矢の練習をかねて彼らを攻撃した。このような状況で彼らはスパルタ人として犠牲者をだしながら降服を拒否してた。ペリクリースがあざけっていった国により誘導さた勇敢さがアテネの巧さにより崩壊させられた。彼らはスパルタがもとめる体がぶつかりあう戦いをさけた。アテネは彼らに死か栄光かの選択以外の、彼らが予想してなかった選択をあたえた。スパルタがもっていた無敵神話がここでくずれた。

これはアテネをすくう勝利である。ここに戦利品がかざってある。盾である。その傷跡からみて投げすてられてあったものを持ちかえったのだろう。そこにアテネがラコニア人からパイロスで獲得したものとかいてある。これは簡潔な勝利の宣言である。このほかに百二十のスパルタ兵が捕虜としてアテネにおくられた。もしスパルタがアテネの領域で活動をするならば彼らは処刑されるとう脅しである。スパルタ人捕虜はアテネ人の好奇のまととなった。彼らは公衆にまるでめずらしい動物のように展示された。アテネ人は押しあいへしあいして捕虜をながめた。喚声をあげた。ツキジデスがいう。群集のなかの一人があざけるようにきいた。本物のスパルタは島でしんだ。針仕事をやってるのがちょうどよい。スパルタはこれにこたえた。針はスパルタでは矢の意味がある。彼らは矢をつかった攻撃は女々しく卑怯の攻撃といったという。

* スパルタの和平とあらたな戦いのはじまり
スファテリアの敗北はスパルタに大騒ぎを引きおこした。すぐ和平をもとめる動きがでた。アテネにはこれにおうじる寛容な雰囲気はまったくなかった。この機会を最大限に利用し有利な条件で合意しようとした。スパルタの捕虜が帰国できたのは五年後のことだった。彼らが帰国しての扱いであるが、臆病者として罰をあたえられることも市民権をうばわれることも街を散歩することを禁止されることも街中で棒でうたれることもなかった。アテネ人のあざけりをだまらすようにまた戦いがはじまった。血まみれの戦い、最後の幕である。

(おわり)
お知らせ
次の簡略ギリシャの歴史シリーズを窮作文庫に収録しました。ブログ掲載分を修正し転載したものです。みやすくなったとおもいます。一度のぞいてみてください。

序論など)
序論
ミノア文明
マイシニ文明の一
マイシニ文明の二
ホーマーと暗黒時代
古代ギリシャと都市国家
密集隊戦法
スパルタ
アテネ
ペルシア
(ギリシャとペルシアの戦いなど)
マラソンの戦い
テルモピレの戦い
サラミスの戦い
プラティアの戦い
マイカリの戦いとデリアン同盟
アテネ帝国
ペリクリースの時代
(ペロポネソス戦争)
第一次ペロポネソス戦争
ペロポネソス戦争の一
ペロポネソス戦争の二
ペロポネソス戦争の三
ペロポネソス戦争の四
ペロポネソス戦争の五
ペロポネソス戦争の六
ペロポネソス戦争の七
ペロポネソス戦争の八
ペロポネソス戦争の九
ペロポネソス戦争の十
ペロポネソス戦争の十一
ペロポネソス戦争の十二
ペロポネソス戦争の十三
ペロポネソス戦争の十四
ペロポネソス戦争の十五
(スパルタの覇権など)
スパルタの覇権
一万人の行進の一
一万人の行進の二
小アジアの騒乱
(コリンス戦争)
コリンス戦争の一
コリンス戦争の二
コリンス戦争の三
コリンス戦争の四
(スパルタの崩壊など)
コリンス戦争のあと
平和なし
ルトラの戦い
アルカディアとマシーニアの反乱
マンテニイの戦い、最終のゲーム
ウルブルンの難破船

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