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ケーガンギ歴、アテネの民主主義(16、3の3)


* 宗教における女性の役割
都市国家の宗教における各種の儀式、祭事のいろいろな役割が女性の惟一の公的役割だった。あたらしく刊行された本がある。コネリー(Connelly)という名前の大学の教授によるもの。これは古代ギリシャの女神官について詳細な研究をした。以前には我々がよくしらなかったものをあきらかにした。女性はすくなくともこの世界では非常に重要である。それがその他の世界をかえたといえないが女性は中心的な役割をはたしてたとおもう。しかし物事の宗教的側面に充分な周囲をはらってこなかった。我々は彼らが極めて世俗的な生活をしてるようにみえるが宗教が非常に重要な役割をはたしてた。

* ペリクリースの寡婦と母親への呼び掛け
宗教は彼らの考えかたのなかで非常に重要であった。これら宗教的事項をはなれても、アテネの女性はしずかに注意をひかないように家庭にとどまることを期待されてた。ペリクリースはペロポネソス戦争の第一年目にしんだ男たちの寡婦と母親にむかって話しかけた。こういった。彼の有名な葬式の言葉であるが、その最後にその寡婦と母親にむけいったもの。その出典はほぼ正確だろうとおもう。私にはすこし、あるいはまったくわからないものである。このような死者にこれらの言葉がはっせられたのか。それは一般的事項についての常識的な知恵をしめした。あなた方にあたえられる栄光はあなた方が自然にあたえられた特質にとどまるものでない。女性のもっとも偉大な栄光は男たちからほとんどかたられたことがない。それが善であっても悪であっても。では、ここで彼らは何故このような言葉がはっせられたのか、どうとらえたのか。誰でもよいがいつか私に説明してくれる人がいたらありがたいとおもってる。

* 一般像とちがう女性像
これらの情報源からえられる全体像はほぼ正確とおもう。だが、ちがった情報源からえられる全体像とうまく整合しなようだ。それをのべてみる。情報源だが、花瓶にかかれ絵画のような画像芸術、さらにおどろくかもしれないが悲劇、喜劇。これらはアテネにおいて毎年、二つの有名な祭事があり、そこで公演されてた。最後にはアテネの宗教的伝統といえる神話である。

* 強力な人物像
これからみると、公的あるいは私的世界において女性は中心かつ強力な人物として登場する。クライデムネストラ(Clytemnstra)、アイスキュロス(Aeschylus)の悲劇、アガメムノン(Agamemnon)に登場する。彼女は夫である王の殺人の用意をし、彼女の支配にいる愛人の専制政治を打ちたたる。次にエウリピデスのおそろしいメディア、彼女は王たちと交渉し、怒りのなかでおそろしい犯罪をおかす。それはエウリピデスによればその行為とちがい、その怒りは極めて正当と示唆してる。これはおおくのなかから、二つの例である。ここで女性は、中心的、重要で強力で能動的な役割をはたす。けっして受動的でない。

* 悲劇の女主人公、メディア
我々はあきらかに矛盾す姿にぶつかってしまう。それはエウリピデスの悲劇、メディアの有名なセリフにあらわれてる。次にそれをのべる。アテネのディオニドスの祭りでえんじられた劇にある。その女主人公、メディアは外国の女性である。彼女は尋常でない力をもつ。魔女といえる。ハロウィンの魔女を想像してはいけない。彼女の美貌はあなたを魅惑する。彼女は強烈な力をもつ外国の女性である。その劇中で彼女は女性の運命、それはあきらかに紀元前五世紀のアテネの女性の状況を正確に説明してるが、その運命についてはなす。

* 内面の言葉
いきてるもの、分別のあるもののうち、女性はもっとも不幸な存在である。まず過剰な富が我々、女性は夫をかうようもとめられ、我々の体のために主人をもつことをもとめられる。それが一人でなければ、事態はさらにわるくなる。そして問題は深刻になる。どちらがよいか、わるいか。女性はこの状況からの逃げ場をみつけるのは容易でない。あるいは拒否も容易でない。結婚は女性を追いつめる。その行動、身振りがかわり別の世界にうつる。

彼女に預言者のような能力が必要である。それは寝所をともにする夫を自在にあやつるのをまなんでいないならだが。もし我々がこれをうまく、注意ぶかくあやつれたなら、そして夫が我々とともに生活し、夫の負担をともにするなら、この生活は人がうらやむほどすばらしい。そうでないならしんだほうがよい。男が夫婦生活にあきたなら、彼は家をでて、その退屈さをおわりにする。そして友人や同年輩の仲間のほうにゆく。しかし我々は一人、家にとどまることをしいられれる。彼らはなんというか。我々は家庭の平和をたのしむ。だが彼らは戦争にいってたたかう。なんと馬鹿なことか。私は一人の子どもをうむより、戦線の前にでて三度立ちむかうだろう。

これをきいてアテネ人の男たちや聴衆はどうおもったのかしりたい。メディアがえがいた姿、女性は男に従属するものという姿は証拠からよく整合する。だが女性の運命に異議をとなえ文句をいう女性は彼女の名前をとった悲劇において強力で中心的人物であることに注意する必要がある。ところでこれだけでない。アテネ風の演劇のソフィクリ(Sopheclea)の悲劇、アンティゴニ(Antigne)がある。彼女もまた英雄的な女性である。王とその他の人々にさからい正義をつらぬこうとした。その信念をすてるよりむしろ死を受けいれた。これはペリクリースが思いえがいてた女性たちでない。かたることをやめ、放置した女性である。

これは、おおくのアテネ人の前で国の費用でえんじられたものだ。その脚本はアテネの有名な詩人であり演劇家である人物によりかかれた。メディアは中秋に恐怖をあたえた。それと同時に不正義の犠牲者として哀れみと同情をよぶ対象だった。彼女はその善悪をとわず、もっとも男たちによりかたられることのない人物だった。これらの男たちは劇場をでて一週間はメディアのことをかたることだろう。アテネの女性の役割は法がしめすより、もっと複雑であったとしんじる理由がある。女性について相互に矛盾するところがあり、それの充分な説明をもってない私がいえるのはここまでである。私は学界の論爭に立ちいらない。しかしここでのべた分裂は過去の証拠にあらわれてる。我々はさらなる何か、証拠を必要としてる。この両者がどれほど真実かをしるには、ぬけてるものがあるとおもう。次に奴隷制についてのべる。

* 奴隷制
ギリシャ、紀元前五世紀頃から家に付属した奴隷が(chattel slavery proper)はふえていった。社会で重要な要素となった。奴隷の主要な供給源は戦争捕虜、海賊行為による捕虜。彼らは人々を捕獲し奴隷としてうることを主要な生業としてた。もちろん、捕虜となった人々は最初、戦争、海賊などにより奴隷となり、奴隷商によりうられた。アメリカ南部の奴隷とちがいギリシャ人は彼ら自身で奴隷をつくろうとしなかった。あるいは成功しなっかった。

* 奴隷の起源
彼らは奴隷商から買いとるのが典型だった。中国、エジプト、ほとんどすべての文明をもつ人々とおなじく、ギリシャ人は外国人を劣等の人々とみなしてた。そして彼らをバーバリアン(barbarian)とよんだ。彼らの言葉が bar bar のようにきこえたからである。ギリシャ人のためにはたらく奴隷のほとどは外国人だった。ギリシャ人は時には、ギリシャ人を奴隷にすることがあったが、ギリシャ人の家庭でははたらかなかった。あるいはおおくはなかった。すでにのべたが奴隷は農夫たちとともに農場ではたらかせた。これが普通だった。この事情は二十世紀がはじまる前までは事情が同じだった。

* 農家ではたらく奴隷
ギリシャの大多数の農家は小規模だった。貧農では一人の奴隷をかかえれば幸運だった。はっきりといえないが、一人あるいは二人の奴隷をかかえ自分たちとともにはたらいたのだろう。以前にのべたが重装兵士の農家はこの程度だったとおもう。上層の人々は大規模だった。それは自由な借地人に貸す。それは奴隷がたがやし、また奴隷が監督するものもあった。

より大規模の土地をもつ人々はひとつのおおきな農地をもつのでない。私はあなた方に米国南部の状況、一人の農業主のもとに、おおくの奴隷を一カ所にかかえ大規模経営する姿を思いうかべないようにおねがいする。それはギリシャの典型的姿ではない。富裕な農業主は都市国家のなかに散在する小規模な農地をもつていた。このような状況では後代の新世界の綿花や砂糖黍栽培ではたらくような多数の奴隷を生みだす方向にははたらかなかった。そこで奴隷はすこしおかしな表現だが古代の工業ではたらく手工業者のようにはたらいていた。

* 鉱業における奴隷
しかしこのような例にあてはまらないものがあった。それは鉱業である。アテネ南部の鉱山の状況である。ちがった姿をみせる。ニキアス、紀元前五世紀、アテネの富豪は数千人をかかえてた。彼はそれを鉱山開発をうけおう人々に貸しだした。それで利益をえてた。だがこれは例外的な存在だった。これ以外の例はしらない。これが個人がかかえる奴隷の数の最大のものだった。

* 小規模奴隷、盾製造
アテネのもう一つの大規模奴隷の所有は居住外国人の家族百二十人ほどの奴隷を彼らの盾製造工場にやとってた。それはアテネの軍事鉱業複合体だった。ほとんどの製造工場は非常に小規模だった。その工場に一人ないし二人、少数の奴隷だった。ほとんどすべての商業には手工業とおなじく奴隷がはたらいてた。彼らは農業とおなじくその主人といっしょにはたらいてた。もしこれらの奴隷をよくみるとアテネの大多数の奴隷は自由人の手工業者、職人、普通の労働者のようだった。

* 小規模奴隷、商業
店舗にいる彼らもそうだった。というのは多数の労働者を前にし鞭をつかう人はいなかったからである。もし三人がはたらいてたら、一人が所有者でほかの二人が奴隷だろう。相当の数の奴隷が家庭内の従者としてはたらいた。おおくは羊飼いだった。公的にやとってた奴隷としては警察官だった。といってもびっくりしないでほしい。彼らは非常に少数だった。また監獄の監視人がいた。監獄も非常に少数で囚人もそうだった。事務員にもいた。彼らは秘書だった。そのうちの何人かは働きを評価され昇進した。これは普通のことで、商業においていえば、特に銀行にいた。紀元前四世紀のアテネでもっとも富裕な人物に、パジアン(Pazian)とよばれる人物がいた。彼は才能を発揮し自由を金でかった。そして富豪となった。これは奇人伝の話しである。このような例がおおくあるとおもわないでほしい。こんな一面もある。古代ギリシャの奴隷の数である。

* 奴隷の総数は
明確な答をだすだけの証拠がないので、ずっとながく論爭の的となってきた。奴隷の数の明確な数字はない。アテネをのぞいて自由人と奴隷の割合をしめす数字もない。

古典時代の奴隷の人口を証拠から推定するが、それは紀元前五から四世紀における奴隷だが、二万から十万とみる。そこで私は六万人とみてる。アテネの同時代の自由人の推定だが、四万世帯から六万世帯という推定がある。これから私は五万世帯とみる。これから一世帯に二人の奴隷がいて、アテネの自由人の四分の一から三分の一だけが奴隷をもってたとみる。

* 奴隷の分布
奴隷の分布は均一でない。ほとんどの家族は奴隷をもたない。ある家族は多数をもつ。ある歴史家の推定だが、南北戦争以前の米国南部で全人口の三分の一、自由南部人の四分の三は奴隷をもたなかった。奴隷制が南部の経済において需要だったからこれらの歴史家はこんな推定をしてる。古代アテネにおいても同様に重要であり、抑圧的だった。だが私はこの推定にいくつかの問題をかんじる。

その一つは南北戦争以前の南部の綿花地帯との差がある。そこで奴隷の解放はすでにあったが、大量の奴隷人口が有利にはたらく単一の商品作物が経済と社会を支配してた。ところが、アテネのようなところであるが、その経済は複数の作物から成りたち、せまい土地が散在している。そこでは大規模の奴隷制は適合しにくい。また、別の違いだが、奴隷がどの程度、解放されるかとの事情である。南部では比較的にまれであり、ギリシャでは極めて普通のことだった。もっとも有名な例はすでにのべたが、銀行の事務員から身ををこし、かせいで自由を買いとったパズアンがいる。彼はアテネのもっとも富裕な銀行家となった。市民権もあたえられた。だが奴隷自身で自由を勝ちとることはなかった。

* 奴隷の解放
人々はしばしばその死を契機に奴隷を解放した。またたびたび様々の理由で解放した。また、米国南部との違いだが、そこでは奴隷は主人と皮膚の色で違いがわかる。主人は奴隷解放に強硬に反対し、その反乱をおそれる。古典時代のアテネは非常にちがう。そこでは奴隷は街中を階級意識のつよい貴族をおこらせるほどに街中を濶歩する。プラトンがアテネの民主主義について文句をいってる。うられた奴隷の男女の自由は、彼らをかう人々とさほど差はない。紀元前五世紀の無名の著作家がその振る舞いに嫌悪をしめしてる。彼らをこらしめてもよいのに、しない。彼らは人がとおる時に脇によけないといった。

* 寛容な扱い
もし自由人が奴隷をうつことに法的正当性があった時に、アテネ人がしばしば奴隷と間違えられてうたれることがある。自由人の衣服が奴隷と居住外国人とくらべ特にすぐれてるわけでない。アテネ人は奴隷が贅沢にくらすことをゆるしてた。ある者は極めて贅沢な状態だった。

海軍力にたよる状況において、奴隷の労働は必要で金でかう。彼らの働きから利益をえる。奴隷が富裕になってしまうと、自分の奴隷があなたをおそれる必要がなくなる。スパルタでは自分の奴隷があなたをおそれるがアテネでは、もしあなたの奴隷があなたをおそれたなら、おそらく彼の金をつかって危険をさける措置をとるだろう。

馬鹿げたことをいうようだが、言論の自由のなかで奴隷と自由人を平等の関係におく事情である。これはアテネの民主主義になやまされた右翼の人物がはっした言葉のようだ。だがこれが真実をあらわしていて、馬鹿馬鹿しいといっても、それにかわる説得力をもつ考えがないので、否定できないものである。これで私は奴隷がアテネで一定の安心をかんじてくらしてたとおもう。古代アテネでは奴隷と自由人を識別するのが簡単にはできなかった。これは米国南部の状況と対照的な部分である。

* 奴隷解放の例
さらに特記すべきはアテネ人は彼らがもってたすべての奴隷を解放することもかんがえたことがある。紀元前四〇六年、アテネはペロポネソス戦争で敗北に直面した。彼らは軍役にこたえられる年齢のすべての奴隷を解放した。さらにアーグヌゥシ(Arginusae)の戦いに勝利した艦船にのった奴隷たちの市民権をみとめた。二度、重要な時点で、成功はしなかったのだが、同様の提案をおこなった。さて、南北戦争で奴隷を解放し南軍に参加させるという提案を南部政府に提案した人々がいた。だがでるたびにつぶされた。ここで我々はあきらかな違いを両者にみることができる。南部人におそれがあった。彼らは奴隷を信用せず、もし武器があたえられたら彼らに背をむけ彼らをころすというおそれだった。アテネ人はその恐れをまったくもってなかった。私は二つの体制の違いをしめす大事な話しだとおもう。

* 質疑応答、奴隷へのおそれ
では、この主題ではなすことはおわった。七分から八分あるので質問をうける。

学生:どうしてアテネ人が奴隷をおそれなかったのか。
教授:まず、アテネ人は奴隷にひどい扱いをしなかった。なので根本的憎悪がうまれなかった。次に、解放される可能性がないわけでなかった。これらがはたらいて両者のきびしい対立をうまなかった。つぎに、奴隷をアテネ人は自分をころそうとおもってるという感覚をもってなかった。これはおおくの奴隷が家庭にいたことに関係するとおもう。米国南部では家庭内の奴隷は非常にすくなかった。彼らは友愛的あるいはあたたかい感情をうむかもしれない存在である。さらにもう一つの状況がある。アテネの奴隷は主人といっしょになってはたらいてた。監視された集団ではたらいたわけでない。農家の農夫の同僚労働者としてはたらいてた。このような状況すべてが関係した。我々はアテネにおいて奴隷の反乱をきいたことがない。ところが ヘロットがスパルタでは反乱をおこしてた。彼らはスパルタとはちがう。紛争はあったが反乱はなかった。これらが理由となってる。

* 解放への仕組み
ほかに。(質問者の発言は不明)。彼らが技術を習得した時、程度はちがうが米国南部でもおきた。その場合、それだけ生産性がたかまるから主人側の利益でもある。だから奨励し、その見返りもあった。それはふえた利益から一定部分をとっておくことである。これを蓄積して、最後に自由を買いとることにいたる。これは米国南部でもおきたことである。

* 逃走奴隷
他は。(質問不明)
逃走奴隷はいたとおもう。だが私のしるかぎりおおきな問題ではなかったとおもう。米国の場合は、逃走奴隷の扱いをさだめる法律の制定において南北間のおおきな問題となった。私は逃走奴隷はそんなにおおくなかったとおもう。というのは、奴隷がどこににげたとしても、そこにも奴隷制があった。だからアテネからビオーシャににげたとして、彼らはビオーシャの奴隷となる。このことと、すでにのべたがおだやかな扱いが逃走奴隷がおおきな問題となるのをふせいだとおもう。

* アテネとスパルタの違い
他に。学生(アテネとスパルタの状況の比較)。
次のことを指摘しておきたい。ある男が紀元前四世紀の初頭に集団を引きいて反乱をおこした。それは ヘロットとスパルタ兵士(spartiates)でないいスパルタの地にいる人々の集団だった。彼らはよろこんでスパルタの秩序にさからう人々だった。

(以下、裁判についての質問があったようだが、以下は省略する)
(3の3おわり)

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ケーガンギ歴、アテネの民主主義(16、3の2)



* 経験をつんだ聴衆の存在
彼らは日常の経験をつうじてまなび議会における非常に手強い聴衆となる。だがこんな疑問がある。議会における討議である。が特別な知識も能力もない市民がよくしってる人の助けもなしに参加できたか。証拠からみて私はなかったといいたい。というのは議会や五百人委員会には発言したがらない人物がいた。それは経験不足、情報不足、教育不足によるものである。そこには公式に、あるいは非公式にはっきりとした抑止があったからである。

* 勝手な発言を抑止するもの
また、もう一つの比較を紹介したい。私は何年ものあいだ米国の有名大学の学部の会議に出席してきた。そこでみたもの。それは、ほんのすこしだげが発言し、さらにすこしが思いきってする。それは百人をこえない集団で議論されたが、非常な対立をよぶとはおもえない問題につき、賛成あるいは反対の意見をいう時である。

問題の議論が熱情を呼びおこす時で、まれな、あるいはより大規模な会議においての状況はいうまでもない。この学部の会議に出席してる人々は極めて教育水準がたかく、普通人よりはるかに聡明で、公衆のまえではなすのが職業の一部である人々である。会合は規則にそい端正さをもってすすめられる。規則は議事の妨害、個人攻撃を禁止してる。

もしある人があの男は大嘘つきといったら、別の人は彼に説明をもとめ、その発言は個人の名誉を毀損するという。その発言は削除しなければならない。こんなことはアテネの議会ではおきなかった。このような非常におだやかな学部の会合においても発言は非常にすくない。それは何が抑止してるのか。何故か。その答は、あなた方はわかってて、はなそうとしてない。何故か。

* 人々が発言をおそれる理由
何故、あなた方は発言をおそれてるのか。(学生が「愚かとみられれたくないから」と発言)。ありがとう、それが答である。人々は愚かとみられることをおそれる。誰もそれをいわないのにおそれる。それが彼らのやりかただ。これがすばらしい抑止力となる。これを理解してないとアテネの議会がどう機能したかを理解できない。

* アテネ議会の抑止力
アテネにはもっとおおきな問題がある。アテネの議会はしずかでない、時々事件がありそうだ。アリストファネスの演劇でデカイオプリスがピニックスにすわっていったが、大声でおどし、演説者の邪魔をする。プラトンもおしえてくれる。アテネ人が演説者をどのようにわらい、茶化すかを。彼らは必要な専門知識がかけてたのである。

このような非公式の抑止力だけでも演説者の数を減少させたとおもう。だが公式の仕組みもあった。ピニックスでの議論で話しにわってはいろうとした時にすこしかんがえる時間をつくるとか演説者の発言に注意をはらう。これらを促進する措置である。それはたぶんペリクリースの時代のどこか、あるいは彼の死後十五年以内の時点でアテネ人はグラフェ・パラ・ノモ(grae para nomo)という手続を議会に導入した。それは議会の市民を政体の守護者とする効果があるものである。

* 議会の特別な手続
市民なら誰でも五百人委員会あるいは議会においてだされた提案に異議を申したてることができる。条件は現存する法と矛盾するというもの。その申立てはその提案の効果を失効させ、あるいは法案がすでに通過していても法律化を中断させる。その申立人は法廷にだされ、もしそこで否定の表決がでたら、その申立てはみとめられず、彼には罰があたえられる。

* 民主主義、不安定化
三つの事実がある。ある人がこれをやって市民権を剥奪された。議会とその手続が期待するものは、公式、非公式をとわず議論において無知と無能が影響をあたえることを極力さけようとゆうものである。もちろん、無知の低能者がなんら影響をあたえないことがある。我々の社会でもおなじである。ここに一つのより深刻な指摘が民主主義になされるようになった。

ペリクリースにより、不安定さがまし、分派活動や階層間の争いがふえてきたという。それは所有権の軽視をよび、少数の富裕者にたいする多数の貧者の支配につながったという。この指摘は合衆国の建国者の考えかたにおおきな影響をあたえた。彼らは民主主義を拒否した。このことをしかっりしっておく必要がある。だが彼らが民主主義と理解してたのは批判者がいってるものである。

* 民主主義の中断と復活
彼らは意識して民主主義を拒否した。彼らはそれでないもの、大衆的な共和制をかんがえた。その共和制は民主主義とすこしちがうものだった。エフィオルテスとペリクリースによりはじまったより完全な民主主義がはじまった。強固で秩序だった政権は百四十年つづいた。それは二度、貴族政治により中断された。最初はクーデター、くるしい戦いのなかのものだった。四ヶ月つづいた。

二度目はペロポネソス戦争を勝利したスパルタの強制による。 一年たらずだった。それらは、階層間の争い、殺人、追放の報復、財産の没収もなく、より完全な民主主義は復活した。長年にわたる戦争の遂行、敗戦、外国による占領、貴族政治があったがアテネの民主主義は規律と、おだやかさをもって存続した。それは世界に比類ないものだった。
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この変容は政治と政体の状況にてらして注目すべきものだった。それがペリクリースとその後の時代の民主主義にひろがっていった。だがアテネの大衆は軍産複合体勢力の存在に無縁であり、点検と均衡(check and balance)の政府の複雑さや無思慮なロビー活動、捏造にはしりがちなマスメディアの世論操作の妨害はうけなかった。この点を指摘しておく。彼らは議会がひらかれる日にピニックスの丘にゆき、演説し、投票するだけだ。そこでもっとも過激な社会、経済の変化を生みだしていったのだ。

* 政治的平等と経済的平等
彼らやりたいとおもってることができた。貧民に有利となるであろう債務の取りけし、貧民に有利となる富裕者への没収的税制の導入、少数の富裕者からの単純な土地収用、これらはすべて可能だった。何者も彼らをとめられなかった。だが彼らはやらなかった。法の前の平等が民主主義の基本原則だがペリクリース時代のアテネ人には政治上の平等はあったが経済的平等の場所はなかった。

反対にペリクリースが主導した民主主義は私有財産の保護をはかり不平等な富の分配につき、変更の努力はなかった。陪審員になる時の宣誓だが次の条文があった。私は私的債務を消滅させ、アテネの市民の土地、家屋を再配分させることをゆるさないといった。さらに主たる行政長官は毎年職につく時に宣誓する。職につく時にもっていたものをもち、職をさるまでかえないといった。アテネ人は私有財産を尊重し、経済的平等が行きすぎることを拒否した。これが彼らの民主主義が平和的で、安定し、持続した説明になるとおもう。

* アテネ成功の理由
何故、大多数のアテネ市民は控え目でおだやかだったのか。それは紀元前五世紀のアテネは比較的多数に富が分配されてたという事情があった。これは寡頭政治や貴族政治がおこなわれた都市国家と比較してという意味である。

繁栄拡大していった時期には合理的でおだやかな政治をおこなうことが困難だった。おおくが貧困である時期もそうである。このことからもアテネの民主主義が成功したといえる。しかし常に、極めて富裕な者と何千人もの貧者が存在する。どの時代のアテネにおいても大多数の市民は重装歩兵になれるほど富裕でなかった。それは家族で農業を経営し、歩兵をささえるほどは富裕でなかったという意味である。

それはつまり、おおくの貧者がいなかったとはいえないということ。最貧層は歩兵としての質をたもてるほどの財産もない人々だ。だが彼らが艦船に乗りこみ、アテネに富、力と栄光をもたらした、その人々である。この三十年間は、戦争、疫病、貧窮、敗北の最悪の時代だった。にもかかわらず私有財産権に文句をいわず、経済的平等化として、債務の取消し、土地の再分配のような革命的政策をもとめない。ペリクリース時代のアテネ人は、ただ法の前の平等をもとめたのだ。

* ペリクリースの政治、二つの平等
私はアテネの民主主義をかんがえる時に、基本となるものだとおもう。すべての市民に完全な政治的権利をというのがアテネの民主主義を他の都市国家の寡頭政治、貴族政治と区別するものである。法の前の平等とすべての市民の政治参加という二つの平等により彼らには機会があたえられてる。これらが支配する社会でアテネ人はひどい国難、危機にむかっていった。政治的平等、個人主義をゆるす法、民主主義の堅持、それの寛容な解釈、これこそペリクリースがおおいに貢献し同僚市民にむけ誇りと信念をもってうったえ、その考えを共有したものである。

アテネ人は合理的、世俗的、世界的視点にたって人生に向きあってた。政治的自由、個人自治の重視を大切にしてた。公民としては共和制で、かつ民主主義のもとにくらしてた。このようなペリクリース時代のアテネ人は我々の時代の支配的な考えや価値観に非常にちかい。それは古代からのどの文化と比較してもそうである。それがペリクリース時代のアテネが我々に重要な意味がある理由である。

* アテネ人の特色
アテネと我々を比較して、類似からまなぶところがあったのだが、むしろ違いからもおおくをまなぶことができる。アテネ人は富や財物を評価するが、その地域社会への貢献への参加とそこで評価されることとくらべれば、それほど高貴で重要とはおもってない。彼らは個人の重要性、自己決定権、法がみとめる権利の主張には先駆的だったが、規律のとれた政治の世界に関与することを重視し、自己の精神世界の充実をもとめることを想像できなかった。ペリクリースとその時代の人々を理解するためにはこれらの違いの重要さをもっとしる必要がある。その時、我々はすこし謙虚になってまなぶべきとおもう。アテネ人は古代の人々だが彼らは我々がわすれ、あるいはけっしてしらないことをしっておりしんじてたのかもしれない。彼らはある点においてただしかったのでないかという可能性を率直にみとめるべきとおもう。

* 市民の範囲
私はここまで活発に活動する市民のためのアテネの政体の状況をはなしてきた。この市民は両親が市民権をもつ成人男子である。そこではアテネにすむおおくの人々が排除されてる。そこで二種類の人々に突きはなす。政治から排除されてる女性と奴隷である。両者は古代アテネの非民主主義的側面、我々の基準からみてそうである側面を暴露したいとおもう現代の学者が注目してる人々である。この学者たちはすべての生ける者は平等でなければならないともとめてるようだ。

* 差別の問題
人々が男女間に差別があってはならないとおもってることを私はしってる。奴隷が存在すべきでない。また市民でない人々が市民権をえたりその権利をえられれようにすべきという声がある。人間にかぎられてる保護につき動物にもっと保護をあたえるべきと、ねがうおおくの人々もいる。これらの保護に木々や他の植生をくわえるべきとねがう人々もいる。それでアテネと我々の状況とその判断をくらべてみる。

* 女性の地位
まず女性からはじめる。歴史にあらわれるおおくの文化と同様にギリシャも男性に支配されてた。これはペリクリースの時代のアテネもそうだった。それはまた他のギリシャの都市国家ともかわらない。古典ギリシャの女性の地位についてはながいあいだ論爭の的となってきた。アテネの法、規則、哲学的あるいは道徳的文書あるいは日常生活をや社会組織の情報をおしえる記録、これらから証拠がえられる。

* 女性の公的参加
女性は公的生活のほとんどの場面から排除されてた。 彼女たちは投票できなかった。政治的集会に参加できなかった。公職につけなかった。政治に直接に参加できなかった。ところが、すべての階層の男性は公的な責任をもちそれに参加する機会があった。

* 女性の結婚
女性はわかくて結婚する。十二歳から十八歳、平均では十五歳だろう。夫であるが三十歳を下限としそれ以上で結婚する。女性は常に娘と父親のような関係にいたのが実情である。結婚は常に事前に用意されてた。社会の階層のうえになるほど父親がでて経済的、社会的条件を配慮した結婚が用意された。

社会的地位がさがるとこれはあたらないかもしれない。証拠がないのだが、上層階級より非公式となり当事者間の希望にもとづいた結婚がおおくなるようだ。証拠がある話しをすると、最貧の女性にはあてはまらない。通常、女性は夫を選択する権利はない。女性の持参金は男性の親戚により管理される。離婚は非常に困難である。そのためには男性の親戚の承認が必要で、かりに承認があっても、離婚後の守護者となる意志がなければならない。持参金は離婚の場合、女性とともに返却される。そしてそれはまた元の父親、あるいは然るべき男性の親戚の管理にはいる。

* 跡継ぎをうむ仕事
社会的に尊敬される女性は夫の家族における跡継ぎをうむこと、それが仕事であり責任とみられてる。しかしもし女性の父親の家族に跡継がなかったら、ギリシャ語でエピクレイロス(epikleros)とよばれ、その家の財産を引きつぐ女跡継ぎとなる。その場合、彼女は法定の血縁と結婚しなければならない。それは彼女の父親の血縁で、父親の次の順位の血縁者となり、その家の男の跡継ぎをうむこととなる。男子の子孫のためにはアテネ人の観点からは女性はある家族からある家族に貸しだされる。それはオイコス(oikos)、家族の単位(family establishment)が存続に必要な男子の跡継ぎをうみ、そだてるための目的があるのである。

それぞれの子孫が純粋で正当に継続されることが重要であったので女性は注意ぶかく家族外の男子から分離されていた。また家庭内においても女性専用部分に閉じこめられてた。男子は性的満足を家庭の外、高級あるいは下級の娼婦にもとめることがある。彼女たちのおおくは外国からあつめられた。尊敬をうける女性は家庭にととまり、子どもをそだて、料理をし、衣をおり、家事の監督をした。
(3の2おわり

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ケーガンギ歴、アテネの民主主義(16、3の1)



* 概要
私はここでアテネの民主主義の最盛期の姿を説明する。それはエフィオルテスの死、ペリクリースが改革、この後にできたものである。我々が立法機関とよぶものと、それより重要性がおちるが行政機関とよぶものにつき説明する。その後に我々が司法機関とよぶものを説明する。このアテネの司法機関は現代の目からみるとより奇妙にみえる。毎年、六千人もの陪審員(jury)の表をつくり裁判にのぞむものである。
(16. Athenian Democracy (cont.)、2008/11/20 に公開、Yale Couses)

* 司法機関
ある日のこと、割り振りにより指定された陪審員がある特定の裁判所の特定の裁判にのぞむ。通常の人数は五百一人だが裁判のよっては五十一人であったり千五百一人だったりする。公的か私人間のもの、重要性などにより判断する。

* 陪審員の指名
賄賂や不公平性をさけるため、アテネ人はその指名について極めて複雑なものを作りだした。これで不正を予防しようとしたのだ。アリストートルのアテネの政体(Constitution of the Athens)、その六一章にある。それをよむと複雑さがわかる。彼らはこれでは誰が陪審員となるかがわからず、賄賂がおくれない。それでもやるなら六千人におくることになる。そうかんがえたようだ。そのやりかたは現代のアメリカとおおいにちがう。

* 検察官、弁護士がいない
まず検察官がいない。弁護士のような代理人、法律家がいない。シェイクスピアがよろこびそうな状況である。民事、刑事、公的、私的な問題、大規模あるいは小規模な事案、これらが裁判の事案として受けつけられ私人により審議される。原告(plaintiff)と被告(defendant)、告訴人(suer)と被告訴人(sued)が彼ら自身の声で裁判をあらそう。

* 代言人の活躍
自分の声、自分の言葉でできないならそれをたすけ、その裁判の準備するる代言人をやとうことができる。この仕事はアテネでおおいにはやった。それはペリクリースの時代より後のことだが、有名な裁判の代言人の発言は保存された。その最善のものは紀元前四世紀以降である。

* 判事がいない
次におどろくことである。判事がいない。陪審がすべてである。自尊心のつよいアテネの民主主義者たちはこんな個人の介入をみとめない。彼がどれほど能力があっても、何が重要な証拠であり、またそうでないか。何が適用すべき法か、どのような手続を適用すべきかを差配する人物をみとめない。アテネの観点ではこれは学問や専門性を重要視しすぎてるとおもわれた。それは不正をうみ、非民主主義的偏りをうむとかんがえた。それは誰が判事となるかわかれば陪審員の時とおなじように賄賂の可能性がうまれる我々の社会でかんがえれば判事が賄賂を受けとることはないわけでない。それをさておいても判事が片よってることがないわけでない。The Athenians would have no of that .それで それは関係する法と前例を引用する異議申し立てや、原告と被告のどちらを採用するかをきめる陪審員にまかせるのである。

* 正義と公平の考え
正義と公平さを執行するうえでアテネの民主主義者たちは専門性にほとんど信頼をおいてない。これが民主主義政治におけるもっとも民主主義的特徴である。そこにはすべての人は充分な判断力をもってる。あるいはそれがなんであるかはともかく裁判に重要な判断能力をもってる。それを前提にし、裁判の場においては原告と被告は裁判に必要な陳述の機会があり、反論し、関係する法を提示し、証人をだし、最後にその主張をまとめるのである。

* 裁判の水時計
またアメリカの目からおどろくことである。一つの公判にはさだめられた時間がある。そのための役人がいて水時計ではかる。どれも一日で結審する。最後に陪審員が判断する。判事がいないから当然、彼らは何を検討すべきだという指導、どんな可能性があるかなどの指導もない。陪審員たちは議論しない。
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* 投票で判決
もしかしたらいそうだが、千五百一人ものいかれる男たち、彼らはいない。彼らは単純に秘密投票をし、単純過半数で判決をきめる。罰が必要な場合で、法に規定されてない場合、あるいはほとんど規定されてない場合もあるが、次のようにする。勝訴した原告だが、彼は罰を提案する。ところが被告には対案提出の機会がある。ここで陪審員が議論なしで表決する。陪審員が彼らの案を提出することおはない。あらたに罰をつくることもできない。どちらかの案を選択するだけである。

* 罰のあたえかた
通常は罰はよりおだやかのものが選択される。というのは陪審員は非合理な案をさけるからである。原告が重罰を主張したら、陪審員は相手の罰を選択する。反対のやりとりでもおなじ結末となる。これを批判する意見がある。それではなんでも訴訟に持ちこみたいアテネ人をつくる。アテネ人は訴訟好きかもしれない。だが、この仕組みのなかに工夫がある。

* 訴訟の抑制
根拠のない、合理的でない、おかしな、あるいは無茶な訴えをへらすものである。原告はさだめられた割合の陪審員数の表決がえられなかったら相当量の罰金をはらはねばならない。政府への訴えは政府に、私人間の訴えは被告にはらうものである。たしかに効果があるとおもう。現代の我々の仕組みでも役だちそうだ。たとえば敗訴した原告あるいは被告につき判決で訴訟費用の支払いをめいじることができる。これは馬鹿げた訴訟を防止する仕組みでもある。だがこれはアテネほど徹底してない。あなたが陪審員におおくの賛意をえられなければ、訴訟の費用がかかることになる。

* この裁判の欠陥
アテネのこの裁判にはおおくの欠点がある。先例にしたがわないから判決は奇妙であったり、予測困難なものになる。陪審員は偏見をもってるかもしれない。また陪審員は被告、原告にたいし彼ら自身の知的能力、知識でしか判断できない。彼らは法を不正確に適用する。事件の経緯をゆがめる。我々は法廷において彼らの演説をきかされる。彼らは誰もしらない法を作りあげたりする。また、意味不明の議論を展開したりする。彼らはこの機会を悪用したりする。証拠や関連性にもとづくゆがみのない陳述もあろうが、適切な判事の指導がなく、それが実現するというのは夢物語、出鱈目、空理空論であろう。

* 代言人の主張
アテネの有名な演説家の逸話がある。これは五世紀末から四世紀にいたリシアス(Lysias)の話しである。彼は裁判で代言人として活躍した。ある人がやってきて裁判に巻きこまれた、報酬をはらうから裁判での主張の演説をかいてくれといった。彼は承知した。それで裁判はうまくゆくといった。彼は原稿をわたした。すばらしい演説だとほめた。これでまけるわけないといった。リシアスのドアが再度たたかれた。その男だった。彼は演説を再読した。自分が間違ってるかもしれないが、この論理はひどい。矛盾、飛躍がある。リシアスがいった。落ちつきなさい。陪審員は演説を一度きくだけだといった。

もちろん、論理の欠陥はのこったままでも、現代の目からみてアテネのやりかたはかなりの魅力がある。アメリカの司法制度は批判されるところがある。過大な技術的要件、理解困難な複雑さがある。それは法律家や判事が中心的役割をはたすことからくる。これはまた、司法制度でたたかうために費用がかかり、金持ちが圧倒的に有利となる状況をうんでいる。

* 米国司法の批判
根拠のない訴訟事案を抑止する措置が充分でないので裁判で公判日程が一杯になってしまう。アテネでは陪審員選びに時間をかけないが、ここではかかってしまう。法律上の技術的問題がさらに時間をかけさす。公判処理に時間制限がない。公判がはじまるまで何年もかかる。時には、原告がはじまる前に死亡してることがある。

裁判をうける人々の権利をまもるためにいろいろな配慮がなされてるが、それは手続をどんどん複雑にする。それが裁判に遅れをうむが、誰もがそれを妥当とかんじてるわけではない。時間がかかりすぎると正義のおくれは正義の否定につながる。判事がしめす判決は非常に複雑で、直接的でないので普通の市民には理解しがたものとなってる。

* 市民目線のアテネ
結果、判事や法律家への批判がおおい。また司法制度への信頼もうしなわせてる。これをみれば、アテネの仕組みは短銃、迅速、市民の誰にもひらかれ、理解しやすいものとなってる。そこにはおだやかな罰をうながす仕組みや、不合理な無駄を抑止する仕組みがある。そこには市民と法のあいだを邪魔する技術的問題や法律の専門家による障壁がない。普通のアテネ市民の常識を前提にした仕組みである。全体としてみて、アテネの民主主義の仕組みはペリクリースの時代に最高となったが、すぐに民主主義に反対する当時の人々のきびしい批判にさらされた。

* アテネ民主主義の批判
のこされた文献から、何世紀ものあいだアテネ人を解釈する人々がいる。彼らは民主主義につききびしい結論をだしてる。古代の著作家の攻撃は大衆で構成された会議が政府をうごかす、あるいは公職者を籤引きでえらぶという考えにむけられてる。アテネ、スパルタ、ペルシアと渡りあるいた変節漢、アルソバイアデス(Alcibiades)はスパルタで民主主義につき何もいうべきことがない。馬鹿者のいうことといった。プラトン(Plato)はソクラテス(Socrates)をとおしてもっと完璧に、辛辣に評価してる。

* プラトンの批判
それは家をたてる、あるいは船を建造するようなもの。その時にアテネの議会は専門家のいうことしかきかない。もし専門の能力をもたない人がそんなことに忠告しようとしたら、たとえ彼が非常な美男子で金持ちで、かつ貴族であっても彼らは耳をかたむけない。そして彼を笑い者にしたり、怒鳴りつける。罵倒で意気消沈させたり、提案を取りやめさせたり、武装した兵士に彼を引きはがさせたり、あるいは議長の退場命令で退去させたりするまで、つづける。あなたもアテネ議会に登場し発言することを想像してください。そこで何がおきるかわからない。

* ソクラテスの批判
ソクラテスがいう。議論が国のことだったら、誰が登場していってもよい。大工、鋳掛屋、靴修繕屋、旅行者、船の所有者、金持ち、貧者、貴族、普通の市民、彼らがいっても前にのべたようなことはない。もし彼が知識がなかったり、おしえられてなかったら助言もする。実際、アテネ人は知識、技術、能力、経験の重要さをよくしってる。

これらはたしかに存在し、公共のために活用できることをしってる。彼らは軍の士官、国庫の管理者、艦船の建造者、水道供給の管理者は籤引きできめず、選定する。これらは究極的に生きるか死ぬか、あるいは国家財政の安全につながる問題だからである。それ以外のことでは専門性についておおくは考慮しない。もしかりに彼らが管理や能力の判断のために政治学の教授、哲学者、法律家を選定しないとしたら、

* 政治は専門家がやるのか
それは、これらの分野で役にたつ専門性があると確信をもてないからである。もしそれがあるとするなら、彼らは公共のために間違いなく活用してるろう。この二千五百年のことから彼らが間違ってるという自信が私にない。我々の議会の上院、下院の議員たちのなかで法律をまなんできた人たちが何パーセントいるか私はしらない。だがそれはおおすぎるとおもう。こんなことに我々がだまってすませてることは、実は異常なことととおもう。我々の社会がみせてくれる専門の多様さ、それが政府機関においてはみられないのである。アテネ人はこのような非民主主義的状態をゆるしていない。

* 馬鹿と無能の危険性
次にいえることは、公共分野で馬鹿と無能が重要な役割をはたすことはもっともあってほしくないことだからである。当然、専門性と経験の否定には裏腹の問題がある。それは究極には自分たちが何をはなしてるわからない人々がどんなかたちにせよ影響力をもつという事態を生みだす。これにつきアテネ人は白痴、馬鹿、狂気、その他、のぞましくない要素がつつよい影響を政治にあたえることに警戒心をもっていた。

* 政治の決断の方法
政治の決断、これが何かはっきりしないが、我々はこの点では彼らよりうまくやってるとおもわない。こんなことを思いだす。ウリアム・バックレー(William Buckley)は、ボストンの電話帳から最初の五十あるいは四十人を抜きだし地域の政治をまかせたほうが、ハーバード大学の教授陣よりうまいくいくといってた。これは私も同意する。たぶんエール大学もおなじだろう。

民主主義のうごかしかたをかんがえる時に我々のやりかたが惟一とかんがえる前にすこし時間をとってかんがえるべきとおもう。アテネ人はこの問題にどうしたのだろうか。議会が決断するのは当時の批評家やあなたばがかんがえるよりずっと、うまくうごけないし、その能力もとぼしい。何しろ五千から六千人の人々がいて決断しようとしてるのである。

* アテネ議会の決議
アテネの市民は毎年、開催される会議の最少の半分に出席するなら、二十もの会合で討論をきくことになる。もっとも有能の人々がやってくる。選挙でえらばれた公職者、かってそのような公職についてた人々、各党派を代表する指導者、問題によりえらばれる相当数の専門家、彼らが意見をのべるのである。

これらは真剣な議論である。事前に発言を用意できない。いわゆる政策集といった資料をみるわけにもいかない。本物の議論であり、発言者はむずかしい問題や反対者からの議論に即興でこたえねばならない。反論しなければいけない。真剣な議論の後に投票がおこなわれる。それは討議者と聴衆がつくった重要な結果である。

* 議会傍聴の経験、表決
そこで、その議会の出席者がどれだけの時間、議論をきいたことになるか。それぞれが平均で十年とみてよい。またおおくは、それ以上だろう。そのような経験がつもりつもって、それだけでもすぐれた投票者の集団を作りあげたにちがいない。それは比類のないほどの啓発され洗練されたものだとおもう。このほかに毎年、五百人のアテネ人が五百人委員会に所属する。そこでアテネについての管理運営の経験をつむ。それはささいなことから、深刻な問題にわたるものもある。

* 経験をつんだ判断
議論の基礎であり議会投票の基礎となる法案を提出する。特定の議会の会合には数千人が出席するが、そのおおくがおそらく五百人委員会の仕事をし、いわば訓練をうけてるだろう。このような経験をもってるなら、無知の大衆がおこなった決定という主張は説得力がないといえそうだ。私は次のような例をかんがえる。

十九世紀のこと、人々は音楽会にいく。そこでは聴衆のほとんどは音楽家だった。ラジオもテレビも録音機もない時代だった。音楽がききたかったら演奏しなければならない。ことに女性はそうだが何かの楽器の演奏をまなぶ。演奏ができる。彼らは楽譜がよめ、理解できるが、それは音楽に参加してることからくる。

今日ではこんな状況はほとんどない。ベートーヴェン(Beethoven)、ブラームス(Brahms)のような人が作曲しオーケストラを指揮した。彼らはある意味で専門家といわれ、また充分な教育をうけたアマチュアといえる人々が演奏してたのである。
これが私のいう比較である。職業的政治家、それがいるとして、アテネではまったくかかわらず、またしれない人々を我々はあつかってる。
(3の1おわり)

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韓国、日本資産の売却申請へ



* はじめに
この一日、韓国でいわゆる徴用工訴訟で差し押さえられた日本企業の財産を、原告側が現金化のため裁判所に売却申請をした。これにつき韓国外相が介入しないとの見解をあきらかにしたという。馬鹿馬鹿しいという感想がうかんでくるが、日本政府の遺憾表明や報復可能性の言及にとどまってる現状に、またぞろ微温的処理がおこなわれるのでないかとの疑いがきえない。日本国民として政府が日本企業に不当に損害をあたえる行為に明確な行動をとる必要があると、あらてめて申しあげたい。努力は漏れきこえるが、また曖昧な対応ですまそうとしてるとの懸念がぬぐえない。これについて基本的なことにつき、国民の皆さんに理解してほしい。

* 国際約束にはんしたら政府はどうするか
私が行政法で勉強したことをいう。国の統治行為には行政、立法、司法がある。王様の昔をかんがえると、王様は法をさだめ、それをまもらせる。争いがおきたら当事者の主張をきき、裁定する。近代化をつうじ、立法は議会、司法は裁判所、最後にのこる行政が政府となった。三権分立は近代国家の原則と確立された。ところがこの問題のように裁判所が政府がむすんだ条約にはんする判決をするとどうするか。これは行政が最後の調整をおこなう。歴史の経緯をさかのぼり結局は行政がおこなう。これがみとめられてる。私が勉強した結果である。

* 行政が最後の調整をする
だから、もし日本企業に損害がうまれたら、韓国政府がそれに見あった額を補償すればよい。日本は基本条約でこの種の請求権を消滅させたが、それと同時に巨額の経済協力をおこなってる。日本がとやかくいう話しでないが、充分な財源である。韓国内で処理する問題である。日本政府が韓国政府に是正措置を要求するのは当然であり、それがなされなかったら実効性のある措置、制裁が発動されるのも当然である。心配なのは曖昧な対応ですまそうとする動きである。

* 曖昧な対応ですませるべきでない。
たとえば、日本と韓国の企業が資金を提供しあって、その基金から補償しようという案が韓国の報道にあった。在韓国のフジゼロツクス元会長という人が両国は密接な経済関係にある。たしか運命共同体といった。だから過激な措置は両者にわるいと、まるで韓国の利益を代表するような記事がでた。だがまってほしい。ここで譲歩しても韓国の異常な状態はつづくが、さらにわるくなってゆく動きがある。

* 選挙制度改変で文在寅体制強化
今、韓国国会は対立が激化してる。それは与党側、文在寅政権の支持層が対立する野党の駆逐をねらって選挙制度の改正法案を強行採決しようとしてる。それはどうやら成立しそうだ。こうなると比例区への配分がふえ、野党の基盤とする選挙区が圧迫される。これでは現在の野党が絶対的に不利と予測されてる。このような国会ではまた反日を策する法案がどんどん成立するだろう。さらにへんな話しがある。上級公職者を対象に取締を強化するという法案もおなじように強行採決されそうだ。ようするに政権の都合にあわせ取りしまろうとの趣旨のようだ。今、大統領府はユーチューブを監視してるという。政治学者、藤井厳喜氏が文在寅政権は親北、反日だが、そこに反米がくわわり、さらに社会主義化を目ざしてるようだという。経済であるが、投資が前年比でマイナスとなったという報道がある。これは韓国企業が国内投資をやめ海外脱出をはかってる動きと分析してる。さて結論である。

* 結論
両国は運命共同体、両国共倒論がよくでてるが、韓国に運命をともにしようとの誠実さはかんじない。日本がすこし傾むいてもたおれない。韓国の不誠実さが消滅されないかぎり、制裁を着実にすすめるだけだ。国民の皆さん、私は上で韓国の異常さを指摘し日本政府の当たり前の主張の当たり前さを説明した。私の主張に賛同していただけると、ありがたい。

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