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スパルタの崩壊とその遺産 [英語学習]


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* はじめに
イーゴスポトマイの海戦に勝利したスパルタはギリシャの覇権をにぎる。だがその時期はながくなかった。マイシニア人の奴隷の解放によりスパルタの栄光はおわった。スパルタの特異性、後世にのこる影響をかんがえる。スパルタ全体の歴史をあつかったユーチューブから関係部分をまとめた。参考情報だが私のブログではスパルタの全体の歴史を概観した三部作やペロポネソス戦争の一連の歴史の末尾の数部作などがある。
(Rise and Fall of the Spartans |2|、Stelios Christakis、2012/10/04 に公開)

* アテネの敗北、その運命
イーゴスポトマイ(aegospotami)の敗北の後にアテネ市民はアテネの港町であるパイリアスの防御壁の後にかくれた。スパルタの艦隊を指揮するライセンダは船をつらねて港の入口を封鎖した。アテネは艦船をすべてうしない完全に包囲された市民は食糧供給の手段をうしなった。彼らが飢え死にするのは数ヶ月の問題である。

紀元前四〇四年にアテネは降服した。ライセンダは都市内にはいり政府の支配をうばった。二十七年間のペロポネソス戦争がおわった。アテネ市民は凍りつき石になった。彼らは戦争の遂行のなかで他の都市にやっていたこと、それがおきる。すべての男はころされ、すべての女と子どもは奴隷にうられる。スパルタの強力な同盟者であるシーブスとコリンスが圧力をかけた。彼らはアテネを灰にし奴隷とするようもとめた。しかしスパルタはちがう方法をとった。この戦争のおわらせかたである。アテネを破壊しなかった。スパルタの市民のなかに同調するものがおりアテネがのぞんでたことだった。

* スパルタの方針
アテネを破壊しなかったのは慈悲の心からでない。政治的な考えである。スパルタの同盟国はアテネの死をねがった。しかしライセンダはこれにより力の空白がうまれることをおそれた。ここにシーブスがはいってくる。そこでスパルタにとり重要になったこと。アテネを破壊しないのなら何をするのか。あたらしい外交政策がはじまった。それはスパルタのおわりのはじまりだった。

* アテネの凋落
紀元前四〇四年、この戦争がおわりアテネの栄光もおわった。戦争がもたらしたもの。すべての世代が戦いをすることしかまなばなかっ。想像力をつかい都市を発展させる投資が建築、文学活動、都市計画などにできなくなった。アクロポリスの偉大な建物の建設が停止し、悲劇の公演が徐々になくなった。偉大な歴史がさっていった。アテネは勝利したスパルタが栄光の帝国への道をすすむのをみた。海軍は解散し防御壁の破壊が要求された。防御能力がうしなわれた。アテネは資金力をうしない艦船をうしない スパルタの同盟に参加することをもとめられた。他の同盟国と同様のスパルタがもとめるところにゆくことももとめられた。

* アテネ、三十の専政主、民主政治の弾圧
あらたに政府が発足した。かっての民主政治がかわりミニスパルタとなった。スパルタは可能ならどこでも民主政治を貴族政治にかえようとした。スパルタは彼らをあまりに好戦的な国家だとかんがえた。彼らはすぐに大衆政治の弊害にそまる。すぐ混乱におちいる。異様なかんがえにそまりやすいとかんがえた。和平の条件である。

アテネに貴族政治を原理とした政府をつくる。それを三十人のスパルタの同調者であるアテネ人が監視する。これは三十の専政主とよばれた。アテネを占領しスパルタが最初にやったのは政府の建物にはいることだった。ライセンダの指導のもとにおこなわれた施政はおどろくほどの失敗だった。彼は非常にすぐれた将軍だったがかならずしもすぐれた政治家ではなかった。三十の専政主は非スパルタ勢力にたいしきびしい弾圧に乗りだした。彼らは実にひどいことをやった。これまでアテネで味わったことのないひどい内戦となった。彼らは千五百人の市民をころした。当時のアテネの男性の数が二万五千と推計されるからこれは血まみれの内戦だった。アテネの民主勢力は海外に逃亡した。彼らはアテネの民主政治を回復するためもどってきたが、その時、スパルタの王はこれを支持した。パウセニアス王は伝統をおもんじることに忠実な王であったが彼はライセンダのやることにはいつも反対した。また二人の王のあいだにも争いがあったというのはいいすぎでない。

* スパルタの意見対立、ギリシャ世界の分断
アテネに勝利してから数ヶ月たった。スパルタは深刻な意見対立により分断されれた。それにおうじおおくのギリシャの都市がどちらにつくかを強制された。どちらにもつかない姿勢のおおくの市民がころされた。ペロポネソス戦争は民主政治か貴族政治かの選択が自分自身の安全の選択であることをおしえた。中道をもとめる人々やことなる政治的立場の人々、経済的な差がある人々、これらの人々と橋をかけようとする人々は最終的に死がおとづれることをおしえた。これは誰もが勝者とならなかった戦いであった。

アテネは戦いにやぶれ帝国をうしなった。二度とかっての栄光を取りもどすことはなかった。スパルタにも奇妙なことがある。スパルタもこの戦争により荒廃した。非常に皮肉なことだがスパルタの勝利の瞬間から将来の崩壊への道筋がつけられた。アテネに貴族政治を導入してからライセンダはかってアテネ帝国にぞくしてた都市に政治体制の変更をもとめた。スパルタはただちにそれぞれの都市に十人の貴族政治家を配置した。都市の解放をおこなうより市民に自分たちの政治体制を強制した。市民からみればそれは拙速。アテネのやりかたを拙速に否定してるとかんじさせるものだった。彼らは今までのやりかたをすててスパルタ風の教育やつつましい食事にかえない。アテネのドラクマ貨幣をスパルタの鉛の貨幣にかえない。スパルタ人はアテネ人とちがい口下手な人々だった。

彼らは他のギリシャ人があつまってくるような事業を提案することもできなかった。あたらしくはじまったスパルタの政治は征服された人々を納得させる魅力がなかった。そのような資質はあきらかにスパルタの文化にはかけてた。その文化は想像力がかけてた。彼らは大胆さにかけてた。魅力がとぼしかった。他のギリシャ人を犬のようにあつかった。彼らは自分たちを特別にすぐれた種類の人間とかんがえた。海外にでた将軍や指揮官は彼らが征服しようとしてる人々に苛酷だった。ギリシャの世界ではこの場合スパルタのような暴力をふるう人種にかえより洗練された人物を帝国の主人にしようとする。

* 苛酷なスパルタへの反発
スパルタが自分たちの軍にかしたきびしい規律はさておき、それを他の人々にかす。それは同じでない。たとえば艦船の船員に鉄製の錨を肩にかつがせ一日中たたせる。こんなことされたらほこりたかい人々は反発する。スパルタ人は人気をえることができなかったスパルタがわかいスパルタ人にあたえる訓練をかんがえる。自分の班にいなければ問題にしない。世界はうまく立ちまわる。よい人は利用される。これがエーゲ海の人々にも適用される。彼らは強欲にたいする。これが同盟の人々とのいさかいを引きおこす。

スパルタと同盟をくみ二十七年間たたかってきたのはそのようなスパルタのためでない。スパルタはアテネの次の帝国の道をあゆもうとしてる。これは同盟都市にとっては衝撃である。彼らはアテネの桎梏をはなれ自由なエーゲ海の民となる。その解放者として期待してた。実際はスパルタは自分たちがほしいものをえる、そのよい機会がきたとかんがえてた。

* アテネの反乱、 貴族政治の追放、同盟国の反発
最初にスパルタの覇権に対抗して反乱をおこしたのはアテネであった。紀元前四〇三年、アテネ人がパイリアスにもどってきた。ライセンダが設立した三十の専政主政治への反乱に成功した。

アリストートルがいう。戦場における勇気で文化をつくろうとしても意味がない。恒常的にあつかわねばならないのは平和だからである。スパルタ人はこれを理解してなかった。戦争に勝利してえた平和が一年ももたなかった。同盟国との連帯がすぐくづれた。ペロポネソス戦争がおわって後におけるスパルタの致命的な失敗は同盟都市を安心させることの重要性を過小評価したことだった。ギリシャにおいてどれほど強力な軍事力をもっていても同盟都市の協力なしではうごかせない。それにくわえペルシアという巨大な存在を無視することができない。スパルタはこれらの都市を友邦として維持する方法を見つけねばならなかった。ところがこれらのすべてと仲違いしてしまった。これが彼らを待ちうける崩壊への道筋である。

* シーブス、コリンスの同盟離脱、スパルタの新王の登場
スパルタはほどなく二つの強大な同盟都市の憎悪を引きおこした。それまで忠誠心をしめしていたシーブスとコリンスである。十年もたたないのに戦争がはじまる。今度は無敵をほこったスパルタの軍が回復不能なほどの敗北をきっすることとなる。

紀元前三九八年頃である。変化の嵐がふいた。スパルタ帝国への道をささえてきた王がしんだ。彼の弟のアジェスレイアスが王位をついだ。彼は筋金いりの帝国主義信奉者であった。友邦国をいっそう締めつけた。

* シーブスの台頭
これがシーブスをいっそうとうざけた。実際にあたらしいシーブスが登場しその憎悪をいっそうたかめた。シーブスはながいあいだよき同盟国でありアテネの北方のビオーシャにある。ペロポネソス戦争においては地理的、戦略的に枢要な位置にあった。スパルタはシーブスの協力をえてアテネに勝利した。

しかしシーブスはスパルタのしらないあいだに、この戦争を利用して国力をまし富裕となっていった。田園地帯でみつけられる有用なものすべてシーブス人は荷車ではこぶ。それだけでなくこの戦争を遂行してゆくうちに彼らはオート麦を軍事的な力として利用できるとかんがえるようになった。そして彼らはビオーシャの統一に成功した。戦争が沈静化してゆく頃にはより強力な政府を樹立させることに成功した。ペロポネソス戦争が進行してゆくなかでシーブスはしんじられないほどの変革をおこした。非常に保守的な自作農たちが突然に民主主義社会を作りあげた。それはそこにすむすべての人々を巻きこんだものだった。

* シーブスの軍事力強化
民主主義シーブスはアテネにちかい。そうかんがえるとこれはスパルタを恐怖におとしいれた。同盟国の市民のあいだにながれる風にスパルタは従来どおりの外交方針でおうじた。スパルタはシーブスを宥和し力を共有するより彼らの弱点をつき彼らを自分たちのいいなりにしようとした。シーブスの民主政治を押しつぶしその独立をそこなった。スパルタは非常に苛酷な攻撃をくわえ、その政府の転覆をはかった。これはおおきな反動よんだ。これはスパルタへの反感を生みだしただけにとどまらずシーブスの社会におおきな変革をもたらした。彼らは一万の重装歩兵隊をつくった。彼らは肉体的にすぐれた兵たちでありよく訓練され戦略的思考にもすぐれスパルタの軍とおなじほどの優秀な軍であった。彼らはスパルタに憎悪をもっていた。

イパマナンデス将軍が彼らを引きいた。彼は極めて優秀な将軍でありスパルタの将来におおきな影響をあたえる。彼は熟考とともに戦略をねる。その戦略はこれまでかんがえたことのないものである。戦いがはじまった。アジェスレイアスは断固としてたたかい 貴族政治を維持することに成功した。だが彼は戦いのたびに大切なものをうしなった。兵である。長期的にみるとスパルタは兵力をおおくそこねた。さらに頻繁なシーブスとの戦いは彼らのあたらしい態勢の軍に向上の機会をあたえた。イパマナンデスはここですぐれた才能をみせた。軍事の天才であり政治にもすぐれてた。

* 硬直したスパルタと復活するアテネ
それにたいしアジェスレイアスはスパルタがもってる知恵に基本的に注意をはらわなかった。それはおなじ敵と頻繁にたたかうな。敵が自分たちの戦法になれる時間をあたえるなである。イパマナンデスはスパルタの戦法をまなんだばかりでなく彼はその対抗策も編みだし勝利した。スパルタには不運がある。彼らはあまりにおおくシーブスとたたかった。相手の軍事力はどんどんと上昇していった。その軍事力は強力でありあらたな戦法に対応しており非常に効果的な戦術をもってた。イパマナンデスはさらに利用できる強力な力があった。アテネである。

紀元前四〇三年、アテネは三十人の専制政治を追放してから、徐々にかつ着実にその海軍力を強化してきた。彼らはあたらしい世代の兵を訓練し強力な民主政治をそだててきた。民主主義の観点からいえばペロポネソス戦争における敗戦はアテネにとり最善の幸運だった。極めて示唆にとむ皮肉かもしれない。スパルタ人が擁立した血まみれの貴族政治後に、民主政治が復活した。その頃の流血の時代に一貫してシーブスの重要な同盟都市だった。またシーブスはアーゴスとコリンスとも強力な同盟関係をもった。

* スパルタとシーブス、アテネ、コリンスなどが対決
この統一された戦線でスパルタに対抗した。ここで鍵となるのはコリンスである。ここは地理的に北のビオーシャ、シーブス、東のアテネ、西のアーゴスをむすぶ重要な位置にある。またペロポネソス同盟の構成員である。その影響はおおきい。

紀元前三七九年、シーブスにおいて反乱をおこした勢力はスパルタ流の貴族政治の排除に成功した。シーブスの他にスパルタに反感をもつ都市国家はシーブスからの支援をえることができるようになった。そのような都市がふえていった。またスパルタの帝国主義や覇権をかならずしもきらっていない都市国家の話しである。そこにあたらしい不満がたかまっていった。スパルタが自分の兵より同盟の兵を犠牲にして勝利しようとする。そんな不満である。

* スパルタ兵の不足、同盟国にたかまる不満
同盟も参加する戦いにおいてスパルタは名誉の右翼をになう。彼らはこれに固執する。敵の側もおなじく強力な軍を右翼におく。するとスパルタはこれにぶつからない。スパルタは普通はよわい部隊にぶつかる。ここでもし、うたがわしい同盟軍を左翼におけば意図的にそれを排除することができる。スパルタは露骨にこのやりかたをとった。

* ルトラの戦い、イパマナンデスが重装歩兵隊をやぶる
非常に皮肉なことがおきた。もっとも孤立主義をまもり、もっとも反帝国主義であり絶対必要でなければたたかおうとしない都市国家たちが彼らの支配をまもるためにいたるところでたたかうこととなった。彼らはビオーシャにあるルトラにあつまった。その理由はいろいろ。彼らはスパルタ人に抑圧されてた。彼らはスパルタ人とともにたたかい彼らをしった。彼らはすぐれた将軍をもってた。特にシーブスは想像できないほどすぐれた将軍をもってた。彼らは重装歩兵による戦いでスパルタをやぶった。

紀元前三七一年、あたらしく民主政治に復帰したシーブスの地にスパルタがもどってきた。もう一度 貴族政治にもどそうとした。ルトラの平原で彼らはぶつかった。イパマナンデスは三百の選りすぐりの兵、神聖部隊やほか多数の同盟軍を引きいた。シーブスは斬新な戦術を用意してた。それはスパルタ重装歩兵に対抗しようとするものである。イパマナンデスはそのもっともすぐれた部隊を左翼においた。その編隊は従来より何倍もの厚味をもってた。それは選りすぐりの部隊がおこなう接近戦の戦いであった。彼はスパルタの兵をころすがペロポネソスの同盟軍の兵をころさない。彼は 自軍側の同盟軍もころさないという作戦である。シーブスがスパルタに立ちむかう。

* スパルタ軍の壊滅の理由、革新能力の欠場
スパルタは敗北というより破壊された。七十パーセント以上の部隊の兵がころされた。その理由は二つ。まず戦術の革新に対応できない硬直性。革新しようとの意志もなかったろう。たとえばシーブスが厚味をましたあたらしい編隊。あたらしい武器への対応である。もう一つは単純である。兵数の不足。もはや充分な兵を招集することができなかった。ペルシアとの戦いでは九千をそろえた。五千をペロポネソス戦争ではそろえた。だがそれからは減少するばかりだった。

スパルタのひどい敗北だった。彼らの無敵神話は崩壊した。イパマナンデスはこれでおわりとかんがえてなかった。これからはじまることを見すえていた。敗戦の後にスパルタの軍は退却して本国にもどった。あたらしく軍を再編する必要がある。これは大敗北であったがもしスパルタに変革の力がのこってれば致命的な打撃でなかった。だがまさしくその力がなかった。スパルタの最大の強みはその社会構造であり政治構造である。それが彼らの力の源泉であり安定性の源泉であった。しかしそれが今や弱点であり自分自身を変革できない原因となった。

紀元前三六二年、スパルタはふたたびシーブスにやぶれた。それは第二回目のマンテニイの戦いであった。スパルタの保守主義は極めて強固だった。彼らは経験からまなぶことができなかった。何度も失敗を繰りかえした。その典型がマンテニイの戦いである。彼らはまったくルトラの戦いとおなじ戦術でたたかってやぶれた。スパルタは彼らの伝統である重装歩兵隊でやぶれたばかりでなく、あたらしい戦術の変化に対応する戦術を編みだすのに必要な柔軟性をかいた。戦争は進化する。戦争をするには勇気、強さだけでなく知識や科学が必要である。もし飲み水に毒をいれられたら夜襲のおそれがあったら投石機、弓矢、投げ槍の攻撃があったら、これらに対応が必要である。スパルタが確立した戦術が崩壊しはじめる。

* スパルタ軍壊滅の理由、人口減、スパルタ兵の不足
しかし彼らは生まれたばかりの男の子にする残酷な選別をやめない。苛酷な訓練をしいるアゴギをやめない。彼らは遺伝的におとる者を排除するがその基準は厳格すぎた。三七〇年頃に成人男子が千まで減少した。皮肉なことだが勇気を第一とするスパルタの理想、臆病は罪とする考えはもっとも優秀な戦士を戦場からスパルタにある墓場に追いやった。戦場から逃亡することがかならずしも臆病とはいえない。それは戦場で他のすべての人がころされ自分が生きのこる価値があるならという仮定でそういえる。

人口が減少した。それは出生率の低下が一つの原因であるが、すくなくとも半世紀のあいだつづいた。夜の営みからの逃避、もし発見されれば罰があたえられる。それはそれほどおおくはなかった。だが子どもを生む機会を減少させることは悪名たかいスパルタの人口減に貢献したことはたしかである。もし子どもをたくさんんうむ人口の増をのぞむなら、生産性のたかい十五、十六、十七、十八の年齢層の女子が必要である。古代においては幼児の疾病罹患率のたかさ死亡率のたかさ、これらへの処方箋が必要である。

選りすぐりの兵士の数が絶望的に不足してる問題があるが、スパルタの仕組みのなかにさらに下士官の数を抑制する傾向があった。階級をさげるのは簡単だがその反対の昇進はほぼ不可能だった。格下げにはいろんな理由がある。共餐仲間に食事を振るまわなかった。戦場で臆病な振る舞いがあった。日常生活のなかでわるいことをした。格下げをうけた者は復活の機会がほとんどなかった。そのためスパルタ社会を不安定化する階層がうまれた。彼らはスパルタ人にうまれ、訓練をつうじスパルタ人としてみとめられたがその市民権をうばわれたものである。スパルタのような名誉がすべての社会で彼らはすむ場所がなかった。スパルタはこれを仕方ないこととみなした。。考えかたをかえて社会に組みいれる。率直にいえば富を基準にあたらしい市民層をつくる。だがこれはスパルタ社会へのきびしい告発としてまったくふれることができなかった。かくして弱体化したスパルタははじめて侵入をうけ自国の防衛にまわることとなった。

* ラコニアに侵入されたスパルタ
このもっとも窮地におちたスパルタはよりによってシーブスの将軍、イパマナンデスの侵入に対抗しなければならなくなった。彼は先見性にとんだ将軍である。彼はペロポネソスの勢力地図をあたらしくえがく。そしてスパルタの力の源泉となった根本を切断しようとする。彼はスパルタの物理的な力を破壊するばかりでなく、その無敵神話を破壊しようとする。これが強力なスパルタの復活に決定的な打撃となる。ヘロットをもたないスパルタはもはやかってのスパルタとなりえないことをわかってた。彼らはヘロットの農業による生産力に全面的に依存してた。ヘロットがいなければ第一級の勢力となりえない。

* イパマナンデス、マイシニア人奴隷の解放
シーブスと同盟のアテネ、コリンス、アーゴスはスパルタを破壊するという今回の作戦の第一局面を開始した。紀元前三六九年のはじめにマイシニアに到着した。そしてもはやマイシニア人は奴隷でなく、かっての先祖がもっていた地位を回復したと宣言した。自由で独立したギリシャ人となった。これは米国における奴隷解放宣言のようなものであった。イパマナンデスは部隊をおくりほぼ四ヶ月とどまった。そこで奴隷解放をおこない巨大な壁をつくりあたらしい都市、マイシニアの守りとした。彼らは長年奴隷とされてたヘロットの子孫である。スパルタは彼らの独立、生活を犠牲にしてきた。彼らは今や死にゆくスパルタをながめることとなった。スパルタが何世紀ものあいだ絶対にあってはならないと警戒してたことマイシニアの独立が成功した。ヘロットが壁をきづいているあいだイパマナンデスはその作戦の第二局面にすすんだ。

* イパマナンデス、メガロポリスの建設
同盟軍は戦略的地点、アルカディアの北に都市を建設しそれを要塞化した。メガロポリスという。ギリシャ語で偉大な都市の意味。それはスパルタの復活を警戒する人々の手により要塞化された。こうしてスパルタはほろびゆく恐龍のような存在となった。イパマナンデスはスパルタを追いつめる。七万の部隊を指揮下においた。彼は極めて優秀な将軍であった。その権威だけで軍を編成し六百年ものあいだ進出不可能だったラコニアに進出した。有名な諺がある。六百年のあいだスパルタの女性たちは敵軍の戦火の煙をみたことがないという。敵の侵入にたいしスパルタは以前にはありえない行動をとった。退却した。そしてあきらめてギリシャ世界において第二級の勢力となることにあまんじた。

* スパルタの栄光のおわり
歴史は逆流した。人口の減少、閉鎖された地理はスパルタに不利にはたらいた。さらにイパマナンデスという将軍の登場もそうだった。マイシニアの解放、紀元前三七〇年からスパルタは再生することはなくかっての力はもどらなかった。

彼らは温室のような環境、それにより腐敗や誘惑をとおざけることができた環境でえた成功からころげおちた。他の都市に注目があつまる。スパルタはかっての栄光の影のような存在となった。そして今にいきる博物館のようになった。事実、ローマの時代にヘイドリアンのような指導者がやってきてその独特さをほめた。

歴史家、ツキジデスはもし未来の人々がアテネをみた時にアテネは十倍おおきくみえる。だがスパルタは反対に十倍ちいさくみえるといった。彼らはおおくをみせなかった。その遺産を子孫にほとんどのこさなかった。家屋は簡素、寺院は簡素であった。スパルタの力がおとろえてしまうと人々がみるものがほとんどなかった。アテネは今までつづいただけでなく世界が賞賛するものをのこした。しかしスパルタものこしてるものがある。戦火がおさまらないうちにアテネの知識人たちはスパルタの高貴な側面を彼らの都市国家に復活させようとした。

* スパルタを評価する人々
スパルタは国の基本をしめす法をさだめた先駆者である。相互監視と釣り合いの先駆者である。他のギリシャがこれを模倣した。おおくの都市国家は深刻な内戦を経験してる。しかしスパルタにはなかった。何故か。今の我々ならできることだが当時の彼らは民主政治とは、貴族政治とは、あるいはそれらが入りまじったものは。これらを区別することができなかった。ながい期間に何度も問題となってきた安定性の問題がある。彼らはある意味、美徳を堅持するギリシャ文明の理想である。このためソクラテス、ゼネフォン、プラトンは自分たちの共和国のなかにもあることをみとめている。

この後の二千年のあいだ哲学者や政治家が何度もスパルタの栄光に立ちもどってる。イタリアのルネッサンス期には理想とみなされた。その 貴族政治がもつ安定性はベニスの模範だった。十八世紀のフランスにおいてスパルタを好意的にあつかった。ルソーはスパルタを人でなく半神が支配する共和国とよんだ。おおくの人々がスパルタのような名誉ある死を希望した。アメリカの革命期において安定した民主主義国家を目ざす人々にとってはスパルタはあこがれの国であった。トーマス・ジェファーソンは地元の新聞をよむよりツキジデスの歴史からおおくをまなぶといった。ツキジデスはいってる。この極端な民主主義がどうなったか、アテネがペロポネソス戦争にどうやぶれたのかを説明してる。私は何故、我々の憲法にジェファーソンやその友人たちがアテネよりスパルタが取りいれられたのかわかる。

アメリカの民主主義を創設した人々はアテネの民主主義をさして取りいれるべきでないといってる。それはおそるべき実例である。貴族政治の考えをもつ人々の監視をへない直接民主主義である。スパルタはすべての人が公共意識をもち市民を最初にかんがえる人々であるという。今日のアテネをみる。そのパルテノン神殿をみて民主主義の揺り籠とおもう。だがそれは彼らの揺り籠であったが我々の揺り籠でない。

* スパルタ社会のくらい側面
二十世紀にはいってスパルタはあらたに出現してくる民主主義が関心をしめすばかりでなく彼らの社会がもつもっと邪悪な側面に関心をしめす指導者がでてきた。ドイツのナチはスパルタを理想化して国の教科書にのせた。ヒトラーとその友人たちはスパルタについて肯定的にとらえ、ヒトラーは他の国をドイツの戦士階級のヘロット、奴隷にする希望をあきらかにした。スパルタはソビエトやドイツのナチににてる。もし人々をいくつかの集団に強制的にわけ、すべての人々の生活を支配するような中央政府をつくり、つよい軍隊をもったらそうなるだろう。こうかんがえるとスパルタは全体主義の発祥となるといってよい。

* スパルタ軍の規律、いまにまでつたわる伝統
今日においてもスパルタからまなぶことはある。スパルタは西洋の軍の規律の創設者であり確立者である。それはギリシャ、ローマ、中世、ルネッサンスから現代にまで生きのびるおおくの利点をもってる。

西洋の規律とちがう規律がある。イラク、イラン、現地の部族の規律と比較するなら、それはすぐれてる。我々の軍隊の規律はそのおおくをスパルタにおってる。我々は人生において名誉が重要な要素であることをしる。我々は名誉なしでいきることはできる。物質があればいきることができる。だが名誉なしでしぬことができない。というのは我々はしぬ時、自分の人生の総決算をする。そこにあるからである。

* スパルタが人々にしいた犠牲
スパルタの偉大さはそうだが、それはおおくの人々がはらったおそろしいほどの犠牲のうえに成りたっているという事実をおとすことができない。彼らは人間が上品におだやかにいきるのに必要な性質をすべて抑制しなければならなかった。もし彼らの残酷さ、自己中心主義、偏狭さをある程度ゆるすとして、優秀さと名誉ある地位を達成した。だがそれは自由を犠牲に彼ら自身の自由をも犠牲にして達成したものである。それは人間がさかえるために必要なものかもしれないが、まったく滑稽な戯画である。

* スパルタがのこした教訓
スパルタは結局のところ自分たちがやったことに値するものをえた。現代社会は歴史からまなぶことができるという利点をもつ。だからスパルタがあたえるもの、すてたもののなかから最善のものをとることができる。

(おわり)
お知らせ
次の簡略ギリシャの歴史シリーズを窮作文庫に収録しました。ブログ掲載分を修正し転載したものです。みやすくなったとおもいます。一度のぞいてみてください。

序論など)
序論
ミノア文明
マイシニ文明の一
マイシニ文明の二
ホーマーと暗黒時代
古代ギリシャと都市国家
密集隊戦法
スパルタ
アテネ
ペルシア
(ギリシャとペルシアの戦いなど)
マラソンの戦い
テルモピレの戦い
サラミスの戦い
プラティアの戦い
マイカリの戦いとデリアン同盟
アテネ帝国
ペリクリースの時代
(ペロポネソス戦争)
第一次ペロポネソス戦争
ペロポネソス戦争の一
ペロポネソス戦争の二
ペロポネソス戦争の三
ペロポネソス戦争の四
ペロポネソス戦争の五
ペロポネソス戦争の六
ペロポネソス戦争の七
ペロポネソス戦争の八
ペロポネソス戦争の九
ペロポネソス戦争の十
ペロポネソス戦争の十一
ペロポネソス戦争の十二
ペロポネソス戦争の十三
ペロポネソス戦争の十四
ペロポネソス戦争の十五
(スパルタの覇権など)
スパルタの覇権
一万人の行進の一
一万人の行進の二
小アジアの騒乱
(コリンス戦争)
コリンス戦争の一
コリンス戦争の二
コリンス戦争の三
コリンス戦争の四
(スパルタの崩壊など)
コリンス戦争のあと
平和なし
ルトラの戦い
アルカディアとマシーニアの反乱
マンテニイの戦い、最終のゲーム
ウルブルンの難破船

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GDP、1.4パーセント増は内閣府の嘘か [バカにされないクスリ]


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* はじめに、GDP1.4パーセント増のまやかし
ラジオのおはよう寺ちゃんの話しである。内閣府が発表したこと。七月から九月期のGDP速報値が実質で0.3パーセントの増。これを年率換算すると1.4パーセントの増となる。これは七四半期連続、およそ十六年ぶりのこと。これに捕捉説明がつづくが個人消費が天候不順などで低迷。だが外需がこれをおぎなったという。私はよかったとおもった。

* 京都弁の経済学者、藤井さんんのふかい解説
だが前日、ボジョレ・ヌーボをのみほぼ徹夜、このスタジオにきたという経済学者の藤井聡氏の解説はちがう。機嫌がわるいのか怒気がある。内閣府のホームページからエクセルの表をみた。日本の需要は内需が99パーセントであるが、GDPが五百三十二兆円から五百三十一兆円と約一兆円へってる。これは我々の総所得がへったということ。1.4パーセントふえたとの記事はある種のまやかしと断言する。へえっと寺島さん。

まやかしの説明である。まず輸出と輸入、輸出がふえて輸入がった。我々が買う気がなくて外人に売りとばした。景気がさがりはじめた時には外需がちょっとふえる。これは目まいみたいなもの。で、一兆円へった。これは国民一人当たりにすると八千から九千円へったこと。それだけ我々は貧乏になった。四月から七月期にくらべてそう。で、物価もみてみる。

ちらっとみたら二パーセントのマイナス。日銀の二パーセントというインフレ目標からみたら差引四パーセント。目標未達成だ。一般の人にはわかりにくいところがあるがGDP。物価がさがったからGDPがちょっとさがっても割合でみる伸び率は1.4パーセントの増になっただけ。この新聞記事はGDPがふえてる。ありがたいという記事。だが現実はちがう。このまやかしの種あかしは三分くらいの仕事だった。経済記事をかく記者は内閣府のエクセルをみておけといった。寺島さんが代表してあやまった。藤井さんの結論である。日本はデフレ。で、どうすればという質問に政府の財政出動しかないといった。さて感想である。

* 経済に関心がある素人の感想
経済に関心があるが素人の私が内閣府のエクセルをみて珍紛漢紛、藤井さんのようにいかない。寺島さんの仕切りにのっておこなう藤井さんのたくみな説明をきいて納得した。私も最初はありがたいやっとデフレん脱出がみえてきたとおもった。でも藤井さんの話しからは経済担当記者も私とおなじかとおもった。ここからは私の推測である。内閣府の発表には定型がある。彼らはそれにしたがう。それ以上のふかい分析は自分の所管ではない。エクセルの表をみれば何もかくしてない。そこからデフレ脱出できるかどうかは関心をもつ者の仕事。まさに新聞記者の仕事でしょう。こういったところだろう。さて結論である。

* 結論
私が心配するデフレ脱出の問題意識にこたえてみごとに解説してくれた藤井さんに感謝する。それにしても社会の窓である新聞記者がこの程度か、とおもう。国民の皆さん、だまされないようにしましょう。

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加計学園、足立さん、朝日死ね [バカにされないクスリ]


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* はじめに、加計学園で朝日、死ね
日本維新の足立康史氏が国会で加計学を追及する野党を批判した。証拠もだせず国会を空転させる姿勢に過激な発言がでた。希望の玉木雄一郎氏、立憲民主の福山哲郎氏は獣医師の団体から献金をもらった。そんな人に疑惑追及の資格があるか。また岩盤規制の打破を仕事とするのに石破四条件をつけた石破茂氏も献金をもらったと批判した。金をもらって利益をはかった。三人を犯罪者とよんだ。また足立氏や今回の設置認可を批判した朝日新聞に自身のツィッターで「朝日死ね」といった。その過激さを説明するのに、かって朝日が「保育園おちた日本死ね」をさんざん持ちあげたとした。

* 正論に喝采するネット民、犯罪者は撤回
ネット民のおおくは喝采をさけんでるが日本維新に関係がふかい橋下徹氏は死ねは駄目という。またこの発言が飛びだした委員会の委員長にこの三氏の追及をもとめたが首をかしげられた。この委員長は自民である。さて足立さんの損得は。

* 足立さんの損得勘定
マスコミの偏向報道はネットで根づよい。だが悪口だが「情弱」という層の人たちはそのテレビや新聞でしか情報をとらない。だから加計学園の偏向報道批判もとどかない。だが犯罪者や朝日死ね発言でマスコミも報道せざるをえない。注目をあつめネットで簡単にしることができる情報がこの人たちにとどく。発言は撤回し謝罪したが批判はやめないという。自業自得の朝日とはどうなるか。こうみれば充分に勘定があう。

* 大人の風格、自民党
自民党は大人(たいじん)である。安倍一強でも謙虚さをわすれない。過激な犯罪者発言には同調しない。私は日本の政治は二大政党制ならぬ一大政党制といった。ここで野党はひたすら与党を批判する。右にいったら左にいかなかった。左にいったら右にいかなかった。これは野党が政治に不満をもつ人々の受け皿となってるからである。駄々っ子のような野党にひたすら低姿勢をつづけ足立さんのように反撃しない。ネット民がよくいってくれたというのに自民党はしない。一大政党制で与党をつづける由縁である。

だがそれでいいか。ギリシャの神話に正義の女神がでてくる。彼女は天秤をもつ。両方の重みをはかって正義をしる。甲論乙駁があり事実の釣り合いがわかる。これで国民に何がただしいかがみえてくる。大人の風格をまもられても真実はみえない。結論である。

* 結論
私は安倍さんのお友だちと献金のお友だち、どちらがどれほど悪いかしりたい。国民の皆さん、足立議員の過激であるが国民の素朴な疑問を受けとめる。それにこたえようとの姿勢を応援してあげてください。

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加計認可は妥当 [バカにされないクスリ]


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* はじめに、ついに加計学園、来年春、百四十名で開学
加計学園獣医学部は来春の開学にむけ設置が認可された。入学定員は百四十名という。希望の党、玉木雄一郎氏を筆頭に野党が批判。手続がおかしい。石破四条件をみたしてない。これにたいし政府は手続に瑕疵はないという。私は妥当だったとおもうのでその事を説明する。

* 認可とは、本来自由、国が基準で認証、文科省が合理的規制も
まず、行政法を勉強した。学校の開設のような事業を認可するとは国民が自由にやってよい事業を政府が一定の基準をみたしてると認証すること。諸般のことに学問的解説をおこなう武田邦彦氏がいう。米国では基準をみたせばどんどん認可する。後は自由競争にまかせ入学者なければつぶれるまでと。だが日本では国が私学助成してる。税金の観点から政府が合理的理由で規制をくわえる余地がある。これは妥当とおもう。特区申請の話しである。

* 特区は文科省が立証責任、石破四条件
ところで認可申請は本来自由。だが文科省が岩盤規制で申請拒否してた。それであらたに特区制度をつくってこれでみとめられたら申請をみとめる。これは申請だけ認可をみとめるのでない。それは文科省がきめる。こう高橋洋一氏が説明してくれた。ところで石破 四条件。これをみたさないと特区はみとめないという。これがまさしく野党の主張。高橋さんが主語をわすれてるという。規制官庁が規制を維持する(ここでは設置申請を拒否すること)。これが合理的と説明する。もしそれができないなら規制をやめるという特区制度のなかでもうけられたもの。この条件が頭にある文科省は諮問会議分科会で申請拒否を非とする主張に特に反論しなかった。だから申請がみとめられたと高橋さん。

ちなみに石破氏は特区担当大臣であり学部設置を認可する文科省大臣でない。条件は特区申請につけられたもの。設置認可にはついてない。では百四十で認可したがこれは適当か。

* 百四十の認可は妥当か
当初入学定員は百六十だったものが百四十と。これは実習実施で問題との指摘をうけた措置。なお当初の数字はアンケートをとり需要を確認したものと朝日の記事にあった。ちなみに何名がただしいか。日本は計画経済の社会でない。そんな数字をしめせる役所はない。税金をだしてる以上議論が必要だが上記程度の根拠で認可となった。

* 行政訴訟、申請拒否できるか
加計学園 は申請を受理しないのは不当と文科省で行政訴訟したらどうか。まず申請の拒否は敗訴の確率が極めてたかい。その結果、申請がみとめられ内容の審査が問題に。需要見込みをつよくもとめる声があったが実際は上記のとおり。では何故加計学園が訴訟に踏みきれなかったのか。

* 行政訴訟は定着せず、特区の機能が代替へ
日本では欧米のように行政訴訟は定着してない。争いをきらい穏便な処理をよしとする風土である。特区にかかわる県の担当者がいってた。この制度があってたすかった。以前は関係省庁にいっても話しをきいてくれるのほせいぜい係長である。ところがここに持ちだせば課長補佐、課長、必要なら局長まで引っぱりだせる。しかも特区推進の役所、つまり内閣府の役人、有識者が同席する会議で話しをきいてもらえる。これがなければ実現できなかったという。

ちなみに行政訴訟をしない方がわるいとせめる声があるかも。だが自己主張がつよい欧米にあわせる必要はない。風土にあったやり方もある。さて結論である。

* 結論、半年疑惑ででなければ別の問題を
認可は妥当である。上記の高橋さんもいってた。半年たって疑惑の証拠がでなければやめる。そのとおり。国会はそれほど暇じゃない。国民の皆さん、野党の政治家にはやく疑惑の証拠をだせといってください。

* ちょっとかんがえた
やっと認可が決定され事実がでてきた。あらためてかんがえたが石破 四条件がすっきりしなかった。そこでかんがえる。文科省が認可する。あらたにできた特区申請とちがい昔からあった制度。石破さんは四条件で申請させなくするといったそう。だがもし行政訴訟をおこされれば文科省が敗訴し申請は可能となる。行政訴訟があろうがなかろうが文科省が申請を受理して問題があるか。既得権につながる政治家や関係者がさわぐだろうが制度上は問題ない。そもそも岩盤規制を突破しようとする石破担当相が逆行するような条件をつくれるか。前川前次官は文科省においてもこの条件で審査せよといってたが、これは素人相手の詭弁では。石破 四条件に意味があるか。実際は担当の内閣府も規制官庁の文科省も反対せず申請が実現した。意味があるとおもった石破さんの思惑を二つの官庁はほぼ無視した。どうやら役人が一番事情をしってるようだ。そっちょくな声がききたいものだ。

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スパルタの栄光、その三、栄光から崩壊 [英語学習]

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* はじめに
シラキュースにおいてスパルタ王が指揮するシラキュース軍がアテネをやぶった。さらにペルシアの資金で強化されたスパルタ海軍がアテネをやぶった。アテネの防御壁が破壊された時にスパルタはアテネにかわってギリシャの覇者となった。だがその栄光はながくない。奴隷制にたよった軍事国家は内部崩壊してゆく。あらたに登場したシーブスとの戦いにやぶれスパルタ軍はほぼ消滅した。シーブスが奴隷を解放しスパルタの栄光は完全にきえた。ここではスパルタの栄光と崩壊をあつかう。

(The Spartans - Part 3 of 3 (Ancient Greece Documentary)、Timeline、World History Documentaries、2017/08/28 に公開)

* デルファイの神託
ここはデルファイである。古代ギリシャにおいて宗教的に非常に重要な場所である。ギリシャ人にとってここは世界のへそ(中心)である。まだ天と地がはっきりとわかれていなかった太古と今をむすぶへその緒のようなものである。デルファイは神託で未来をのぞく窓となる。神託は精神世界との交流から日常生活の助言にいたる多様な人々の必要にこたえてくれる。恋愛問題から外交問題まで人々は神託をもとめてやってくる。この夏にアテネがあるアティカに侵入してよいか。レアンドロあるいはレオニダスと結婚してもよいか。その答は奇妙な現象のなかからやってくる。それは年おいた女神官、預言者の老女からやってくる。彼女はわかい処女の服装に身をつつんでいる。

彼女は薬物の効果により自分自身を興奮状態におく。幻覚をおこさせる草を口にふくみ月桂樹の葉のうえで毒性のある草をもやして、その煙を吸いこむ。こうして自分自身を興奮状態におく。そしてうわ言を口にする。そこに神意が吹きこまれたようにみえる。彼女の発言を男の神官が書きうつす。うつくしい詩文にかえる。これが神託である。

* 神託をおそれるスパルタ人
神託は難解である。その真意は事件がおきた後にあきらかとなる。これがよくおきた。そしてこれがたぶん紀元前五世紀頃にすこし時代遅れとなってた理由だろう。ギリシャでは懐疑主義や合理主義のあたらし思想はまだはいってない。これは人間と神と宇宙が存在するという根本的信仰に疑問をもつというものである。アテネで 哲学者は太陽をあかくねっした岩とかんがえ劇作家のアリストファニは雷を宇宙が消化不良をおこしたわるい例だといって冗談にした。しかしギリシャでアテネ以外のどこでもこのような考えかたはなかった。

スパルタ、ユラテスの谷は安全で事件がない。ここでは神は天にいましてすべて世界はこともなしとしんじられた。スパルタはかって革命的な社会であった。それは二百五十年前のことである。今やそれがつくった社会体制は固定化しかえることのできない伝統となった。スパルタの選良たる戦士は変化に臆病となり新規のことには敵意をしめすようになった。十年間、スパルタはアテネと戦争状態にあった。アテネは革新的な民主主義を生みだし、ますますデルファイの神託に懐疑的となった。ところが保守的なスパルタの人々にとりその価値はゆるぎないものだった。女神官がかたることを彼らはつつしんできいた。だからもし紀元前四一五年にスパルタ人がやってきてスパルタの未来について神託をもとめたら、そして女神官が神託をつげたなら非常に憂慮すべき知らせを持ちかえったろう。スパルタはその最大の敵、アテネの壁が破壊されるのをみるだろう。勝利のよろこびが爆発するだろう。だがその勝利も腐敗し最後にはきびしい敗北となるだろう。

* アルソバイアデス、シラキュースとの戦いを主張
スパルタとアテネの戦いは流血の惨事である。どちらがかったときめがたいものだった。十年の戦いが多数の死者をだしたが決定的なものでない。アテネの悲惨な疫病と屈辱的なスファテリアにおけるスパルタの降服の後に両者は一時休戦の協定をむすんだ。だがこの協定の六年後にはなばなしくもシラキュースとシシリーで戦いがはじまる。ギリシャから数百マイル(百六十キロメートル)はなれたここで、アテネは大敗北をきっした。ギリシャのすべての都市が地中海およびそれをこえる領域で植民地建設に乗りだした時代、シラキュースの都市も建設された。

この戦いにおいてギリシャの世界は二つにわかれた。それはスパルタとその同盟、それにたいするアテネである。紀元前四一五年、アテネにおいて戦争の気運がたかまった。その議論の焦点となったのがシラキュースである。その戦いを主張したのはアルソバイアデスである。彼は頭がよく美男子で野心的だった。典型的なアテネ人だった。彼には大衆人気があった。当時のアテネにひろまってたあたらしい思想の潮流にのってた。ソクラテスは彼の友人だった。彼の政敵は彼が無神論者であり神を冒涜してるという噂をひろめた。アルソバイアデスは美食家で酒をのみ美女をあいした。ソクラテスの忠告をきかなかった。アテネを疫病がおそった時に神を馬鹿にする言葉をはっしたという噂があった。だが彼が戦争をかたる時に市民は耳をかたむけた。

スパルタとアテネの戦いをかんがえる時、スパルタが好戦的にみえるが、かならずしもそうではない。アテネはその帝国主義の野心をみたすことに貪欲である。また戦いに賛同する三万人のアテネ人をみつけるほうが戦争に賛同する一人のスパルタ人をみつけるより容易だという。アルソバイアデスが好戦論を主張する時に彼は充分な手応えをかんじることができた。

* アルソバイアデス、スパルタに逃亡
艦船がうごきだす前に事件がおきた。神を冒涜する事件がアテネをさわがした。そのいたるところでエルメスの神像が破壊された。夜のあいだに何者かがおこなったという。上品な言い回しでは鼻がかけたというが事実は男根の破壊だった。アテネの将来に不安をなげかけ盛りあがった戦争気分に水をさした。不吉な予兆があらわれ犯人さがしの声があるなかで艦船は出発した。そこにはアルソバイアデスものってた。

彼の政敵は彼の不在を利用した。彼の名声をおとしめ、わるい噂をひろめた。その結果、アテネの当局は彼の召喚命令をだした。陰謀の罪、涜神の罪にとうためだった。アルソバイアデスはアテネ市民が噂に迎合する無定見さをよくしってる。彼自身もまた自分の目的のため世論を操作してた者である。彼の主張をまともにきいてもらえる可能性はひくいとおもった。逃走することにした。その行き先はなんとスパルタだった。そこににげて彼にどのような成算があったのか。彼は大衆政治家である。大衆受けする振る舞いはできる。スパルタでは衣服はみすぼらしい。生粋のスパルタ人にとっても食事はまずい、しかし彼はスパルタとあいいれない人物ではなかった。彼の背景をさぐると関係がありそうだ。彼の家族もアテネの貴族階級の人々とおなじようにスパルタと関係があった。彼自身もスパルタ名をもってた。彼はスパルタ人の養育係にそだてられてる、彼自身のスパルタとの関係にはこいものがあった。

* アルソバイアデスの恋愛事件
しかしスパルタの大衆は彼のおそるべき魅力にも心をうごかされなかった。だが噂によれば彼は王の妃、ティメヤを魅了したようだ。スパルタの性についての倫理観は奇妙なものだった。スパルタ以外のギリシャでは不倫は罰をうける罪である。しかしスパルタでは既婚女性がもし夫の同意をえるならば夫以外の男性を愛人にもつことができる。それはフリーセックスというわけでない。スパルタにおいては人口減の問題が 深刻であった。そのため一夫一妻制や核家族といった考えは重要でなかった。大切なのは健康な男の子どもをうむことだった。そのためにつよくて勇敢で多産な男性をもとめることがあった。これが本当か王が同意したかしなかったのか、たしかでない。だがこの問題はアルソバイアデスがスパルタをでていったあともながく問題としてのこった。

* アルソバイアデス、スパルタ王にシラキュース遠征をすすめる
さてアルソバイアデスは自分を受けいれてくれたスパルタにお返しをした。。彼はシラキュースにおいてスパルタと同盟しようとする人々に援助をあたえるよう助言した。これは従来のスパルタの発想ではまったくでてこない革命的だった。彼は説得してまわりジュリペス将軍がおくられた。それは費用をかけず海外に自国の防衛軍をおくる方法だった。これはアテネの数千人の兵たちには致命的打撃となる助言であった。

* アテネ、シラキュースで大敗北
王の遠征は最初から順調だった。ジュリペスが到着してからアテネにとり事態は不調となった。ジュリペスは彼自身がすぐれた戦略家というわけでなかった。しかし敵に包囲されたシラキュースの人々にとってスパルタの戦士がいる、そのことだけで士気があがった。彼らの反撃がはじまった。アテネは補強部隊をおくらねばならなかった。丘のうえにある砦に大規模な夜討をかけた。すこしずつ頂上にむけ前進していった。ある時点で彼らの攻撃が成功したようにみえた。夜明けとなった。アテネの兵たちは疲れはてた。彼ら港にある自分たちの野営地まで押しもどされていった。彼らのすべてがシラキュースから逃亡したいとおもった。彼らがシラキュースから出発しようとした夜である。普通ではない現象がおきた。神の存在をしんじることがもっともすくない人々である。だが月食という現象をみて不吉な予兆をかんじざるをえなかった。野営地の神官は落ちつくようにいった。また次の満月までには予兆はよくなるといった。その判断は間違いだった。ジュリペスは艦船の錨をおろしシラキュース湾の入口を封鎖するようめいじた。アテネは罠におちた。つづいて戦闘がおきた。数千のアテネの兵がころされた。ところが彼らは幸運だったかもしれない。生きのびた兵たちはもっと不幸だった。アルソバイアデスの裏切りが彼らの運命を苛酷にした。

彼らの数は約七千であった。都市の外にある石切場につれていかれた。ここはいま公園に整備されてる。それは岩が切りたったせまい空間である。日除けの場所も飲み水もない。彼らはここに閉じこめら数ヶ月のあいだ傷つきしんでいった。灼熱の日光にやかれその最後をむかえた。秋となれば夜はこごえるような寒さだった。ほとんど食事や水があたえられなかった。すぐ病気が萬延した。死者が積みあげられ、ほうむることができなくなった。それらはくさるまで放置された。苛酷な飢えと病気はつまりは処刑であった。拷問であった。シラキュース人は子どもたちをつれて彼らをのぞき、あざけりわらった。シラキュース人はエウリピデスの悲劇をこのんだ。もし囚人たちが音響効果のよいこの場所でその一文をみごとに歌いあげたならば、ここから解放され奴隷にうられることがあったという。シラキュースにおける敗北がアテネにつたえられた夜、悲しみの声がひびいた。そして彼らを絶望の奈落におとした。

* さらにつづくアテネの凋落
シラキュースにおいてスパルタがアテネに完全に勝利することはできなかった。アテネは一年の混乱の後にもう一度、スパルタに立ちむかった。だがそれは彼らの敗北を先にのばしただけだった。最後に打撃をあたえた男はライセンダという。彼はスパルタ人だが、いやしい身分の出身である。私生児である。父は完全なスパルタ人であったが母はヘロットであった。つまりスパルタの経済をささえてる奴隷、マイシニア人とおもわれる。いわば混血の身分であったがアゴギへの入所がみとめられた。これは苛酷な訓練によりスパルタの男子を戦士に仕たてるものである。彼は社会的地位をもってなかったが集団のなかで頭角をあらわし軍隊における指揮官として、すぐれた政治家にそだっていった。

* スパルタ、ペルシアの資金による海軍力の増強
彼の政治的活躍にはペルシアとのふかい関係の構築があった。とかくばらばらになりがちなギリシャであるが七十年前にスパルタとアテネを指導者としギリシャは同盟しペルシアとたたかった。今やギリシャ人同士がころしあってる。ペルシャ帝国はこれをみて自分に役にたつほうに黄金をくばっている。ほとんどのスパルタ人はペルシャをきらう。スパルタ人は法の支配をこえたところにいる一人の人間にこびへつらう、その無駄とおべっかをきらう。ところがライセンダはこの価値観をかくすことができる。彼はペルシャを扉をあければ金を取りだせる金庫のように利用する。彼はサイラス、ペルシャの王の息子と個人的な関係を作りあげた。これにより彼の艦船の船員の給与が二十五パーセントと昇給した。国にぞくしない傭兵の船員はアテネからスパルタに乗りかえた。その結果アテネの艦船の船員が一夜にしていなくなったという。

* スパルタ、ライセンダの勝利
ペルシアの資金をえたライセンダの艦隊はアテネとその同盟に何度も勝利した。その結果、彼はアテネにたいする穀物の供給路を封鎖することに成功した。紀元前四〇五年である。ライセンダは大規模なアテネの艦隊を迎えうった。彼は相手をうまく誘いこんだ。戦いを拒否し、おそれて退却するようにみせかけ、敵の警戒がおろそかになった時に攻撃した。アテネは大敗北をきっしてその運命が彼の手ににぎられた。

アテネが降服した時、ギリシャの全土がこれまでアテネにもってた不満や恨みを爆発させた。一人のシーブス人はアテネを完全に破壊しその領土をシーブスに引きわたすべきといった。しかしスパルタはこれまでの戦い、おおくの犠牲にもかかわらず感情的にならなかった。彼らは冷静に条件を突きつけた。アテネの民主主義政府の廃止、アテネの艦隊の縮小、三隻のみにすること。都市を防禦してた壁のすべてを破壊。これはスパルタ人がながいあいだ不満をもってたものである。アテネの壁がもえてる時にスパルタがギリシャの支配者となったことがみとめられた。ライセンダはアテネの売春婦、都市の周囲にキャンプしてた一人がたちまち態度をかえ残り火のなかで踊りをおどり帝国の滅亡の歌をうたってるのをみた。アテネはスパルタに同調する勢力により運営されることとなった。ふるい学派のひとたちが定住した時に流血の事件がおきた。そのなかにアルソバイアデスがいた。彼はスパルタに亡命したがたくみな弁舌でアテネ市民にとりいりもどってきた。この敗北がおきた時、彼は指導者となりスパルタに立ちむかう一人とみられた。しかしスパルタからの命令により排除された。

ライセンダは勝利をデルファイに記念碑としてのこすことにした。彼は自分自身を顕彰する立派な記念碑をたてた。これはスパルタ人の行動倫理、控え目にものごとをいう自分を目だたせない。この倫理から、あざけりの的となった。今は基底部だけがのこってるが、かっては三十以上の実物大の青銅の彫像があった。それらは彼の勝利をたすけてくれた友人、支援者である。そしてその中心に彼自身がたってた。彼に王冠をかぶせようとしてるのがなん と海の神、ポセイドンである。自己宣伝の一。まさに恥をしらない姿である。

抜け目ないライセンダがもたらしたスパルタの勝利がすべてをかえた。スパルタがもっとも有力な都市国家となった、ギリシャ世界においてそうなったことがあきらかとなった。もし選択するなら帝国にすすむ道である。ライセンダはおおきな計画をもってた。そこにはスパルタによるあたらしい世界の秩序とそのなかなでの彼の場所が用意されてた。

* 神託と王位継承問題
紀元前四〇〇年である。表面上はスパルタは何もかわらなかった。だが時代がかわる。その頃に神託がでた。それがスパルタの市内を駆けめぐった。ビッコの王、他部族の征服、戦争の発生についてかたってた。ほとんどの神託は曖昧で内容のないものだったが、これは内容のあるものだった。スパルタにおいて権力闘争がおきることに言及してた。アジェス王がしんだ。

二人の候補者が王位をあらそうことになった。彼の息子、ラヒヒダスと異母兄のアジェスレイアスである。王位の継承は単純であるべきである。ラヒヒダスは王の息子である。アジェスレイアスは、生まれつき足が不自由だった。普通のスパルタ人たったら障害のある男子はうまれた時に排除される。ところが王室についてはこの法が適用されない。アジェスレイアスはこれにより生きのびることができた。七歳の時に彼はアゴギにはいった。これはスパルタ人の男子を戦士にそだてる仕組みである。スパルタの王室にぞくする者でアゴギにはいったものはいなかった。彼はこのきびしい環境で丈夫にそだっていった。アジェス王がしんだ時に彼は充分な自信をもって候補となった。この神託が出まわったのはこの時であった。そこにビッコの王とかいてあるのはまさにアジェスレイアスをさしてる。そこで示唆されてる脅威は深刻である。ところで神託はその解釈が重要である。抜け目のないライセンダはこれを政治的に利用した。まずスパルタ人にかっての歴史を思いださせた。

* ライセンダの政治的発言
アルソバイアデスとアジェス王の妃、ティメヤの恋愛問題である。この噂が真実ならラヒヒダスはアルソバイアデスの子である可能性がある。ティメヤはおさない時にラヒヒダスをあやしてアルソバイアデスとなんどもささやいてたという。ライセンダは神託のビッコの王、そのビッコは正統でない子を意味するかもとあてこすった。これでラヒヒダスはおち、アジェスレイアスが王となった。

* アジェスレイアス王の登場
彼はスパルタの王のうちでもっともスパルタらしい王である。アゴギが生みだした典型だった。スパルタ社会の仕組み、考えかたに全幅の信頼はおいてた。しかしスパルタの社会はかわってゆく。アテネにたいする勝利は戦争によるほころびをもたらした。質朴な戦士にたいする誘惑をもたらした。戦争は彼らにあの豚の血と酢からつくった伝統の食事にそれ以上のものをもたらした。国外にでたスパルタの指揮官の身持ちのわるさが有名となった。国外で不当な利益をえて持ちかえる。このわるい傾向がながくつづいてた。これがはじめてアジェスレイアスによりかえられた。彼が王になると彼とその家族は質素にくらしはじめた。彼のぼろぼろの外套は彼の質素さの象徴となった。

* 王とライセンダとの対立
そしスパルタに存在する頽廃の芽をつむことが彼の惟一の関心事となった。そこでライセンダをどのようにあつかうかが問題となった。ライセンダが神託をたくみに利用したことでスパルタにおいて彼の政治的影響力が増大していった。これまでの行動のつけが彼にもどってくる時がやってきた。この国際的に活躍した将軍はアジェスレイアスを見あやまった。彼は支配者である王の威厳を極めて重大にかんがえてたのである。ライセンダの海軍がアテネに何度も勝利してゆくにつれ彼のまわりに支持者がふえてきた。政治的な野心をもつ人たちもあつまってきた。このような人たちは足の不自由なぼろぼろの外套をきた王より彼のほうを尊敬する人たちである。

アジェスレイアスは彼を公然と攻撃することにした。彼がすすめようとする作戦はすべて、その反対のことをやった。ライセンダの支持者が賛同をもとめてもこれを拒否した。さらにアジェスレイアスは彼の考えを次のとおりあきらかにした。ライセンダと関係をもつことは死をもたらすかもしれないといった。最後に破局がやってきた。アジェスレイアスはライセンダに彼の食卓にやってきて自分につかえるようめいじた。ライセンダはこれは友人への振る舞いでない屈辱だといった。アジェスレイアスはそれをみとめるとともに自分よりたかい位置にたつことをゆるさないとこたえた。ライセンダは行方をくらましデルファイにいってアジェスレイアスにたいする謀略をめぐらせた。彼は金をおくり神託をかえ警告をあたえるものにしようとした。彼はこれが迷信に左右されやすいスパルタ人に動揺をあたえることをしってた。

彼はこの謀略が実現する前に戦闘において死亡した。その謀略は相当深刻な内容であった。その死後に書類が発見された。そこにスパルタの政体を改革するということがかかれてた。王の選出に公選制を導入する。ライセンダ自身が最強の候補者となることを想定してた。アジェスレイアスはこれをただちに公表しライセンダがスパルタにとり脅威であったことをあきらかにしようとした。しかしこれをよんだ長老の一人がその内容があまりに深刻である。なのでアジェスレイアスにつよく非公開をもとめた。すでに死亡してるライセンダを墓場からよみがえらす。それより演説原稿も彼もそのままにしておくようもとめた。この事実はかくされスパルタは何もかわらなかった。だがスパルタをめぐる外界はどんどんとかわってゆく。一連の災害が深刻な神託の正しさをあきらかにしていった。

* スパルタ、内部対立の表面化、ケネドンの陰謀
深刻な事態がアジェスレイアスの近くにあつまってきた。古典ギリシャの力がもたらすよき秩序がしりぞき、みえなくなった。そしてこのわるい精霊になやまされる王のまわりに悪運があつまった。王位をついで一年がたった。ふだんどおり犠牲の儀式がおこなわれたが神官が警告をはっした。スパルタは邪悪な敵にかこまれているという。これに新味はほとんどない。ほぼ三百年のあいだその独自の社会構造、ヘロットがいる人種差別政策、彼らを最下層しその労働力に依存する。ペリオイコイという商人、職人の階層。彼らは市民権をもたない。その頂点にホミオエ、えらばれた市民、スパルタの戦士がたつ。人口の少数派がその下部をしっかりと支配している。神官はこれがもつ脆弱性を警告していた。実際の脆弱性はそれよりももっと深刻だった。その数日後である。陰謀が発覚した。それはスパルタの社会構造を根本的にくつがえそうとするものだった。その首謀者の一人はケネドンという。彼はヘロットでもペリオイコイでもなく下層のスパルタ人であった。

この人たちはいったいどのような人たちだったのか。戦争からの逃亡者、私生児、混血、借金による奴隷だったのかもしれない。この陰謀者たちで注意すべきはヘロット、ペリオイコイ、下層のスパルタ人という範囲の広さである。ケネドンは彼らがスパルタの理想郷の恩恵からはずれた人々といってる。彼らが自白し罪状があきらかになった時にケネドンとその仲間たちは。槍を突きつけられて追いたてられ処刑の場所につれてこられた。それはこの地中の裂け目がある場所だったろう。ここはスパルタから数マイルの距離にある。考古学的調査がおこなわれその底に数フィートの厚さの残存物が発見された。紀元前五世紀から六世紀にぞくする。男、女、子どもの骨がのこされてた。

この事件はスパルタの欠陥をあきらかにした事件である。それは異常なまでの選抜主義である。スパルタは市民の権利をはじめてみとめたギリシャの都市であろう。しかしそれは常に少数の人々の特権であった。この少数へのこだわりはさらに先鋭化してゆく。彼らは本能的に自分たちのきびしい基準にあわない者を排除してゆく。その結果はこうなった。スパルタからスパルタ人がいなくなる。百年前のテルモピレの戦いの時代である。そこには一万の完全な市民権をもつ人々がいた。今や千の少数となった。スパルタ人の人口は 危険水準にたっした。戦いにおいてスパルタ人は戦闘をおそれるようになった。彼らは指揮官になる。兵はヘロットがなる。彼らは戦いの後に奴隷からの解放が約束されてる。この他に不承不承に参加した同盟軍がいる。

* 枯渇するスパルタ戦士
スパルタにあたえられた時間はすくなくなってきた。アテネの防御壁が取りこわされた時、紀元前四〇四年が歴史家によれば自由なギリシャのはじまりであるという。傲慢なアテネはその振る舞いゆえにほとんど友人をもたなかった。だがスパルタ帝国も抑圧をくわえるものだとわかってきた。アテネはその艦隊のために資金を要求してきた。スパルタは戦争をたたかうために兵を要求してきた。f友人との仲がわるくなる時期であった。スパルタにあたらしい敵が登場してきた。シーブスである。軍事的にいえばさほどおおおきくない同盟の盟主である。しかしアジェスレイアスの理解しがたい行動により不満をたかめている都市がふえてゆく。事態はスパルタが予想してるよりはやくうごいた。紀元前三七一年の春である。都市国家があつまる会合がひらかれた。ここできびしい敵対関係や戦争への危機をやわらげようとした。ここでは外交や税の問題が重要となる。だがこれらはアジェスレイアスの得意とするところではない。スパルタはこの会合では筆頭者とみなされてた。しかしシーブスの代表にたいし他の都市が尊敬の態度をみせてるのに気づいた。彼はこれにいかり代表と論爭をはじめた。シーブスも受けてたち無鉄砲にも反論をかえした。 アジェスレイアスは完全に冷静さをうしなった。彼は平和協定を取りあげそこからシーブスの名前をけした。二十日後に二つの都市はぶつかった。その場所はレッキトラである。ここに記念碑がのこってる が当時はもっとたかく周囲を威圧するほどだった。アジェスレイアスはこの戦いの指揮をとらなかった。彼が戦争をこのむとおもわれたくなかったからだろう。別の王が指揮した。七百のスパルタ、千三百のヘロットである。それにあまり気持がすすまない同盟の軍である。

* スパルタとシーブス、レッキトラの戦い
それにたいするのは六千のシーブス軍である。彼らの士気はたかく復讐の念にもえてた。敗戦は兵力の差だけでない。シーブスはあたらしい戦術をとった。彼らの密集歩兵隊の編隊は八列の厚味でなく五十であった。四百のスパルタがその日にころされた。これはおおきな数字でないようにみえるが当時のすべてのスパルタの兵の半分にもたっするものである。軍事力の観点からは実質的にスパルタ軍は消滅した。

その敗戦の意味は深刻だった。ここは都市、マイシニアの壁がのこってるところである。スパルタ人がけっしてみたくないものである。これはレッキトラの敗戦の後に三百年のあいだ奴隷とされてたヘロットがたてたものである。シーブスはレッキトラの戦いの後にラコニアにあるスパルタを攻撃した。これでマイシニア人を解放した。アジェスレイアスのその後である。彼は八十歳になったが傭兵隊の将軍として、からになったスパルタの国庫をお金でみたそうとエジプトにいた。エジプト人が彼をみかけた。彼はぼろぼろの外套をきて砂浜にすわってた。ある歴史家によれば彼らはただわらったという。

* 軍事国家、スパルタの終焉
スパルタは嘲笑の的となった敗戦からけっして再生することはなかった。奴隷の支えをうしなってから再生することはなかった。第二流の都市国家に格下げされた。これにつづく数百年のあいだ、カルタゴ、シシリー、ローマとあたらしい領土をもった勢力が登場した。スパルタはそのたびにかってのスパルタの仕組みを復活させ再生を夢みた。だがマイシニア人の奴隷がいないスパルタはスパルタではない。ユートピアの正体があらわれた。もはや誰もスパルタを再生させることはできなかった。

スパルタが崩壊して四百年の後に重要な人物の訪問をうけた。ローマの最初の皇帝、オーガスタス・シーザーである。彼はここに皇帝としてでなく個人としてローマにおおくの文化的影響をあたえた社会に敬意をあらわすためにおとづれた。またここにはローマからの旅行者だけがきたのではない。ここのおおきな劇場ではスパルタの独特の踊りや軍隊での儀式がえんじられた。また近くのアルテミスの神域にいけばかっておこなわれていたスパルタ男子の通過儀礼、時には棒でなぐられ死にいたるかもしれない儀式。それの復活版をみれる。これらはスパルタの興隆と没落の象徴であるかもしれない


スパルタからながい旅をしてここ英国の田舎、バツキンガムシャーにある貴族の敷地にやってきた。ここにギリシャ風の建物がある。これはアテネの文化をたたえたものだろう。そこに美徳の寺院というものが ある。そこでは三人の賢人がかざられてる。ソクラテス、ホーマー、それと半分神話の人物であるライカーガスである。

彼についてこうきざまれてる。スパルタ建国の父。偉大な知恵をもって国をかたちづくる法をさだめた。それは国民を腐敗からまもり、強固な自由をあたえ、富、貪欲さ、贅沢と欲望をうしなわせる堅固な道徳をあたえた。

これは自己規制、自己否定に清教徒的な共感をもってかかれた極めて公平な総括である。だがそこにはスパルタ社会がもつより上流階層的でない側面、女性同士にある親密な関係、残酷な教育、奴隷制度、たえまなくつづく戦いについてふれられてない 。さらにいうがスパルタがもつ最大の欠陥、理想に拘泥しすぎ完璧さを追及するあまり時代とともに自分自身を改変してゆくことができなかった欠陥についてふれられていない。
(おわり)

お知らせ
次の簡略ギリシャの歴史シリーズを窮作文庫に収録しました。ブログ掲載分を修正し転載したものです。みやすくなったとおもいます。一度のぞいてみてください。

序論など)
序論
ミノア文明
マイシニ文明の一
マイシニ文明の二
ホーマーと暗黒時代
古代ギリシャと都市国家
密集隊戦法
スパルタ
アテネ
ペルシア
(ギリシャとペルシアの戦いなど)
マラソンの戦い
テルモピレの戦い
サラミスの戦い
プラティアの戦い
マイカリの戦いとデリアン同盟
アテネ帝国
ペリクリースの時代
(ペロポネソス戦争)
第一次ペロポネソス戦争
ペロポネソス戦争の一
ペロポネソス戦争の二
ペロポネソス戦争の三
ペロポネソス戦争の四
ペロポネソス戦争の五
ペロポネソス戦争の六
ペロポネソス戦争の七
ペロポネソス戦争の八
ペロポネソス戦争の九
ペロポネソス戦争の十
ペロポネソス戦争の十一
ペロポネソス戦争の十二
ペロポネソス戦争の十三
ペロポネソス戦争の十四
ペロポネソス戦争の十五
(スパルタの覇権など)
スパルタの覇権
一万人の行進の一
一万人の行進の二
小アジアの騒乱
(コリンス戦争)
コリンス戦争の一
コリンス戦争の二
コリンス戦争の三
コリンス戦争の四
(スパルタの崩壊など)
コリンス戦争のあと
平和なし
ルトラの戦い
アルカディアとマシーニアの反乱
マンテニイの戦い、最終のゲーム
ウルブルンの難破船

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国民が馬鹿にされてるなあ [バカにされないクスリ]



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* はじめに
京都大学の藤井聡氏がラジオでいってた。訪日したトランプ大統領が対米赤字をいってはる。一九九〇年代にもおおいに問題となった。日本は内需拡大をつきつけられた。というわけで今回、試算した。

日銀がいってるインフレ率二パーセントを達成したら赤字がどれだけへるか、データをもとに計算、毎年1.2兆円、五年で六兆円。これで問題はほぼ解消する。ところで誰か このことをいったか。トランプさんもいわなかった。日本側もいわなかったようだ。たしか当時、米国は日本に四百兆円の公共投資をもとめ最終的に六百兆円。国内から文句をいわれながらやった。ここで藤井さんが吠える。どうして国民はこんなことをわすれるのか。というわけで考えてみた。

* 考えてみた
国民はわすれてない。はじめからしらない。馬鹿だから。もうすこし丁寧にいえば専門家にくらべればあきらかに無知。かしこい専門家はしってる。今はそんなこというべき状況じゃない。トランプさんもいってない。だからだまってよう。するとマスコミもいわない。だったら国民が何もいわないのは当然。私は国民は馬鹿にされてるとおもう。専門家や担当の役人なら当然しってる。デフレに日本で内需拡大が必要なのは当然。米国にまともにこたえる回答ともなる。だが国民がさわがないからだまっておこう。国の借金、実は政府の借金の額を問題に。将来にツケをと不安をあおる。

借金は何かをかう。何をかったか。借金そのものが罪でない。国債発行という借金がどう役だつたのか、あるいは役だつのかを評価しない。それを国民に説明しない。今回のように米国の要求にまともにこたえるのに役だつ。国民はいつまで馬鹿にされているのだろうかとおもう。さて藤井さんの話しをもう一つ。

* 外国人技能労働者の人権問題
これはいま人手不足の日本でふえてる外国人労働者にかんし人権問題があるので規制を厳格にするという話しである。藤井さんは人権問題を解決する必要はみとめるがそれよりこれについて安価な労働者受け入れ、その隠れ蓑になってることを問題にしてる。もっともである。経済評論家の三橋貴明氏が口を極めて非難してる。デフレの日本で日本人労働者の賃金をさげる方向にはたらく。将来の社会的問題、それへの公的負担の増大につながる。人手不足は資本主義の王道である労働者一人あたり生産性の向上で対応すべきという主張である。

この種の議論でマクロ経済の視点が欠如。不安すらおぼえる。制度が本来の趣旨からずれる。安易な拡大が社会的問題を引きおこす。それはかならず将来の公的負担の増大というかたちで国民にもどってくる。受け入れを増大させたいならその人数、本人と将来日本に呼びよせる家族、これらの人数の予測、学校、社会保険、社会問題などの負担増の予測など個別問題だけをみずマクロ経済の視点から評価し予測する。今の研究はすごい。たとえば私がよく引用させてもらってる計量経済学者の高橋洋一氏。彼ならたちまち試算をみせてくれるだろう。数字でその問題のおおきさがわかれば、私でも見当がつく。さて結論である。

* 結論
国民の皆さん、馬鹿にされつづけるのはやめましょう。

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アレクサンダー大王、その二の九、バルカン遠征 [英語学習]

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* はじめに
アレクサンダーはフィリップの暗殺後の混乱を乗りきった。まず有力将軍の支持をえて王位継承者の地位を確保、アテネ、シーブスなどにギリシャの覇者をみとめさせた。北の反乱をおさえ領土をダニューブ川まで拡大した。西の辺境の反乱も平定した。フィリップの後継者たる地位を確立しさらに東進しギリシャ人の都市をペルシアから解放するとかたりはじめた。
(Alexander the Great: The Balkan Campaign (336 to 335 B.C.E.)、Historia Civilis、2017/10/31 に公開)

* 暗殺後に有力将軍がアレクサンダーを支持
フィリップ三世が暗殺されだ。このような場合には王位継承が問題となる。しかし息子、アレキサンダーが有利な位置にいたことはたしかである。彼は三人いた息子の上から二番目である。一番目は認識に障害があり政治に関与してない。ところでおおくの人がしんじてるところだが三番目、幼児であるが、彼をフィリップが王位の継承者とかんがえていたという。おさない王は十数年にわたり摂政が政治をおこなうことを意味する。野心的な重臣たちはこの実現をもとめる。王にかわって実権をふるうことができる。フィリップのもっとも信頼がたかかった将軍、アンティパータ(antipater)がいち早くアレクサンダーのもとに軍を引きいてやってきた。このことはアレクサンダーこそがフィリップが予定してた継承者だと公然と主張したことにつながる。

これにより他の有力な将軍たちもアレクサンダーのもとにやってきた。マセドニアの軍は彼を支持した。幼児を王位につけようという陰謀は彼の死とともになくなった。その後の数ヶ月は事件がつづいたが事態が落ちついた。三つのことがかわった。

一、アレクサンダーは父の有力な支持者のすべてを味方につけ彼らを顧問に任命した。
二、アレクサンダーからなんらかの保証をえて臣下たちは満足して彼にしたがった。
三、アレクサンダーの有力な対抗馬であったフィリップのおさない息子はしんだ。うたがわしい状況のもとでの死であることを公平のため付言しておく。

* 内政安定化にうった手段
一、王として彼が最初にやったのはすべての税金を廃止。今後の国の歳入を鉱山開発と征服によるとした。これにより臣下は非常に満足した。これが彼を支持する条件の一つとなった。
二、フィリップが公布した法律、命令のすべての維持を誓約。これは軍の古老を満足させアレクサンダーを支持する条件の一つとなった。

* アレクサンダー、ギリシャの覇者の確認
王位の維持にどのような条件が必要かをみるのは興味ぶかい。マセドニアの権力組織をまとめあげた後には新王はギリシャ全土が彼の王位をみとめるかどうかをたしかめる必要がある。またフィリップの承継者としてギリシャの覇者である地位は要求しうる。これらをたしかめる必要がある。

* 各都市を巡行、テッサリの妨害
アレクサンダーは三千の騎馬隊を引きつれて南にむかった。テッサリのちかく山をぬける惟一の道にやってきた。テッサリが軍をうごかし道を封鎖してた。テッサリはアレクサンダーに使者をおくりまってくれとたのんだ。アレクサンダーと軍をとおすかどうかを検討してるといった。これは無礼な行為であった。フィリップはその統治時代にテッサリを併合していた。つまりここはマセドニアの領土である。彼らはアレクサンダーを外国の王のようにあつかった。この道は非常にせまく衝突をおこすのは小規模の軍を引きいるアレクサンダーにとり不利だった。彼はまった。

彼はひそかに山の道を切りひらくようめいじた。数日後に馬にのったまま山をこえた。間道をぬけたマセドニアはテッサリが何がおきたかをしる前に道にもどりテッサリ軍の後をすすんでいた。テッサリはとっさの判断で態度をかえアレクサンダーを新王として歓迎した。彼はこの服従の姿勢をそのまま受けいれた。

* アテネ、シーブスの服従、スパルタの姿勢
また南下をつづけた。おおくのギリシャの都市から外交使節がやってきた。彼をあらたな覇者としてみとめた。ところがシーブスとアテネは不気味な沈黙をまもってた。ところがさらに南下するのをしり不承不承に外交使節をおくり彼を覇者としてみとめた。ほこりたかいスパルタはアレクサンダーの覇者をみとめようとはしなかった。しかし文書をおくった。それにはおおくの人々のやることを追いかけるのは我々のやりかたでない。むしろこれらの人々を先導するのがやりかたである。すでにのべたがスパルタは当時、千の軍を編成するのが限界。それにくわえて奴隷の軍を編成するのがやっとだった。もはやマセドニアの脅威ではない。ある人はスパルタがはいってることが南の都市をおどす材料になるといった。ギリシャ人はマセドニア人を信用してない。だがギリシャ人はそれ以上にスパルタを嫌悪してた。

* デルファイの神託、不敗神話のもと
すべてのギリシャは平定した。アレクサンダーはすぐ軍をもどし神託をもとめデルファイにいった。これは父、フィリップもやったこと。ところが問題があった。神託は冬にはでない。寺院でアレクサンダーは拒否された。彼は事情をしらず激怒した。ある説によると寺院を急襲した。そして女神官の長に乱暴な行為をおこなった。彼女を椅子のうえに押しあげさらに暴力をふるい神託を要求した。この過程のどこかで神官が彼は無敵であるといったという。ややしんじがたいところがあるが彼はこれを真実の言葉と受けとった。ある人の見解ではアレクサンダーをおとしめる宣伝工作という。しかしこれを彼がしんじたとすると彼は自分は戦いでしぬことはないとしんじてマセドニアにもどったことになる。

* 北の辺境の反乱、スレイスの荷馬車攻撃をかわし勝利
さてアレクサンダーがその権力の確立にいそがしかった頃に、マセドニアの後背地で反乱がおきた。これらの地域はフィリップにより近年に征服されたものである。北部と西部の反乱は独立を要求してる。ところでマセドニアの北の辺境はダニューブ川の南、そこには五日の進軍でゆける距離にある。アレクサンダーは北方の辺境を永続的にするためダニューブ川のところまでひろげることにした。冬に彼は山で攻撃作戦をおこない春にさらにすすんで北方の脅威と向きあうことにした。ヘーマスモンスという現在のブルガリアにぞくする地点でスレイスの軍と遭遇した。道をすすんでた時である。

スレイスは丘のうえで待ちかまえてた。前面に荷馬車をおいて防禦としてた。アレクサンダーは斥候をおくり彼らを回避できる道をさぐらせたが見つからなかった。彼はいらついて後をむいて歩兵隊にめいじた。まっすぐ敵にむかえ。疎開しゆっくりした歩調ですすめといった。彼は慎重になり荷馬車がおいてある理由を予想した。予想はあたった。マセドニアが丘の中腹にきた時、スレイスはその荷馬車をおし斜面をすべらせてマセドニアのほうに突っこませた。アレクサンダーは冬のあいだにこのような作戦への対応を兵に訓練してた。彼の合図とともにマセドニアの兵は体を地面に投げだし盾で頭をかくした。荷馬車はいきおいよく滑りおち、うつむいたマセドニアの兵を乗りこえていった。若干の擦傷、切り傷をのぞくとまったく無傷のままでおわった。この荷馬車による攻撃はなかなかすばらしいものだった。マセドニアの無敵の密集歩兵隊をやぶったかもしれない。だが実際はそうならなかった。攻撃の道がひらけたのでマセドニアは丘の上の敵に直接攻撃をおこなった。弓矢隊は矢をさかんにいて歩兵を援護した。歩兵はすばやく攻撃をおえ、まったく損害がでなかった。

* ダニューブまで領土を拡大
アレクサンダーが王としての最初の作戦はまったく完璧な勝利だった。しかしバルカン遠征はまだおわってない。アレクサンダーとその軍がダニューブ川についた時に敵対する部族がいるのを発見した。彼らはアレクサンダーが北上するのを妨害していたものだった。彼らが川中の島にもどっていった。彼らはもしマセドニアが島に上陸しようとするならばいつでもたたかう用意がある。そうみえた。川をわたった北の岸べには別の敵が待ちかまえていた。彼らは草原からやってきた放牧の部族である。マセドニアを注意ぶかく観察してた。アレクサンダーはこの複雑な状況によい答がないかかんがえた。島への上陸作戦は被害がおおきいだろう。どのような方策があるのか。

彼には考えがあった。騎馬隊を扇型にひろげた。ちかくの村から釣り船をうばってきた。のこりの軍にはどんなものでもよから筏をつくるようめいじた。夜陰にまぎれて軍の一部を筏にのせた。島にわたるのでなく向こう岸にわたった。彼らは穀物畑の背後に上陸した。これらは充分に背がたかくそこに身をかくすことができた。彼らが下船しおわると朝日がのぼってきた。歩兵隊は横一列にならんび前進をはじめた。アレクサンダーは騎馬隊を引きいた。マセドニアを観察してる中立軍を攻撃した。放牧の部族は数ではアレクサンダーより優位にっあた。たぶん三対一だろう。だが彼らはまったく不意をつかれた。川からはなれ退却にうつった。彼らの野営地にもどると彼らは軍を再度編成した。ところがマセドニアがまだおっかけてきたのでおどろいた。放牧の部族は野営地を放棄し草原にきえていった。アレクサンダーにはおおきな勝利だった。しばらく略奪をおこないダニューブ川にもどった。川中の島にいた部族は川の両岸にマセドニアがいることを発見して非常におどろいた。彼らは島にとどまり長期の城攻めにたえるより降服をえらんだ。

アレクサンダーは神をしんじる気持のつよい人物である。マセドニアがここにとどまり神に彼らの勝利を感謝するために一連の儀式をおこなうよう主張した。軍を引きいてダニューブ川をわたることは兵站作戦のみごとな成果である。この後の数日間は他の部族があらわれて降服を申しでた。マセドニアの領土はこうしてダニューブ川まで拡大した。遠征の目的はみたされ、北方の国境は確保された。

* 西の辺境の平定、イィリアンの軍と遭遇
しかし西の国境についてはなお脅威がのこってた。イィリアン(illyrian)はアレクサンダーの父、フィリップの時代に降服していた。しかしフィリップがひいた国境線には満足してなかった。彼らはこの不安定化した時期こそこの問題を有利にすすめる絶好の機会ととらえた。アレクサンダーはイィリアンが進軍してくるのをきいた、ダニューブからただちにこちらにむかった。彼はペリアムというちいさな砦のちかくですすんでくるイィリアンをとらえた。イィリアンはこの砦にはいったがこれは賢明だった。その砦は東、北、西にかけて三つの丘でまもられさらにその南は川でまもられてた。丘をぬけて砦にむかうただ一つの道があった。アレクサンダーはそこにとどまり城攻めの準備にはいった。だがこれは戦術的には失敗だった。

* アレクサンダー、罠にはまる
ほとんど同時にまるでアレクサンダーをまってたかのようにもう一つのイィリアンの軍がやってきた。彼らは丘にのぼりマセドニアを包囲した。アレクサンダーはまるで罠に自分からはいっていったようなものだった。しばらくのあいだイィリアンはマセドニアとの距離をたもってた。この道は隘路となってた。この谷をぬける、あるいははいるにも一日仕事になるものだった。

もしマセドニアが谷から抜けでようとするとイィリアンは丘をくだりマセドニアを背後から追撃できる。これをよくみると砦をマセドニアが包囲しそのマセドニアを丘にいるイィリアンが包囲してる。イィリアンにとってはじっくり腰をすえてアレクサンダーが間違いをやらかすのをまつ状況となった。数日かけて彼と助言者のあいだで議論がかさねられた。次のような狂気じみた作戦を実行することとなった。それはマセドニアが絶望的な状況になってることをかんじさせるものだった。これはすばらしい作戦だった。彼らは戦いにはいるため兵をうごかした。ながい隊列をつくった。兵が実際よりおおくいるようにみせた。それから演習をおこなった。これが彼らがかんがえた作戦だった。これはさらにいえば見世物だった。歩兵隊が前進する。次に停止する。次に方向をかえる。隊形を変更する。これらはまったく合図なしだった。前進してる時に長槍を前後に振りまわす。そして完全に同期して長槍を前に突きだす。槍が風をきる音がする。それは丘のうえにいる敵にもきこえた。

* アレクサンダー、奇策で相手をまどわす
なんの合図もださずマセドニア軍のすべてが沈黙をやぶり戦闘の雄叫びをあげた。武器で盾をたたいて音をたてた。おどろくべきことだが、これはおおきな効果があった。イィリアンはこれほどの規律ある動きをみたことがない。それは人間業にみえなかった。ある部隊はおそろしくなって逃げだすこととにした。退却の動きがでたここが絶好の機会である。合図がはっせられた。マセドニアは丘の上の敵にまっすぐ攻撃を仕かけた。アレクサンダーも騎馬隊を引きいて攻撃した。イィリアンにとっては完全な不意打ちだった。

散発的な戦いがあったがイィリアンは総退却にうつった。マセドニアはこれで誰一人うしなうことがなかった。 アレクサンダーは自分をほめてよい。自分から危地にはいり、しかしそこから成功裏に抜けだした。それもまったく損害をださずにである。アレクサンダーは今や谷を支配下においた。イィリアンはまだ地平線のどこかにいる。アレクサンダーには食糧補給の問題があった。彼は食糧補給線をどのように確保するかをかんがえねばならなかった。彼は騎馬隊と弓矢隊を丘のうえにのこした。そしてそれ以外のすべてをつれて川にむかった。しばらくかんがえてから彼は道をとおって谷をぬけるより川をわたることにした。

* アレクサンダー、川をわたり戦況を好転
安全をたしかめるためまず選抜された盾持隊が最初にわたった。歩兵がその後につづいた。こうしてるなかで丘のうえにいる騎馬隊と弓矢隊はイィリアンがもどってくるのを監視してた。軍の大半が川をわたった頃騎馬隊と弓矢隊は丘をおりてきた。川をわたろうとした。するとイィリアンがもどってきた。すぐ川をわたってるマセドニアに気づいた。彼らは丘をおりてマセドニアの後方を追撃した。向こう岸にいたマセドニアの歩兵隊は投石機の攻撃の準備をととのえた。それは砦の城攻めのために用意してたものである。イィリアンが谷をすすんできた時に投石機の攻撃がはじまった。ある人によればこれは歴史上はじめて城攻めの投石機が野戦でつかわれた例だという。

川をわたっていた弓矢隊は川の途中で向きをかえ矢による攻撃を仕かけた。この一斉攻撃はイィリアンの進軍をとめるに充分だった。これによりマセドニアは余裕をもって川をわたることができた。これらを振りかえっていえるのはアレクサンダーは幸運だったということである。

* アレクサンダー、攻撃の仕上げ
アレクサンダーはこちらの岸で野営地を設営した。彼は馬糧調達の部隊をおくり供給線を確保した。ここでやっと食糧の荷物を受けとることができた。彼はここで猶予の時間をえた。数日後、川岸に斥候隊をおくった。そこでイィリアンが何をしてるか観察した。おどろいたことに彼らはただそこにいるだけで何もしてなかった。監視の兵すらおいてなかった。 彼らはまるで戦いに勝利したかのような振るまいだった。アレクサンダーは選抜された盾持隊と弓矢隊の兵を引きいて川をわたり夜討ちを仕かけた。予想したとおりだが敵はまったく気がつかなかった。監視の兵もおいてなかった。テントを攻撃した盾持隊はまったく気づかれないまま睡眠中の兵をころしていった。

敵襲撃に気づいた頃には野営地からおおくの兵が逃走してた。多数がころされそれ以上の数が捕虜となった。この攻撃だけでイィリアンの軍は消滅した。翌日、砦のイィリアンが降服した。ヘーマスモンスの城攻めは奇妙なものだった。

* ゴールズと友好関係をむすぶ
アレクサンダーは自分自身の失敗から危地に落ちいりそこから抜けだした。そこでしめした彼の行動はまったく天才を発揮した。彼がペリアム、ダニューブ、ヘーマスモンスでおさめた勝利は間違いなく一つのメッセージを周囲におくった。アドリア海沿岸のゴールたちがいつしょになり、このわかい王と外交関係をむすぼうとした。

彼が彼らゴールの代表団とあった時に彼らが彼の足下にひれふす機会をあたえた。そこでまずきいた。貴下は世界でもっともおそれてるものは何か。彼らはひれふすかわりに率直にこたえた。天が頭のうえにおちてくることである。あきらかにゴールの神話からきたものだった。神をしんじることのあついアレクサンダーはこの奇妙な答に感心した。彼は彼らに友好関係をむすぶことをみとめた。そして彼らが平和裏に彼のもとをさることをゆるした。彼の我儘がでた時だが後に自分の部下にむかってゴールズが彼を尊敬せず傲慢だと文句をいった。

* 権力移行をみごとにやりとげたアレクサンダー
我儘がでることは別にしてアレクサンダーが自分自身をたかく評価するだけの充分な根拠がある。彼の父の突然の死が混乱を引きおこした。この期間にフィリップの征服の成果をうしなうことなく、むしろそれを拡大させた。マセドニアを内乱からすくった。権力移行の困難な時期に重要なものをうしなうことなく権力移行を成しとげた。あかるい未来がみえた。国境地帯が平定されたことをうけ彼は公然と父がもってた夢の実現をかたりはじめた。それは東にすすみペルシアの支配下にあるギリシャ人の都市を解放することである。この目標を達成するためにも彼はほかのギリシャ人と協力する必要がある。そして当面の彼らの忠誠心はまだあきらかではない。

(おわり)
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加計学園認可へ、さて何が問題 [バカにされないクスリ]



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* はじめに
この十一月に安倍批判の的となってた加計学園獣医学部設置が認可のはこびとなった。毎日新聞は野党がさらに追及するという。私のブログでほとんどでかいたが、あらためて加計学園や文科省の動きを振りかえってみよう。

* 加計学園の動き
二〇一六年四月、元文科省の木曾巧理事を学園にむかえ、正式申請にむけ文科省と事前相談にはいった。
二〇一六年十月、正式申請をおこなった。順調にゆくなら二〇一七年八月の認可となるが、おそらく教員審査でもめたのだろう。この十一月の認可となった。

学園理事長加計孝太郎氏は申請手続への影響、特に設置の審議会で大学教員が参加する審査に悪影響をあたえることをおそれマスコミにでてこなかったのだろう。認可がきまればその肉声をきくことも可能だろう。

* 文科省の動き
特区諮問会議から宿題をあたえられ回答期限の二〇一六年三月末まで回答しなかった。つまり申請をみとめることとし文科省は加計と事前相談にはいり同年十月に申請を受理した。審査はすすんだがおそらく教員の問題でこの十一月認可のはこびとなった。途中で前川氏というすこしかわり者の前次官が混乱を引きおこしたが、大学を担当する高等教育局は安倍政権の方針のもとに粛々と審査をすすめてきた。

* さてどこがおかしいか
五十二年間、学部申請を受理してこなかった。もともと認可権限をもつ文科省が拒否という不合理をこんなにながくやるか。行政訴訟になれば敗訴する可能性が極めてたかい。きびしく審査するが最後に認可する。こうあってこそ天下り先確保にもつながる。こんな省益を無視した不合理を文科省がすすんでやるか。そこに政治の関与があったことはあきらかだろう。そんなことに気がつかない国民は馬鹿といわれてもしようがない。

役人がきかれて、誰誰先生の圧力がとかいうか。五十二年間の異様な事態を文科省のせいにする動きがあるが濡れ衣である。異様な事態を引きおこした政治を追及する。政治家が国会で政治家(元政治家をふくむ)を追及して、これをただすべきである。さて結論である。

* 結論
この問題を国会で追及してきた玉木雄一郎氏にお願いする。
一、学部設置をすすめようとする加戸守行前愛媛県知事を日本大学総長とともにおとづれ圧力をかけたという北村直人氏や、
二、石破四条件をもうけ学部設置を妨害したと後に暴露された自民党石破茂氏を

国会できびしく追及していただきたい。

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