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ケーガンギ歴、ペロポネソス戦争(17、3の1)



* はじめに
引用:17. The Peloponnesian War, Part I、YaleCourses、2008/11/20 に公開

* 年表
465 セイソスの反乱
461 メガラとコリンスの紛争
457 エジプトへの出兵、453頃、敗北
453 デロス同盟の金庫が移転
451 キーマンの復帰
449 フォシスをスパルタが攻撃
447 フォシスにアテネが進軍
446 ビオーシャで民主政府を追放
445 和平の協定
431 第二次ペロポネソス戦争勃発

* 講義の対象、ペロポネソス戦争
我々は次の二、三週間において大ペロポネス戦争(the Great Peloponnesian War)のはじまりと戦いをしらべる。これはギリシャ人自体にとり極めて重要な問題あり、古代ギリシャに関心のある人々にとり重要である。というのは固有の重要性をさておいて、アテネの市民、オロラス(Olorus)の息子、ツキジデス(Thucydides)、彼はこの戦争の参加者で同時代の人物であるが、彼が我々のためにかたってくれている。ながい千年をこえて極めてすぐれた歴史家とみとめられてる。私もそうおもってる。

* 歴史家、ツキジデス
というのは、彼は西欧と世界の思想においておおきな影響をあたえた人物であるからである。現代における第一次大戦、第二次大戦、それにつづく冷戦を研究してる人々にとりツキジデスのペロポネソス戦争の歴史はおおくの示唆をあたえる。またさらに、歴史と戦争についての彼の考えかたがもそうである。

国際関係において、大衆のなかでの人間の行動についてもそうである。これが彼の歴史を注意ぶかく、他の歴史と比較しながらしらべる理由である。これは紀元前五世紀のおわりのほぼ三十年間にわたりアテネ帝国がスパルタの同盟とたたかい、それによりギリシャ世界とギリシャ文明をかえ今にいたるものである。

紀元前五世紀においてペロポネソス戦争は世界大戦といってよい。ツキジデスが取りあがげたが、ギリシャを巻きこみ、それにとどまらず、ペルシアが重要な役割をはたし、同様にマセドニアも、またシシリーやイタリアの人々も巻きこんだ。それはギリシャ人の観点からはおおきな防衛を必要としなかったが世界大戦であった。ギリシャの歴史にとり決定的な転換点であり、莫大な人命と財産を破壊し、きびしい党派の分裂と階層間の敵対心をうみ、ギリシャの都市国家の分断を引きおこした。

ギリシャ内部ではギリシャ全土における内乱である。これは都市国家内部の階層の関係を不安定とし、究極において都市国家間の関係もそうした。後世の人からみればギリシャの力をそぎ、外部の脅威への抵抗力をよわめ彼らの独立と自治をうしなわせる状況を生みだす傾向をうながした。

私は次の点を強調する。おくの点から戦争は悲劇であり、信頼と希望のおわりである。ペルシア戦争とペロポネソス戦争の五十年間はギリシャの偉大な時代である。我々が評価するおおくの事柄がうまれた時期である。それをギリシャ人たちが創造し発展させたのである。それは人間の能力の確信させ将来に花ひらくという希望の証拠をみつけた時代である。このようなことがあったからこそ、はなはだしい逆転の苦しみをあじわった時代でもあった。

ペロポネソス戦争が引きおこしたものから暗黒の時間がはじまったのだった。それはギリシャ人の命に前例のない残酷さがおそった戦争だった。ギリシャ人の戦いの作法がすでにボロボロとなっていたのに、さらにそれを破壊する戦いだった。それは蛮行と文明的行為からはるかにとおい行為の戦いだった。

このような見方はツキジデスにとってふるからある考えだった。これを彼が歴史において私におえしえくれた。残酷さ、凶暴さをへだてるうすい壁がある。それは社会にいる人間のあいだに存在する。そして社会はそれをおおいかくす。それは文明とよぶものににてるといえる。

しかし戦争というものはその防御壁を破壊する方向にはたらく。これは社会が個人にくわいえる圧力である。戦闘がながびくと怒り、焦り、復讐欲が増大する。残虐行為はつづく。捕虜を切りきざみ殺害する。 立坑に投げこむ。乾きと飢餓に放置し、死にいたらせる。これはシシリーでおきたことである。海にほうりこみ溺死させる。これはペロポネソス戦争の末期には普通のこととなった。

略奪者の集団がやってくると、彼らは無辜の学童を殺害し、都市国家全部を破壊し、男をころし、女性と子どもを奴隷にうった。ペロポネソス戦争の前にも残虐行為がなかったとはいわないが、これだけ集中し、これだけひどいものはなかった。

一つの理由はこうである。過去の戦争はみじかった。そしてツキジデスがまさに我々につたえようとしたことだが、戦いがながびけばそれだけ、残酷さをまし文明をたもつ基準がよりひくくなる。もし戦いを評価する文明度があり、それにはんするひどい戦いの方法があるとするならばという意味である。

これは二千四百年も前におわった戦争だが今日も読者を魅了しつづけてる。私はペロポネソス戦争と題する本をかいた。五万部もうれ、本当におどろいた。出版社もおどろいた。しかし私はおどろくべきでなかったとおもう。というのはたぶん百年ものあいだ人々はツキジデスとその歴史について研究してきた。あるいは研究してなくともそれについてきいてきた。すぐれた学者により参考文献がつくられた。マーシャル将軍は有名な引用集において引用した。彼が国務省長官であった時だった。人々はこれにつき話しつづけた。私はこれは親近感というより好奇心からくるとおもう。これは一体なんだろうかというものである。しかしツキジデスとペロポネソス戦争については、士官学校(military academy)でおしえてる。国際関係論のなかでもおしえてるだろう。中国の聖人、孫子(Sun-tzu)の兵法とともに最初の教科書でまなぶものである。古典のなかでよくよむものである。

しかし私がもとめるものはそうでなく、確信でき、学者によって支持されるものである。古典主義者(classicist)によってではない。それはかわらない意味、価値をもつ。我々がツキジデスの歴史からまなぶことができるものである。私はあなた方が文献をよむ負担を軽減したい。あなた方の時間を無用にうばうことのないようにしたい。それがこれからやることである。

あなた方がいろんな現象をしりたいだろうが。私は戦争の起源、戦争の原因、戦争の勃発の疑問についてかんがえたい。ツキジデスはこれらに非常に興味をもち、その説明にすぐれてるとおもう。それにかわるものがなく、さらにこの時代にぴったりと対応してないからである。ツキジデスの最初の本はこの主題に、すなわち戦争がどのようにおき、何故おきたかを取りあげている。これは極めて興味ぶかく、重要なものである。というのは歴史の事実、すなわち文明化された人類の歴史のほとんどが戦争の歴史であるという事実に我々が直面すべきであるからである。

* 戦争がおきる理由
人類の社会は戦争をたたかうために組織化されるといってよい。だが二十一世紀の時代にこれはわるい結論であるというべきである。現在、戦争は過去において積極的な機能がみとめられ、種々の理由から時にはほめたたえられたかもしれないが、それがすばらしいというには、あまりにもうしなうものがおおきい。話しをすすめよう。

戦争が何故おきたか、それらがどのようにさけられるのかという問題は私には重要である。ツキジデスはこれをかんがえるうえであじわうべき材料をあたえてくれる。さて彼は事実をしらべ第一の書で真実の原因、真実の説明をおこない、結論をまとめてる。その引用である。「真実の説明は、もっとも推奨されてないものだが、私はアテネが成長し偉大さにたっした時に、スパルタ人(Lacedaemon)は恐怖をかんじ彼らを戦争に追いやった。

学者により多少のちがいがあるが、次の点はほぼおなじである。彼はいう。この戦争はある時点で不可避となった。それはアテネ帝国、アテネの偉大さだが、それが拡大し、スパルタに警戒心を引きおこした。アテネの拡大を阻止するために戦争をはじめようとする時点である。私がここまでにいったことに批判や不同意、論爭をしてもらってよい。だが私がのべたことは独自あるいは私しかもたない見解ではない。次の点が重要と指摘したい。ツキジデスは戦争が勃発して紀元前四百三十一年におきたことをしらべて前述の見解をしめしたのでない。その根拠は彼が真実と主張してる事実、それにくわえ急激に戦争においやる理由と我々がかんがえてる出来事に焦点をあて、あまり真実といえないとして拒否してるからである。

* ツキジデスの考え
彼は戦争の説明をペルシア戦争のおわりの事実、デリアン同盟の形成を重要とかんがえてるところだが、説明はそこまでさかのぼる。これはアテネ帝国が出現しはじめた頃である。これが一つの転換点だが、さらにアテネとスパルタのあいだに不信感がうまれた時期にまでさかのぼるのである。これがギリシャ世界における重大な分断をもたらした。あきらかに疑いはおそれを生みだすものだからである。次に第二の点にふれる。アテネの勢力の拡大とスパルタにおける男女差別のおそれをツキジデスがかたってる。私が素晴しいとおもう点は、何故かを説明してるツキジデスの洞察力である。それが大学院レベルの国際関係論でおしえられる点よりすぐれてること。彼が人間の感情、情動をかたってる点である。

あなたが大学教授となるのに必要な構造についてかたってない。それは説得力にとむ。彼は構造について興味をしめしているが、問題を取りあげる最初の手順である。それは重要とおもってるが、何故、国は戦争をするのかを説明する段階になると、そこにいる人々の感情についてしらべる。我々はすでに彼がかたったいくつかの点について彼の説明から材料をえてはなした。私はデリアン同盟のはじまりとアテネ帝国への転換についてはなしたが、セイソスの反乱にいたるところまでははなしてない。

* アテネの野望、セイソスの反乱
そこではアテネ人が従来より攻撃的に振るまったことをしることができる。これをまだはなしてなかったのは、次のような文脈があるのでのこしておいたのである。ツキジデスはいう。紀元前四百六十五年、セイソスがアテネに反乱をおこした時に、彼らは最初にスパルタにゆき、もし我々がアテネに反乱をおこしたら、あなた方はアティカ(attica)に侵攻するかたずねてる。外交を担当するところの長老会議(ephors)にたいしきくとは然りとこたえたという。しかし彼らはそうしなかった。というのは彼らが実行しようとした時に大地震がおきてそれができなくなったからである。これらのやりとり、セイソスとスパルタのあいだを行きかったやりとりは秘密であった。

この時点でアテネはこの会話をしらなかったとおもう。というのはもしきいてたならば彼らが四千の重装歩兵をスパルタにおくらなかったはずである。それは奴隷の反乱を抑止するためスパルタをたすけるものだった。これから我々はツキジデスの状況理解の正しさをみとめざるをえない。

これで状況がわかる。スパルタがアテネにもってる不信感、それへの彼らの振る舞いがわかったはずである。これがアテネ人のつよい怒りを引きおこし、それが国内的な革命をよぶ。キーマン一派はエフィオルテスやペリクリースの一派、より急進的な民主主義者の一派にかわったという状況である。さらに外交上の革命、アテネがスパルタが主導するギリシャ同盟からの離脱がおきたのである。

そしてスパルタの宿敵、アーゴス(Argos)とはじめて同盟をむすんだ。次に、テッサリとも、アテネは彼らに将来の戦いにそなえ騎馬兵の提供を期待してるのである。これが両勢力のあいだの最初の紛争の転換点である。その深刻さから現代の歴史家は第一次ペロポネソス戦争のはじまりという。この戦いの結末におきたもう一つの点がある。

* 奴隷の反乱
この場面からアテネは退場するが最終的にスパルタが奴隷のことをどう処理したか。彼らは奴隷を抑止すること、イソーミ(Ithome)山の砦から引きおろすことができなかった。なので次のような取引をした。安全な下山とペロポネソス以外の別のところへの移動を保証する。彼らはあきあらかに奴隷たちが各所に散在することを期待してた。一定の一所への移動はないとかんがえた。どうなったか。アテネがうごいてある場所を確保した。どんな手段によるかはわからないが、コリンス湾の沿岸、ノーパクティス(Naupactus)である。これは良港をもち海軍の基地として好適である。コリンス湾を制約する位置にある。アテネがペロポネソスをにげた奴隷たちにあたえたものである。

これはスパルタの頭になかった。交渉でそのような事態をふせぐ手段を事前にとらなかった。アテネがスパルタにやった有害行為である。コリンス湾の仇敵と同盟国を困難に落しいれるものである。これで翌日にはがらりと状況がかわり別の世界となった。私はこれでスパルタ側とアテネ側のあいだの平和は消滅寸前となったとおもう。これで両方の協力の可能性はなくなった。アテネ側はスパルタ側と敵対した。アテネは奴隷たちを戦略重要地点においた。これは良好な関係を作りあげる方法でない。まさに一触即発の状況となった。人々はこれを戦争をはじめるきっかけにする。時にはそうでないが、この時はそうである。後でわかるが、この出来事の後ではアテネとスパルタのあいだが爆発するのにおおくはいらない。花火がスパルタ側のペロポネソスにある二つの国、メガラ(Megara)、コリンス(Corinth)のあいだにうまれた。これらはイスミス(Isthmus)で隣接する国だった。ここから北部ギリシャにむかったり、アテネにむかう場所である。両方ともスパルタ陣営だから、どちらよりの立場をとるか問題となる。

* メガラとコリンスの紛争
すぐに選択をせまられた。とゆうのはコリンスは論爭を優位にすすめ、どうやら戦争になっても優勢のようだった。なのでコリンスはメガラに攻撃を仕かけた。メガラはスパルタにやってきて助けをもとめ、戦いを有利にしたいといった。スパルタは否、我々は干渉しない。あなたの問題だが我々の問題ではないといった。興味ぶかいことだが我々はこれに何がいえるのかわからない。両者は自治権をもつ。理論にもとづきお互いにたたかうときめた時に、スパルタにどのような義務がうまれるか。ほとんどいえない。というのは条約上の違反があると誰もいってない。スパルタはこの出来事を無視する権利がある。

スパルタは数百年、それ以上、同盟国同士の紛争を無視してきたにちがいない。そうかんがえるべきである。戦いはすすみ、やがておさまる。紛争国のもとめるようにである。紛争に関与してスパルタがどちらかに勝ちをあたえるなどやらない。傍観者としての態度が好都合とおもう。これは次のことからいえる。まだスパルタは地震やその後の奴隷の反乱の影響から充分に回復してない。さらに混乱を持ちこみたくない。スパルタが過去にこのような傍観者的態度をとれたのは彼らがギリシャ世界で惟一の巨大国だったことによる。しかし紀元前四百六十一年は事情がちがう。助けをえられなかったメガラはアテネにゆくことができ、そうした。コリンスとの戦いで助けがほしいといった。たすけてもらえるなら、我々はペロポネソス同盟を離脱する。アテネ側につく。これは状況があたらしくなったからである。

これは、冷戦をしってる人々にとり、その類似性におどらくところである。そこでは北大西洋条約機構(NATO)とソビエトとワルシャワ条約機構(Warsaw Pact)のあいだに紛争があった。だが、そこには戦争を呼びおこす、あるいは戦闘を呼びおこすようなものはなかった。ところがアフリカだが、彼らは一つの陣営にゆきいう。援助してほしい。もしだめなら、もう一つの陣営にゆく。これは両陣営のあいだに深刻な紛争を引きおこす。我々はある国に損害をあたえたいわけでない。だがロシア人がその国に被害をあたえることをのぞまない。またその反対もおなじだ。

これはこのような状況でみることができる問題である。これでアテネは極めて困難な決断をせまられる。これがどれほどのものか私はあなた方につたえたい。すぐ予想できる反応はこれである。何故、我々がペロポネソスからの離脱者を受けいれねばならないのか。というのは、これはスパルタの怒りをよびペロポネソスとの戦争を呼びこみかねない。これは重大事である。我々はメガラとコリンスの争いにどんな気遣いができるか。もう一方の考えは次のようだ。否、我々はメガラとコリンスの争いに立ちいらない。だがメガラは我々の側にくる気持がある。もしメガラを支配できれば、我々の側につくなら、彼らはイスミスのアテネ側に所在してるのだ。

* アテネの地政学的勝利
さらにであるが、山岳がメガラをはしってる。もしここで軍隊が妨害してきたらその侵入は非常に困難となる。つまりメガラの協力はスパルタのアテネ侵入を困難とし、さらにそこをぬけて北部への進出も困難にするだろう。もっとはっきりいうと、メガラを支配すればアテネはスパルタの侵入にまったく安全となる。

彼らはこの申し出をうけたら、スパルタと戦争になるとかんがえてたろう。しかし、おおくのアテネ人が戦いはどのみちおきるとおもってた。我々がかんがえるべき問題はこうである。戦いに有利な条件をもつがスパルタと戦争をするのか。あるいは、それがない従来の状況でスパルタに対抗し、結局、侵攻をゆるし、山野の破壊をゆるすのか、とゆうことである。これは結局、敗北である。

というのは、アテネはまだアテネとパイリアスをむすぶ通廊の壁をまだ建設してなかった。これではスパルタはアテネに侵入しその港との連絡を遮断できる。アテネは必要な食糧を供給できない。つまりこのようなことを当時のアテネ人がかんがえたことだろう。ここで決断をするなら、決定的なのは将来がどのようになるかの予測である。あなたがもしスパルタとの戦争がないとみるなら、強硬策をつづける。しかしスパルタとの戦争の危険性があるなら何故、スパルタにたいする脆弱性を放置しておくのか。どちらをとるにせよ、一方に危険性があり他方に不確実性がある。こんな時に私は単純にいう。現実の世界、うつくしい世界に向きあいなさい。そうすれば決断がいかに困難なのかがわかる。

アテネの決断はこうである。メガラをアテネの同盟に引きいれる。それによりうまれる危険性を覚悟する。その対処のためにメガラとサロン湾(Saronic Gulf)にある港、ニセア(Nicea)のあいだに壁でまもられた連絡路をつくった。これはアテネの沿岸につづき、都市、ペガイ(Pegai)を支配下におく。ペガイはイスミスの北側にあったとおもう。そこを要塞化し兵力をおく。言いかえるとアティカに侵攻しようとするスパルタに障壁をきづくことである。この政策はおおきな成果となる。だが痛みをともなう。ツキジデスがこういってる。
(3の1、おわり)

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