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ケーガンギ歴、アテネの民主主義(15、3の1)


* 関連年表
479 プラティアとマイカリの戦い
469 ユーリマダンの戦い
465 セイソスの反乱
462-1 キーマンの陶片追放
440-39 セイモスが独立をうしなう

* ペルシア帝国の脅威
これからアテネ帝国の発展についてはなす。それはデリアン同盟が発足しその性格か変化し、帝国にいたったものである。紀元前四六九年といわれるがユーリマダンの戦いでペルシアを陸と海でやぶった。これでペルシア帝国の脅威はおわったのでないかとの感覚がうまれた。そこでデリアン同盟にとどまり、拠出金をだすことを躊躇する気分がうまれた。アテネはその指導的地位をすてるつもりはない。ペルシアへの攻撃をやめるつもりもなかった。同盟国がはなれようとする動きをアテネは黙認するつもりもなかった。

* セイソスで鉱山をあらそう
同盟の性格をかえたもう一つのことだが、紀元前四六五年、エーゲ海の北、セイソス(Thasos)島で反乱がおきた。これは同盟員の義務とか拠出金支払いの問題でなかった。アテネとセイソス、両者の紛争だった。その島のむかいの本土に鉱山があった。非常に品位のたかい金と銀を産出した。パンジアン(Pangaean)山の鉱山である。両国はその所有権を主張した。

* セイソスの反乱
アテネはストライモン川(Strymon river)の上流に植民都市を建設した。そこは九つの道地方(ennea-hodoi)とよばれるところで、後年にアテネはアンフィポリス(Amphipolis)という植民都市をつくったところである。アテネ人はそこに移住して影響力がひろがった。問題がうまれ、セイソスは反乱をおこした。アテネは城攻めをかけた。比較的におおきな島であり、セイソス人は頑強に抵抗した。およそ二年をかけた。極めて長期の城攻めだった。いつものアテネ人の戦いかたではなかった。

* 降服、アテネの権益獲得
だがセイソスは降服した。アテネは通常の扱いをした。反乱をおこした都市にたいし壁をこわさせ艦船を引きわたさせる。当然、アテネは鉱山をうばい、賠償金をとった。戦争にかかった費用をはらわせ、今後、も同額の貢納金の支払いをめいじた。そして従属国とした。この処置は最初でないが違いがあった。この争いはあきらかにデリアン同盟にまったく関係がなかった。アテネが同盟の資金をつかい、アテネのためにその力をつかった。ただアテネのためにのみおこなった。言いかえれば、この鉱山をアテネがもってもセイソスがもっても、どちらでも同盟に利益をもたらすものでなかった。アテネは同盟の指導者の地位を利用し、自分自身の利益を獲得したのである。これは極めて重要な転換点である。後年のギリシャ本土でおきる出来事とあわせかんがえると、デリアン同盟の性格をかえる重要な転換点とかんがえる。

* ダイオドロスの批判
古代の歴史家もいってる。二つの代表的な意見である。ツキジデスとシシリー(Sicily)のダイオドロス(Diodorus)である。現代の歴史家の意見もよい。自然な連合体が共通の目標を追及していくうちに、どうして連合体が帝国に変化したのか、かんがえるのに参考となる。ダイオドロスの意見である。概して、アテネ人はおおいに力をつけて、もはや同盟国をかってのように品位をもってあつかわなくなった。今や傲慢と暴力であつかってる。このためほとんどの同盟国はこの粗野さにたえられなくなった。そして互いに反乱をかたりはじめてる。なかには同盟の会議(coucil)を軽蔑し、自分たちのやりたいようにしてる。アテネの変節をかたり、その行動を非難してる。それは専政主のやりかたと指摘してる。

* ツキジデスの批判
ツキジデスのはちがう。反乱にいたる原因がいろいろだが、貢納金をはらわず、艦船の割り当てにこたえないからである。またある場合は、軍役にこたえない。アテネは貢納金の支払いにきびしく、軍役の拒否にも強硬である。ある場合指導者としての責任から時には一部にきびしい措置をとる。外征への同盟側からの参加は均等でない。彼らは反乱をおこした人々の数を簡単にへらす。ここがツキジデスがダイオドロスとちがってるところである。

これらのことから、ほとんどの場合、同盟都市に責任がある。軍役を忌避する。家をはなれないですむよう艦船の拠出をさけ拠出金の増額ですまそうとする。その結果、アテネは資金をもとに艦船をふやす。他方、同盟側が反乱をかんがえても、準備、経験不足が露呈する。

ツキジデスがダイオドロスとおなじことをいってる。アテネが他の同盟国をあつかうやりかたについて高圧的な姿勢があることをみとめている。しかし彼はいう。同盟国側がやっておかなければならないことがある。これはダイオドロスが言及してない。彼らは要求をうけて、もうできない。艦船を提供し軍役にこたえることげきない。そうだが、自分たちはそれと同等の資金を提供するとつたえる。するとアテネは艦船をつくり、アテネ人の漕ぎ手をつかう。資金を艦船や漕ぎ手の費用にあてる。これで同盟国の軍はちいさくなり、アテネの艦隊はおおきくなる。だからツキジデスは、これは彼ら自身の問題であるという。かくしてアテネの帝国化がすすむとゆうわけである。

* 評価のまとめ
私は両者の言い分が相互に矛盾してるというべきでないとおもう。彼らはおなじことをちがった側面からいってる。ある点をアテネの立場から、あるいは同盟の立場から強調しているのである。それはともかく、五世紀のおわりに、ペロポネソス戦争がはじまる時だが、百五十の同盟国のうちたった三つが艦船をもつ。これがそのあいだにおきたことである。つまり実質的な自治がここまでへったとゆうことでもあるが、レスボス、セイモス、キオスの島々である。否、二つ。紀元前四四〇から四三九年、セイモスが独立をうしなってる。

* 同盟のおわり帝国のはじまり
同盟がおわり帝国がはじまる状況の話しである。アテネなど本土に目をうつす。ペルシア戦争がおわるまで外部から脅威がせまった時にスパルタは間違いなくギリシャの指導者だった。ペルシア戦争がおわった時、すくなくとも アテネが 対等者として登場してきた。スパルタの追随者でなく独立して行動できる都市としての登場である。次の五十年(BC469年、ユーリマダンの戦いからBC419年)だが、両者が競争する時代となった。誰が指導者となるのか、おおくの衝突がおきる。

* セミストクレスの登場
紀元前四七九年、セミストクレスが有力なな政治家としてアテネに登場してきた。彼はサラミス海戦に勝利し、その立役者となった。こんなことはよくある。第二次大戦後のウィンストン・チャーチルだが、終戦にさいして、彼は勝利の立役者となった。ところが最初の選挙で彼はほうりだされた。民主主義には常に選挙の洗礼がある。セミストクレスにはこうならなかった。だが彼にも問題があった。

* セミストクレスの追いおとし
彼はアテネの政治において一匹狼(maverlick)であった。彼は家系から貴族であったが、貴族社会の中心にいるような人物でなかった。他の政治家とのあいだで問題をおこす人柄だった。彼は勝利によりえた栄光をあえてかくそうとはしなかった。彼がやったことを思いだしてほしい。マラソンの戦いがおわり、サラミスがはじまるまえに、銀山の発見を奇貨として、議会を説得しアテネの生存戦略をたて、艦隊を創設した。だが私の歴史の記録の解釈がただしかったら、彼は陶片追放(ostracism)という政治手法をつかって対抗する政治家をことごとく追放した。八十年代の有力な政治家はセミストクレスをのぞいてすべてが追放された。だがペルシアがやってきて戦いはじまり彼らは本国に呼びもどされ、戦いで役割をはたした。戦争がおわった時、彼らと彼の間柄はよいものでなかった。セミストクレスはここで大立者だった。彼らは将来に不安をかんじてたろう。私はここでアテネの政治の世界で有力者のあいだに、何かしら取り決めがおこなわれたとかんがえる。彼らは結束してセミストクレスの追いおとしをはかったのだろう。

* キーマンの登場
デリアン同盟初期の作戦行動において、当然、アテネの指揮官が指揮する。だがそこにセミストクレスの名前はない。指揮官に指名されるには政治的力が必要だがそれをうしなってた。とってかわったのは若干わかいキーマン(Cimon)であった。彼は貴族で、その父はマラソンの立役者、ミルタイアディ(Miltiades)である。マラソン勝利の立役者である。しかし彼は非難決議をうけ死刑にしょせられた。莫大な負債をのこししんだ。キーマンは返済したが、彼はペルシア戦争において活躍した。デリアン同盟の作戦においては、すばらしい戦果をあげた。ユーリマダン(Eurymedon)の戦いの指揮もとった。キーマンは戦いに連戦連勝し極めて裕福となった。その活躍で彼は大衆の人気者となった。

* キーマンの人柄
ただし彼は貴族であり下層市民の人気をえようとしたことはない。スパルタの支持者であり友人であった。またスパルタの徳をほめ、その政治体制を評価した。アテネはそこからまなぶところがあるといった。このような人柄の彼が何故、連続して将軍にえらばれたのかとおもうが、その人柄にあったのだろう。ペルシアのいろんな所に外征し成功をおさめ、おおくの戦利品をえた。それらの一定部分は軍のなかで分配される。そこに参加した兵たちは利益をえた。だからその指揮官は人気がでる。ところで彼は民主政治のなかで特別な技術をもってた。ここで米国大統領だったアイゼンハワー(Eisenhower)のことをはなす。

* アイゼンハワーとの類似
彼は第二次世界大戦のヨーロッパ戦線において勝利し、終戦後に政治家に転身した。彼は人気者となる特質をもってた。ささいなことだが、人々は彼の笑顔をこのんだ。そこで彼にかてる政治家はいなくなった。キーマンもこのようなところがあったのだろう。彼の立場は非常に保守的だった。ともあれ彼は十七年間のながきにわたり有力な政治家としてアテネを支配した。紀元前四七九年の勝利から政治の世界を駆けあがり紀元前四六二年にいたる。アテネの政治の世界では異例の長期である。将軍はアテネの政治においては有力者である。将軍は毎年選挙でえらばれる。彼の根づよい人気がどれほどかこれからわかる。

* キーマンの対外政策
彼の対外政策として、親スパルタ政策は重要である。もしセミストクレスがやってたら、間違いなくちがってた。彼は反スパルタであることは、スパルタに仕かけた策略からあきらかである。スパルタからの独立をはかり、その結果、関係は敵対したものとなった。反対にキーマンはスパルタの公式の代表をつとめた。彼はスパルタとながい家族同士の関係があった。彼がスパルタの徳についかたったのはすでにのべた。彼は常に両者が同盟関係にあり、 対等の協力関係にある。たとえばスパルタがプラティアの陸戦で指揮し勝利し、アテネがサラミスの海戦において指揮し勝利した関係のような関係である。これでペルシアの脅威に対抗し、繁栄するとゆうものである。

これは部分的には成功した。スパルタがエーゲ海に進出することにかならずしも反対しない。アテネはデリアン同盟の指導者の立場から帝国主義者としてどんどん力をつけてきた。ところが初期においてスパルタはそのようなことはしなかった。何故だろう。私はキーマンが関係するとおもう。キーマンがアテネの政治で有力者だった。彼らはキーマンを信頼してた。彼がその地位をもってるかぎりアテネはスパルタの脅威とならない。だから両者はよい関係をたもてたのだろう。十七年ものあいだ平和がつづいた。もし彼がいなければアテネ社会の発展はつづかなかったろう。アテネの諸問題を制御する力に彼の人柄と説得力がかかわる。それはおどろくべきこととおもう。

* キーマンの民主主義
マラソンの勝利は重装歩兵による。それは農民、中層とそれ以上の階層、彼らの勝利である。サラミスの勝利は、アテネの貧民層。彼らが三段櫂船をこぎ勝利した。彼らが原動力であった。勝利のあとに艦隊がアテネの力の基盤となった。それをささえるのがこの貧民層だった。もしセミストクレスが政治で活躍したら、さらに民主化をすすめる動きがでたとおもう。クライストニスの民主主義は重装歩兵による民主主義だった。これはおおくの活動から貧民層を排除してた。キーマンはこれに賛同しなかったがけっしてアテネの民主化を促進もしなかった。それと敵対したわけでないが、それを今あるがままにとどめておいた。

実際のところ、ある部分では後退した。アリストートルは紀元前四七九年から紀元前四六二年の時期の政体(constitution)についてアリオパジャイテス(Ariopagites)の政体(constitution)とよんでる。それはふるい貴族的合議体(coucil)、以前の行政の上層部からなるのだが、これが非公式だが実体のある力をもってた。これがどんなものか、把握は困難だったが、いくつかの重要な点がわかってきた。アリオパガス(Areopagus)がある種の監視を行政にするという権限を回復したということである。かっての貴族政治の時代にアリオパジャイテスがある種の権能をもってた。行政を監視し、評価し、必要な措置をとるとゆうものである。クライストニスの政体が確立し、そのしたに五百人の合議体が存続してるのだが、対外政策についてすこしずつアリオパガスの力がましてきた。

* キーマンの対外政治
アリオパガスは外交政策をきめるが、それが必要とかんがえると議会に動議をだす。彼らは五百人委員会(council)の権力をある種、うばってる。しかし私は、法律にはこれをみとめるような変化はないから、ちがうと言いつづけてる。彼らはできるとおもってることをやる。それを人々が受けいれただけである。アリストートルがこういってる。彼らはペルシアがアティカに侵入した時に英雄的役割をはたしたといってる。この時、貧民はサラミスやペロポネソスに避難しなければならなかった。アリオパジャイテスは彼らの資金をつかって貧民の生活をたすけた。これは彼らの自発的行動である。その寛大さ、愛国心、善意。これがアリオパジャイテスの政体の発展を可能にした。そのことがキーマンの二元政策にあらわれてたのだろう。保守的で温和な民主主義である。

保守性、貧民が政治的発言をたかめることを可能とする環境の変化をみとめようとはしない。またその保守性は全ギリシャの国際関係における二元性に対抗しようとしない。それはペルシア戦争のなかであらわれてきたものである。それにアテネがしたがうことで、おおきな成功をえたものである。キーマンがその政治家として活動した後期においてやったことである。その時、彼は最高責任者だったのだ。

その時もは十人いる将軍の一人にすぎなかった。これを私はずっといっていたが、つまり毎年、選挙でえらばれねばならなかったのだ。彼の影響力は非公式のものである。法律にさだめられたものでない。彼がそうかんがえた時に人々にそうするようもとめ、けっして強制しない。彼が基調をさだめ、人々がそれにしたがったのである。それから一世紀後、ローマの世界のこと、アウグストゥス(Augustus)は最高責任者になった。その時の話しである。

(3の1おわり)

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