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ケーガンギ歴、ペロポネソス戦争(17、3の3)



* ペリクリースの登場
彼は議会を説得し、彼がやりたいことを実現する。それをほとんど成功させる能力以外に何も変更はなかった。彼はまもなく重要な問題にぶつかるが、それは後述する。紀元前四四九年の戦争の話しをつづける。紀元前四四九年、和平の交渉があった二年後にスパルタはフォシス(Phocis)の都市国家フォシスを攻撃した。ふたたび中部ギリシャのことである。そこまで、どのように進軍していったのかはわからない。だがデルファイの神託への支配を取りもどした。隣国のフォシスの人々から取りもどした。彼らは長年にわたりデルファイの神託への支配をその神官たちからうばおうとたびたびこころみてた。

スパルタがたたかったのはこの神官のためだった。フォシスをやぶり、本国にかえった。二年後の紀元前四四七年、アテネは陸軍をそこに派遣した。アテネはフォシスと同盟をむすび、デルファイの神託を取りもどし、フォシスにわたした。これは和平がうまく機能してない証拠である。両者は将来にわたり平和裏に共存する方法を見つけてない。紀元前四四六年、一連の動きがあった。それは一時的にせよあったギリシャ世界の平和と均衡をみだすものだった。

* ビオーシャの寡頭政治の復活
まず、ビオーシャの寡頭政治政府の反乱があいついだ。彼らはアテネに同調する民主主義政府を追いだした。突然、ビオーシャは敵対地域、もはや友好地域でなくなった。アテネにとり問題のある場所となった。アテネではどうするべきか議論が巻きおこった。ペリクリースはいう。何もしない。アテネは強力な相手に地上作戦をおこなう力がない。やってみても、ビオーシャを維持することができない。ビオーシャの思惑でうごくにまかせるという。それに対抗する将軍がいた。アテネの将軍である。おどろくのは彼の名前である。アテネの歴史に突然登場する。小説にでも登場するような名前、人々がしると笑いだすようなものである。トーメディズ(Tolmades)、これはギリシャ語のtolmao、禿ると蛮勇をふるうの意味である。彼はビオーシャに進軍しアテネのために土地をうばいかえした。言いかえると彼はこの問題についてはペリクリースとの論爭にかったのである。当然だが彼が議会の承認なしでこんなことを実行できるはずがないからである。しかしアテネ人は正気をうしなったのだろう。そこにいってビオーシャをやぶり、その土地をうばいかえそうといった。トーメディズはとんでもない敗北をきっし、甚大な犠牲者をだした。ビオーシャはこれきりもどってこなかった。

ところで、トーメディズがころされた戦いはコロニア(Coronea)である。アテは中部ギリシャから追いだされた。私がえがいた栄光にみちた絵は敵対する北部の軍隊によりよごされた。おきたことはこれだけでない。アテネで問題がおき、弱体化した。脆弱化し、敗戦の危機もあらわれた。突然、ちまたにいた不幸な連中がこの機会にとびついた。

* ユビアの反乱
アティカの東にあるユビアの島で反乱がおきた。これはペリクリースの観点からもでも致命的であった。彼は帝国における島の反乱を放置できない。海における支配をおびやかす。彼はその独立をゆるさないというのでなく、帝国において反乱を成功させることができない。といのは、それが他の反乱をよび、拡大してゆくという意味である。

彼らはエジプト敗戦後に反乱の気運がたかまるなか、戦いをとうして道を切りひらかねばならなかった。ペリクリースは自ら軍を引きい、艦船にのりユビアにゆき、屈服させた。彼がユビアにいっているあいだに、すでにのべたがビオーシャの敵対気運がたかまり、メガラで反乱がおきた。この同盟は常に非常にあやふやなものだった。過去の二つのことを指摘する。両者は数百年のあいだ、きびしい敵対関係にあった。つまりその同盟は不自然である。時の勢いでむすばれた合意である。メガラのなかにはこれに反対する多数の人々がいる。機会をうかがい彼らはうごく。もう一つの点である。アテネはまとまってない。彼らの軍が別のところにいる。

* メガラの反乱の動き
ペリクリースは非常に危険な事態とおもった。もしメガラの反乱が成功したなら、彼らはスパルタの侵入から防禦がなくなる。そう予測して当然であり、実際のそうおきた。ペリクリースはユビアの反乱をおさめた後に、ただちにアテネにもどり、侵入してきたペロポネソスを向かえうった。これはアティカの北の平野であった。

スパルタが侵攻した。ペリクリースはアテネの陸軍を引きいた。これはアテネが敗北する場面である。というのはペロポネソス側は数でまさってるだろう。彼らの軍の優秀さがここで発揮されるだろう。だが我々はここで簡単な勝ちをみることはないだろう。アテネはそれがもつたかい戦闘能力をみせたようだ。彼らは勝ちをおさめたのではない。

* 睨み合いから暫定和平
両者は向いあった。まさに戦いがおきようとしてた。突然、スパルタ軍から使節がやってきた。ペリクリースが彼らをむかえた。すこし対話があった。両者はそれぞれの軍にもどった。スパルタを引きいてたのは、王、プライスタイアニクス(pleistoanax)であった。彼はペリクリースと信頼関係のある人物だった。彼は軍をひいてスパルタにもどった。彼らは恒久的な和平を実現するための四ヶ月の和平に合意したとあきらかにした。ここでは何がおきようとしてるのか。スパルタは複雑な経路からこの知らせをうけた。最初の反応はプライスタイアニクスへの怒りだった。何故、アテネ人を殴りつけ徹底的にやっつけなかったのか。最終的には彼や顧問たちの処分がきまった。彼らを追放した。この好機をのがした彼らにたいする怒りだった。

でも結局、またアティカに侵攻したのである。アテネとたたかい、あるいは田畑や家屋を破壊、略奪する。すくなくともアテネ人を不幸にし外にでてたたかわせる。何故彼らはやらなかったのか。たしかにやらなかった。二つの根拠がある。プライスタイアニクスは非常に特別な機会をうしなった。

その時はアテネのすべての前線がばらばらになりそうだった。それがまさに戦いがもとめられてた時である。他方、スパルタはおさえられていた。ユビアは静かになった。アテネはすべてを整理してた。しかし私が最初にいってたことは真実だった。もしその気になればやってきて戦いに持ちこむことができた。だが何故たたかわなかったか。私はペリクリースがプライスタイアニクスにあることが真実であるとみとめさせたからとおもう。

スパルタが冷静になった時に何をするのが合理的とスパルタ人がかんがえたからである。では、もしたたかえば何がおきたか。我々はすこし前にたたかった。そこの何が彼らにおきたのか。あなた(スパルタ)は我々をまかした、だが徹底的でなかった。あなたは戦いでおおくをころした。だがそれを利用して自分の有利につかわなかった。それは、当時の状況よりさらに今日の状況で成立してる真実である。それは、もしあなたが我々をまかすと我々は何をするか、それから真実とわかる。我々は我々の壁にもどる。門からなかにはいる。あなたは我々をくるしませることができない。もし我々がそうおもうなら、たたかわないですませる。それは我々が海上を支配する艦船をもっているからである。我々は同盟国から資金をえてる。それが艦船につかえる。我々が海の支配を維持するかぎり、我々の田畑を略奪しても我々は輸入により必要な穀物を入手できる。

ではあなたはどうするか。あなたは無駄に戦死者をだす。それでもあなたは我々を望みの方向にもってゆけない。この議論をペリクリースがプライスタイアニクスとやったことはないだろう。プライスタイアニクスのやったことをみると戦争をやりたがる人物でない。むしろ機会があればよろこんで戦争をさける。スパルタの軍はそれをできたのに、やらなかった。私はこの考えが彼らには現実感をあたえ、説得力をもったとおもう。それで、四ヶ月の和平が成立した。

* 三十年和平の協定
アテネとスパルタががそれぞれの同盟を代表し交渉にはいった。そして三十年間の和平の協定が締結された。紀元前四四六年から四四五年の冬のことである。和平の条件は、アテネがエーゲ海の外の陸におけるすべての奪取してた土地を放棄する。ただしノーパクティスは例外で奴隷たちにのこす。

一言でいうと誰も公式にみとめないが、アテネが決定した国をアテネの同盟にふくめる。それをスパルタがみとめた。またアテネ帝国を正当なものとみとめたことを意味する。また将来の戦争を防止するためにあたらしい規則をさだめた。ほとんどの協定がそうであるように未来の戦争を防止しようとした。この戦争がどのようにはじまったかを振りかえり再度発生しないよう配慮した。たとえば、この戦争は同盟を変更することからはじまったので、この協定では禁止した。ではこんなことをかんがえる人がいるにちがいない。中立国が一つの側からもう一つにかわったらどうする。さらにこの国が戦略的に重要だったら。これは和平にとって問題にならないたろうか。

* 協定、のこった中立国問題
彼らはそうならないと結論した。というのはどちらの側に参加するのも自由だといった。彼らは問題とかんがえなかった。というのは中立国はどちらに参加するのも自由としたからである。言いかえると、もし中立国が一つの側に参加すると、誰もそれを了承といえない。それは戦争の理由となる。というのはそうならないといえないからである。最後にもっとも気になること、独創的、まったく例をみない独創的な考えがでた。歴史上、かったなかったものである。それは協定の条項である。将来、両方に意見の相違、相手方への不満がうまれた場合の条項である。

この案件は裁定者に申しでて決定しなければならいというものである。ここで注意するうが、これは、ではもう一度話しあおうというよううな仲介者のことをいってない。それは権限と任務をもち、正誤の判定をする裁定者についてはなしてる。もし、この条件がまもられるなら論理的には両者の側に戦争はおきないといえる。これはおどろくべき考えである。私はこれは、何度もかんがえたが、証拠はないのだが、ペリクリースの考えとおもう。

というのは、私は普通でないこと、前例のないことすべてにはペリクリースがからんでるという意味である。彼はそういう考えをもつ人物である。発想がゆたかでふるくからの問題をあつかう、あたらしいやりかたを容易にみつける人物であるからである。私はこれは彼の考えであり、この方法が将来、戦争の危機がせまった時に意見の相違を調停することになる。それしかないとかんがえていたとおもう。この裁定による方法があって、紀元前四三一年にしめした彼の立場をよく説明することになるとおもう。これは非常に重要なことである。

私はスパルタがこの方法にどのようにかんじてたかしらない。あるいは彼らが将来どのようになるかしってたかをしらない。実のところ彼らはしらなかった。しかし彼らはこの協定に合意した。それが両方が誓約して三十年間、まもらねばならない協定であった。この三十年の協定、私はこれをツキジデスをしらべてその議論をもとに評価しなければならない。それについてはなす。

* 和平のいろいろ
すなわち、和平があった。いろいろとあった。それらはおなじものでない。私はあなた方のために三つの和平の種類をしめす。このどれにはいるかをしめす。第一次大戦、いやベルサイユ(Versailles)の平和、これは専門家からカルタゴ(Punic)の平和といわれる。彼らは第二次カルタゴ戦争でハンニバル(Hannibal)とむすんだ和平についてはなしてる。しかしカルタゴの都市がほろびた第三次カルタゴ戦争ではない。

そこではころされなかったカルタゴ人が追放された。田畑は破壊され潮をまかれた。そこでは何もそだたないとかんがえられた。これがカルタゴの和平である。その和平は、もはやその国とは戦争をすることはない。もはや何も存在しないからである。これが一つの極端な例である。もう一つの極端な例である。勝者側がきびしい和平を押しつけることができる。だがよりおだやかな和平をあたえる。それは相手側と将来の友好関係を希望してのことである。それは相手を信頼しておこなう。時には破壊をともなわない。

このような例がある。敗者側は弱体化させる。それは将来に問題がおきないといえるまでにおこなう。またこんな和平がある。ウェストフェリア(Westphalia)、欧州の三十年戦争がおわり一六四八年にむすばれたもの。そこでは誰もが敗者となってない。それとともに明確な勝者もいない。すべての者が戦争により予想もしない費用をついやし、もはやそれ以上の戦争をつづけられなくなった。妥協せざるをえなくなった。

この和平がつづくかはわからない。将来の状況の変化による。では、たぶん最悪といえる種類の和平がある。プロシア人(Prussians)が一八七〇年にフランス人に押しつけた平和である。普仏戦争の後に押しつけたもの。そこでの大問題はアルザス・ロレーヌ(Alsace-Lorraine)をフランスからうばい、ドイツに編入した。それと同時にフランスを二度と脅威とならないようにきびしくはあつかはなかった。しかし予想可能な将来、もしかしたら永遠かもしれないが、フランスがいかり、不満をもち、どうしてもアルザス・ロレーヌを取りもどそうとする、それは戦争にまでいたらないかもしれないが、それを予想できた。

ある程度、それは本当だった。だがもっともたしかな証拠は一九一四年までにフランスがアルザス・ロレーヌを放棄してた、また人々はそれがフランスが戦争にむかう理由となるといってた。だがそれは事実ではない。しかしまたそうしんじてたフランス人もいた。しかしバランスをとってそうならなかった。私がしるもっとも不満がのこった和平の例はベルサイユの和平である。それは第一次大戦をおわらせたものであるが。そこではドイツが非常にきびしくあつかわれた。彼らの意見ではそうである。だが、それはもっときびしいあつかいもあったが、拒否された。そうはいっても彼らはおおくの領土をうしなった。また制約をかけられた。しかし恒久的な損失をあたえる制約、ドイツが復興した時に、協定の決定をくつがえすことができない。これを確保するような制約はかせられなかった。

これはこんなひどい状況でもっあた。敗戦側は和平に完全に不満がのこり、それをやぶろうとする方向にむかえるほど強力であった。

* 三十年和平の評価
さて、こららの例では三十年の和平はどれに整合するか。もっともちかいのはウェストフェリアである。両方はどちらも満足しなかった。納得のいかない戦争、危険をもたらすもの。どちらの側も予測しないような危険をもたらすものである。またその時の軍はこの戦いをここでおわらせる利益があるとかんじてなかった。どれほどど利益がえられるかがが鍵だった。

これで和平は可能となるだろう。これでこれからのペロポネソス戦争は不可避でなくなる。学者はいまも議論してる。ツキジデスはどうか。彼はさけられたといったと私はおもう。おおくの学者もそうおもってる。幾人かの人々はちがうという。でもそれらは学者がそういってる考えを反映してる。私は否、さけられなかったとおもう。その理由であるが、これまであなた方にしめした事由による。これが重要であるが、客観的な状況が影響することが重要ではあるが、意図が重要とおもう。ここが歴史家と政治学者との見解がわかれるところである。

* 政治学者と歴史家の違い
政治学者は意図におもきをおかない。自動的というか、体系的にかんがえる。彼らはそのようにかんがえるのをこのむ。国同士はビリヤードの玉のようにぶつかる。その内面には立ちいらない。その内部は人々で構成されてない。党派で構成されてない。国々はそうならねばならないことをする。それは卓上のおかれた状況の必要のとおりにうごく。

歴史家は関係する人々がどうしたいとおもってたか、どうしたくないか、誰にはたらきかけようとしてたかをかんがえる。これをこのむ。これが正統な歴史家である。そんな歴史家を見つけるのはどんどんむずかしくなってるのであるが、あまりにもおおくの政治学者が歴史家のなかにかくれている。ここで鍵となる質問である。この和平がつづくのにこれら人的要素が関係するのか、これが鍵と私はおもう。ここでの演者はどうかんじてるのか。これがこれからおきることを彼らがどのようにみてるのか。和平をもとめてるとしてどうかんがえてるのかである。あるいは彼らは避けがたいとおもったのでただ現状を受けいれたのか。私は証拠からおもうのだが、条約を締結した人々は戦争より平和がよいという考えを受けいれてたとおもう。

そして彼らは戦争がおきるのをより困難とするのに努力しようとした。ペリクリースは、私はおもうが、紀元前四三一年になるとはっきるするが、そうしてたとおもう。だが、私はそれは平和を志向した党派だったとおもう。ではまた、スパルタでは保守的で、将来の戦争の可能性を拡大することに抵抗をしめす人々がいたとおもう。そして私はそれがスパルタの正常な党派であるとおもう。

これはすべて議論のいるところだが、スパルタの正常な状況だと私はおもう。もし和平をやぶろうとしたら、何かが、あるいは出来事、状況、恐怖、好機、これらが次々とおきて*和平をやぶる事態とならねばならない。では私は私の考えをはっきりとのべる。もう一つの戦争が必然である。ではそういう人は戦争が勃発し、和平がやぶられたという理由を明確にする責任がある。これが次にのべること。紀元前四四五年から四三一年の状況をしらべる。そこで和平に問題がうまれ最後に和平がやぶれる前の状況についてのべる。これが次回にのべることである。
(3の3、おわり)

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ケーガンギ歴、ペロポネソス戦争(17、3の2)



* コリンスのアテネへの憎悪
これでコリンスがアテネにけしがたい憎悪をもつ。そのはじまりである。というのはこの両者の関係をみる。するうとそこで彼らはかならずしも非友好的でなかった。現状を容認し問題なしとしたことがあった。しかしこれからはおおきな問題をかかえることとなったのである。

これはツキジデスの著作をよむことでわかるが、紀元前四三一年の戦争、これは大ペロポネソス戦争であるが、これを引きおこすのにコリンスが決定的役割をはたしたのであるといってる。これがアテネの決断がはらわねばならなかった一つの結果である。もしツキジデスの判断を大ペロポネソス戦争にあてはまると、またこの状況にあてはめると、非常にうまく適合するようにおもえる。彼はアテネの拡大してゆく力はスパルタのおそれを引きおこしたと、いった。それを強硬措置て増大させたと、彼はいった。アテネの力が拡大したことは間違いない。

アテネがメガラとむすんだ同盟により地政学的優位性を獲得した。これは突然、アテネを巨大なものにし、スパルタがおれるようになったのは間違いがない。究極的にアテネとの戦争を決意するほどの脅威となった。私は第一次ペロポネソス戦争についていうならツキジデスとおなじ意見である。私はこのことを問題にしてるわけでない。一つのおおきな疑問がある。大ペロポネソス戦争についてだが、これがあてはまるのか。彼の評価がこの戦いにあてはまるのか、である。私はまずあきらかにしておくが、ほとんどの学者は大ペロポネソス戦争のツキジデスの評価と解釈がただしいとみとめている。しかし私は同意しない。

彼は私とちがうところにいる。私よりおおくをしってる。彼は私よりずっとかしこい。私が彼が間違いというなら、それで私の判断の評価に貴重な材料をえるだろうとおもう。我々はこの戦争につきここで詳細をのべないが次のことをいっておく。アテネは戦いの火蓋をきった。概していうとアテネは海でたたかい、そこで勝利した。陸でたたかう時はそうでなかった。数年間も継続するおおきな戦いはなかった。戦いのほとんどはペロポネソスの東南部とその周辺でおきた。どれも決定的なものはなかった。紀元前四五七年だが、これらの時期はすべて不確定、海についてはぼぼ定説があることををことわって、すすめる。アテネはエジプトの支配者から招待状をもらった。彼らはペルシア帝国に反乱をおこそうとしてた。彼はアテネに援軍をよこすようもとめた。アテネは同意しツキジデスによれば二百艘の艦船をおくった。この当時としては巨大な艦隊である。当時、アテネが保有する艦船はそれよりおおきかった。彼らはこれだけの艦船をおくる能力をもってた。しかし彼らにとって相当の大事業だったとおもう。これだけのことを何故したのか。それはエジプトからえられる利益がおおきいとおもってたからである。エジプトは地中海において巨大な穀倉である。アテネは常に穀物の供給源について関心をもってる。

* エジプトの反乱
エジプトは肥沃な土地をもち夢のように富裕である。アテネが分け前にあずかるなら利益となる。また公式にはアテネはまだペルシアと戦争状態である。ペルシアがえている利益をはがして、もってこようとするのはまったく問題がない。これらからその決定は充分に理解できる。もう一つの問題がある。あなたはペロポネソスのいくつかの国との戦争に巻きこまれてる。スパルタはまだ行動にでてないが、それを予想できる状況にある。そこでまたペルシアとの戦争に踏みだすよい時期といえるのか、である。

で、彼らはできるとかんがえた。彼らが当時は自信過剰になってた。その証拠があるとおもう。それが自信過剰だったことはこれからしることとなる。これらは、ギリシャ人の感覚、ギリシャ人の理想、ギリシャ人の宗教、そして神話にみごとに適合する。これは無神論者のツキジデスでなく、ヘロドタスがかくならば、みごとな実例となるものだった。

ところでツキジデスが無神論だったとの確証はないが、非常に懐疑的だったことは間違いない。彼らがそうなるのが充分ありそうな状況だったから、ヘロドタスなら傲慢についておおいにかたったことだろう。エジプトにおけるアテネの軍の活動は当面わすれて、紀元前四五七年の状況についてみてみる。ここで我々はたしかな証拠がある。それは埋葬時にのこされた碑文である。アテネの一つの氏族のものだが、彼らがたたかい、死亡し、それを名誉におもってのこしたものである。

* 傲慢さをみせるアテネ
彼らが男の英雄的行為を誇りとしてたとおもう。彼らは、それまできいたことのない、登場したことのない土地でたたかった。その宏大さについてもまた誇りとしてたとおもう。それはエジプト、フェニキア、ハリエス(Halias)、これはペロポネソスの北部の都市である。アジャイナ(Aegina)、サロン湾の沿岸にあり、アテネの対岸にあたり、アテネの宿敵である。そしてメガラ。このおなじ時期にたたかった土地である。これは猿人が自分がいかにつよいかを胸をたたいてしめす実例である。これは傲慢をしめす。そして神による天罰をよぶものといえる。だがただちに天罰はくだらない。そのかわりに勝利である。アジャイナ、その島がアテネにより奪取された。アジャイナはつよい海軍をもってた。

アテネは敵からつよい海軍力をうばい自軍にいれた。間違いなく制海権、これはもうすでにもっていたが、さらに強固にした。誰も海で彼らにかなうものはいない。メガラとの同盟があり、北西部の完全な安全をえた。それだけでない。最後に、私の推測だが、スパルタはこれらがおきたこと、アテネの拡大する力に恐怖をかんじ行動をおこした。ちいさな手をうってきた。その決定的要ケーガンギ歴、ペロポネソス戦争(17、3の2)

* コリンスのアテネへの憎悪
これでコリンスがアテネにけしがたい憎悪をもつ。そのはじまりである。というのはこの両者の関係をみる。するうとそこで彼らはかならずしも非友好的でなかった。現状を容認し問題なしとしたことがあった。しかしこれからはおおきな問題をかかえることとなったのである。

これはツキジデスの著作をよむことでわかるが、紀元前四三一年の戦争、これは大ペロポネソス戦争であるが、これを引きおこすのにコリンスが決定的役割をはたしたのであるといってる。これがアテネの決断がはらわねばならなかった一つの結果である。もしツキジデスの判断を大ペロポネソス戦争にあてはまると、またこの状況にあてはめると、非常にうまく適合するようにおもえる。彼はアテネの拡大してゆく力はスパルタのおそれを引きおこしたと、いった。それを強硬措置て増大させたと、彼はいった。アテネの力が拡大したことは間違いない。

アテネがメガラとむすんだ同盟により地政学的優位性を獲得した。これは突然、アテネを巨大なものにし、スパルタがおれるようになったのは間違いがない。究極的にアテネとの戦争を決意するほどの脅威となった。私は第一次ペロポネソス戦争についていうならツキジデスとおなじ意見である。私はこのことを問題にしてるわけでない。一つのおおきな疑問がある。大ペロポネソス戦争についてだが、これがあてはまるのか。彼の評価がこの戦いにあてはまるのか、である。私はまずあきらかにしておくが、ほとんどの学者は大ペロポネソス戦争のツキジデスの評価と解釈がただしいとみとめている。しかし私は同意しない。

彼は私とちがうところにいる。私よりおおくをしってる。彼は私よりずっとかしこい。私が彼が間違いというなら、それで私の判断の評価に貴重な材料をえるだろうとおもう。我々はこの戦争につきここで詳細をのべないが次のことをいっておく。アテネは戦いの火蓋をきった。概していうとアテネは海でたたかい、そこで勝利した。陸でたたかう時はそうでなかった。数年間も継続するおおきな戦いはなかった。戦いのほとんどはペロポネソスの東南部とその周辺でおきた。どれも決定的なものはなかった。紀元前四五七年だが、これらの時期はすべて不確定、海についてはぼぼ定説があることををことわって、すすめる。アテネはエジプトの支配者から招待状をもらった。彼らはペルシア帝国に反乱をおこそうとしてた。彼はアテネに援軍をよこすようもとめた。アテネは同意しツキジデスによれば二百艘の艦船をおくった。この当時としては巨大な艦隊である。当時、アテネが保有する艦船はそれよりおおきかった。彼らはこれだけの艦船をおくる能力をもってた。しかし彼らにとって相当の大事業だったとおもう。これだけのことを何故したのか。それはエジプトからえられる利益がおおきいとおもってたからである。エジプトは地中海において巨大な穀倉である。アテネは常に穀物の供給源について関心をもってる。

* エジプトの反乱
エジプトは肥沃な土地をもち夢のように富裕である。アテネが分け前にあずかるなら利益となる。また公式にはアテネはまだペルシアと戦争状態である。ペルシアがえている利益をはがして、もってこようとするのはまったく問題がない。これらからその決定は充分に理解できる。もう一つの問題がある。あなたはペロポネソスのいくつかの国との戦争に巻きこまれてる。スパルタはまだ行動にでてないが、それを予想できる状況にある。そこでまたペルシアとの戦争に踏みだすよい時期といえるのか、である。

で、彼らはできるとかんがえた。彼らが当時は自信過剰になってた。その証拠があるとおもう。それが自信過剰だったことはこれからしることとなる。これらは、ギリシャ人の感覚、ギリシャ人の理想、ギリシャ人の宗教、そして神話にみごとに適合する。これは無神論者のツキジデスでなく、ヘロドタスがかくならば、みごとな実例となるものだった。

ところでツキジデスが無神論だったとの確証はないが、非常に懐疑的だったことは間違いない。彼らがそうなるのが充分ありそうな状況だったから、ヘロドタスなら傲慢についておおいにかたったことだろう。エジプトにおけるアテネの軍の活動は当面わすれて、紀元前四五七年の状況についてみてみる。ここで我々はたしかな証拠がある。それは埋葬時にのこされた碑文である。アテネの一つの氏族のものだが、彼らがたたかい、死亡し、それを名誉におもってのこしたものである。

* 傲慢さをみせるアテネ
彼らが男の英雄的行為を誇りとしてたとおもう。彼らは、それまできいたことのない、登場したことのない土地でたたかった。その宏大さについてもまた誇りとしてたとおもう。それはエジプト、フェニキア、ハリエス(Halias)、これはペロポネソスの北部の都市である。アジャイナ(Aegina)、サロン湾の沿岸にあり、アテネの対岸にあたり、アテネの宿敵である。そしてメガラ。このおなじ時期にたたかった土地である。これは猿人が自分がいかにつよいかを胸をたたいてしめす実例である。これは傲慢をしめす。そして神による天罰をよぶものといえる。だがただちに天罰はくだらない。そのかわりに勝利である。アジャイナ、その島がアテネにより奪取された。アジャイナはつよい海軍をもってた。

アテネは敵からつよい海軍力をうばい自軍にいれた。間違いなく制海権、これはもうすでにもっていたが、さらに強固にした。誰も海で彼らにかなうものはいない。メガラとの同盟があり、北西部の完全な安全をえた。それだけでない。最後に、私の推測だが、スパルタはこれらがおきたこと、アテネの拡大する力に恐怖をかんじ行動をおこした。ちいさな手をうってきた。その決定的要素は中部ギリシャの小国、ドリス(Doris)があたえた好機である。これはドリアン(Dorian)の言葉の起源となる国である。理論的にはすべてのドリアン人の先祖にあたる都市である。スパルタとはあきらかに友好的関係にあった。彼らは隣国のどこかと問題を引きおこした。典型的なギリシャの都市国家間の紛争である。スパルタに援軍をおくるようもとめた。

* スパルタ、ドリスに援軍
私はスパルタが通常のやりかたをとったかどうか確信がない。というのほ、そうすれば中部ギリシャと対決をすることとなるからである。アテネがメガラでやったことをかんがえると、彼らは徒歩で進軍することはできないはずであるからである。惟一いえるのは、船にのってコリンス湾をわたりそこにゆくことである。しかしアテネあるいはノーパクティスを占拠してる奴隷たちから発見され軍は攻撃され艦船は沈没させられるからである。

この方法は秘密裏に渡航する必要がある。通常ではありえないとおもう。だが通常でないのかもしれない。歴史家、シシリーのダイオドロスがこういってる。ツキジデスはふれてないが、シーブス(Thebes)、ビオーシャの指導的立場にある都市、これは常に野心をもちビオーシャの覇権をねらってる。そして常に反抗する。シーブスがこの機会にスパルタの援助をもとめた。彼らがスパルタにこういった。

* スパルタ、シーブスと関係をふかめる
スパルタがやってきて、シーブスがビオーシャの支配を強化するのをたすけるならば彼らはアテネの攻撃に参加する。だから、同意したからスパルタがやってこれたと私はおもう。彼らはそして、ドリスの問題をあつかうより大量の軍をつれていった。ただちにたたかいの場所にいった。どうおもうか。彼らはビオーシャとともにはアテネの国境にやってきた。タナグラ(Tanagra)という都市のちかくである。もちろん、スパルタはコリンス湾をひそかに渡航した。どうしてアテネや奴隷たちが気づかなかったのか疑問かもしれない。それはスパルタがこんなことをやったことがなかったからと私はいう。とにかく彼らはやってきた。

* タナグラでの戦い
戦いがおきたが、戦力についてである。スパルタは一万千人をおくった。これは彼ら自身とペロポネソス同盟のもつ戦力よりおおきい。彼らとビオーシャを集結させたものである。ビオーシャは優秀な戦士たちである。アテネもこれに対抗する軍をおくった。その大部分はアテネの陸軍からなる。これはギリシャの水準からいうと極めて大規模な戦いである。その結果はほぼ引き分けだった。とはいえ技術的な判定ではスパルタの勝利である。彼らは戦いがおわった時にその優位をたもった。兜(trophy)を戦場にたて、彼らの死者をあつめた。

アテネは戦場にもどり彼らの死者をあつめる許可をもとめた。だから重装歩兵の戦闘のやりかたからいえばスパルタの勝利は間違いない。だが戦略的な観点からと、現在の我々の立場からいうと、それは引き分け、あるいはアテネの勝利ともいえる。というのはスパルタはアテネをたおすためにやってきて、アテネがやろうとしたこと、やってきたことすべてをすてさせる。そのための戦いだったからである。

この点で彼らは失敗した。というのは彼らは戦闘においてひどい損害をうけた。さらにこれから戦いをはじめアテネ軍を崩壊させる余力はなかった。スパルタはそのままペロポネソスにもどっていった。アテネもそれを阻止する力はなかった。こんなものだった。あるいはこの後の状況からかんがえるとアテネの戦略的勝利という見方も成立する。というのは、まず、アテネは崩壊してない。実質的に敗北してない。彼らがやろうとしてたことを阻止できてない。その証拠にアテネはスパルタがビオーシャにひいた時に、ビオーシャの軍をオイフォニタ(Oephonyta)とい場所でやぶってる。

* アテネ、シーブスをやぶる
次に、アテネはっビオーシャのすべての都市国家、アテネに友好的なものだが、そこにおいて民主主義政府の樹立に成功した。ここで私は冷戦時代との比較をしたい。ソ連の陸軍が優勢だった場所において、ソ連が占領した地域には共産主義政府があった。その政府の役割はソ連の支配の手段として機能するものだった。こんな比較ができるということである。

およその考えはおなじである。その都市国家をうごかす人々はアテネにくみする人々である。つまりアテネはビオーシャで支配的勢力である。ここでしばらく、身をひいてアテネのアクロポリスにたって周囲を見わたす。すばらしい状況にある。まるで一つの国が出来上がったような状況である。北をみれば、今までのべたことからビオーシャをとおした侵略はない。北は安全である。もし北西をみるとメガラは同盟国である。アテネの軍が駐屯する。そこは閉鎖されてる。抜け穴はない。

* アテネ、拡大の極地
だがスパルタがコリンス湾を渡航したことがある。この再来を阻止しなければななない。スパルタとその同盟はペロポネソスに閉じこめられてる。海はアテネが完全に支配してる。私はアテネがアテネとパイリアス(Piraeus)を連絡する通廊の壁の建設を丁度、この時に完成させたことをいってなかった。想像しにくいがスパルタがアティカに侵入することに成功したとしても戦闘にはいる必要はない。彼らに降服する必要もない。というのは誰も壁で防禦された都市をうばう方法をしらない。スパルタもしらない。だから飛行機を発明しなければアテネは完全に不可侵である。

飛行機はそこから二千年も後の発明だ。ということは夢のように安全だ。だから不可侵と断定できる。そこではやりたいことができる。それも誰からも罰もない。私はこれがアテネにとり非常に重要な瞬間だった。またギリシャの歴史においてもそうだったとおもう。そこには自分たちが成しとげたこと、成しとげられること、将来のあらゆる状況にねらうべきことにむかって、けっしておどろかないアテネ人がいた。

ではペロポネソス戦争である。そこでアテネがスパルタと平和を交渉することのできる瞬間がおとづれるのである。戦争で合意し、あるいは拒否することができる。私はツキジデスや他の人々が、彼らは正気をうしなったと示唆してるとおもう。それはたぶん、そうかもしれない。彼らには集中できる何かがある。それはかっておきたことの記憶であり、これからやってくるかもという意識である。

それはおそらく神がゆるさないことである。そのことをあなたも私もしってる。アテネ人はこの状況をくつがえす、とんでもない逆風をむかええた。エジプトから不幸がやってきた。アテネはそこでやぶれた。ペルシアが彼らをやぶった。どれだけの艦船がうしなわれたかおおいに議論があるが、とにかく彼らはおおいにやぶれた。戦略的に重大な敗北である。その損害は甚大で、アテネ帝国のデリアン同盟の国々の反乱があいついだ。しばらくのあいだ、アテネはその鎮圧にいそがしかった。

* アテネ、エジプトでの敗北
ところでこの敗北の時期だが、おそらく紀元前四五五年。この次の年、四五四年、四五三年は確実で、アテネが同盟の金庫をデロス(Delo)からアテネのアクロポリスの上、パルテノン神殿の後ろの部屋にうつした。これは戦いのすぐ後に建築した。もう一つの重要な点である。この金庫の資金は海軍と表面上は同盟目的でつかわれる。この同盟目的だがすでにのべたように彼ら自身の目的につかうことができた。それはセイソスの時におきたことである。だがそれでも艦船と乗員のためだった。ところがアテネはあたらしい方針をきめた。これをどうみるか、私は彼らが帝国をつくったとおもう。

* アテネ帝国の出発
もはやそれは自発的にうまれた連合体というものでない。というのは彼らは毎年、金庫にある資金の六十分の一をとる。これは女神アテナへの貢納金であるが、これはアテネと言いかえることができる。彼らは今や、利益をうばう。同盟国からの税金である。これは将来、どのようにつかうか論議の的になる。彼らはそれは我々の金であり、我々が我々のやりたいようにつかうことができると主張することになる。

二つのことが二つのちがった方向にむかう。同盟におきるすべての問題、これが彼らに同盟の性格をかえざるをえなくする。問題はむずかしい。スパルタとたたかうこと、深刻な段階になってる。アテネ人は追放されてたキーマンを呼びもどした。というのは彼らはスパルタとの和平をのぞんでおり、それにふさわしいのがキーマンであるとおもってたからである。

* キーマンの復活
彼のことだが、彼はもっとはやく再登場との説もあるが、彼が紀元前四五一年に再登場した。というのは十年間の陶片追放が解除されたからである。彼はスパルタと交渉し五年間の和平を実現させた。これは両国が長期の和平の協定の交渉をおこなうとの了解のもとになされた。キーマンはこれを実現させ、陶片追放がどのようにはたらいたかをしめし、彼はただちに将軍にえらばれた。彼はまるで追放されなかったかのようだった。彼はただちに活動にうつった。彼がやりのこしてたことをはじめた。それはペルシアとの戦いだった。

彼は艦隊をつれキプロス(Cyprus)にむかった。その一部分はペルシア領だった。ペルシアとたたかい、それをやぶった。だが不幸にも死亡した。これでキーマンはアテネの政治からいなくなった。これは重大なことである。民衆の支持をえ、カリスマをもち、あたらしく登場してくるアテネの重要な指導者、ペリクリースに対抗できる政治家がいなくなったということである。これはペリクリースが比較的若年であるのに、前例がないほどの影響力をもつ人物となることができた理由でもある。彼があらたな権限を創設したり、軍事的勢力をえたことではない。
(3の2、おわり)
素は中部ギリシャの小国、ドリス(Doris)があたえた好機である。これはドリアン(Dorian)の言葉の起源となる国である。理論的にはすべてのドリアン人の先祖にあたる都市である。スパルタとはあきらかに友好的関係にあった。彼らは隣国のどこかと問題を引きおこした。典型的なギリシャの都市国家間の紛争である。スパルタに援軍をおくるようもとめた。

* スパルタ、ドリスに援軍
私はスパルタが通常のやりかたをとったかどうか確信がない。というのほ、そうすれば中部ギリシャと対決をすることとなるからである。アテネがメガラでやったことをかんがえると、彼らは徒歩で進軍することはできないはずであるからである。惟一いえるのは、船にのってコリンス湾をわたりそこにゆくことである。しかしアテネあるいはノーパクティスを占拠してる奴隷たちから発見され軍は攻撃され艦船は沈没させられるからである。

この方法は秘密裏に渡航する必要がある。通常ではありえないとおもう。だが通常でないのかもしれない。歴史家、シシリーのダイオドロスがこういってる。ツキジデスはふれてないが、シーブス(Thebes)、ビオーシャの指導的立場にある都市、これは常に野心をもちビオーシャの覇権をねらってる。そして常に反抗する。シーブスがこの機会にスパルタの援助をもとめた。彼らがスパルタにこういった。

* スパルタ、シーブスと関係をふかめる
スパルタがやってきて、シーブスがビオーシャの支配を強化するのをたすけるならば彼らはアテネの攻撃に参加する。だから、同意したからスパルタがやってこれたと私はおもう。彼らはそして、ドリスの問題をあつかうより大量の軍をつれていった。ただちにたたかいの場所にいった。どうおもうか。彼らはビオーシャとともにはアテネの国境にやってきた。タナグラ(Tanagra)という都市のちかくである。もちろん、スパルタはコリンス湾をひそかに渡航した。どうしてアテネや奴隷たちが気づかなかったのか疑問かもしれない。それはスパルタがこんなことをやったことがなかったからと私はいう。とにかく彼らはやってきた。

* タナグラでの戦い
戦いがおきたが、戦力についてである。スパルタは一万千人をおくった。これは彼ら自身とペロポネソス同盟のもつ戦力よりおおきい。彼らとビオーシャを集結させたものである。ビオーシャは優秀な戦士たちである。アテネもこれに対抗する軍をおくった。その大部分はアテネの陸軍からなる。これはギリシャの水準からいうと極めて大規模な戦いである。その結果はほぼ引き分けだった。とはいえ技術的な判定ではスパルタの勝利である。彼らは戦いがおわった時にその優位をたもった。兜(trophy)を戦場にたて、彼らの死者をあつめた。

アテネは戦場にもどり彼らの死者をあつめる許可をもとめた。だから重装歩兵の戦闘のやりかたからいえばスパルタの勝利は間違いない。だが戦略的な観点からと、現在の我々の立場からいうと、それは引き分け、あるいはアテネの勝利ともいえる。というのはスパルタはアテネをたおすためにやってきて、アテネがやろうとしたこと、やってきたことすべてをすてさせる。そのための戦いだったからである。

この点で彼らは失敗した。というのは彼らは戦闘においてひどい損害をうけた。さらにこれから戦いをはじめアテネ軍を崩壊させる余力はなかった。スパルタはそのままペロポネソスにもどっていった。アテネもそれを阻止する力はなかった。こんなものだった。あるいはこの後の状況からかんがえるとアテネの戦略的勝利という見方も成立する。というのは、まず、アテネは崩壊してない。実質的に敗北してない。彼らがやろうとしてたことを阻止できてない。その証拠にアテネはスパルタがビオーシャにひいた時に、ビオーシャの軍をオイフォニタ(Oephonyta)とい場所でやぶってる。

* アテネ、シーブスをやぶる
次に、アテネはっビオーシャのすべての都市国家、アテネに友好的なものだが、そこにおいて民主主義政府の樹立に成功した。ここで私は冷戦時代との比較をしたい。ソ連の陸軍が優勢だった場所において、ソ連が占領した地域には共産主義政府があった。その政府の役割はソ連の支配の手段として機能するものだった。こんな比較ができるということである。

およその考えはおなじである。その都市国家をうごかす人々はアテネにくみする人々である。つまりアテネはビオーシャで支配的勢力である。ここでしばらく、身をひいてアテネのアクロポリスにたって周囲を見わたす。すばらしい状況にある。まるで一つの国が出来上がったような状況である。北をみれば、今までのべたことからビオーシャをとおした侵略はない。北は安全である。もし北西をみるとメガラは同盟国である。アテネの軍が駐屯する。そこは閉鎖されてる。抜け穴はない。

* アテネ、拡大の極地
だがスパルタがコリンス湾を渡航したことがある。この再来を阻止しなければななない。スパルタとその同盟はペロポネソスに閉じこめられてる。海はアテネが完全に支配してる。私はアテネがアテネとパイリアス(Piraeus)を連絡する通廊の壁の建設を丁度、この時に完成させたことをいってなかった。想像しにくいがスパルタがアティカに侵入することに成功したとしても戦闘にはいる必要はない。彼らに降服する必要もない。というのは誰も壁で防禦された都市をうばう方法をしらない。スパルタもしらない。だから飛行機を発明しなければアテネは完全に不可侵である。

飛行機はそこから二千年も後の発明だ。ということは夢のように安全だ。だから不可侵と断定できる。そこではやりたいことができる。それも誰からも罰もない。私はこれがアテネにとり非常に重要な瞬間だった。またギリシャの歴史においてもそうだったとおもう。そこには自分たちが成しとげたこと、成しとげられること、将来のあらゆる状況にねらうべきことにむかって、けっしておどろかないアテネ人がいた。

ではペロポネソス戦争である。そこでアテネがスパルタと平和を交渉することのできる瞬間がおとづれるのである。戦争で合意し、あるいは拒否することができる。私はツキジデスや他の人々が、彼らは正気をうしなったと示唆してるとおもう。それはたぶん、そうかもしれない。彼らには集中できる何かがある。それはかっておきたことの記憶であり、これからやってくるかもという意識である。

それはおそらく神がゆるさないことである。そのことをあなたも私もしってる。アテネ人はこの状況をくつがえす、とんでもない逆風をむかええた。エジプトから不幸がやってきた。アテネはそこでやぶれた。ペルシアが彼らをやぶった。どれだけの艦船がうしなわれたかおおいに議論があるが、とにかく彼らはおおいにやぶれた。戦略的に重大な敗北である。その損害は甚大で、アテネ帝国のデリアン同盟の国々の反乱があいついだ。しばらくのあいだ、アテネはその鎮圧にいそがしかった。

* アテネ、エジプトでの敗北
ところでこの敗北の時期だが、おそらく紀元前四五五年。この次の年、四五四年、四五三年は確実で、アテネが同盟の金庫をデロス(Delo)からアテネのアクロポリスの上、パルテノン神殿の後ろの部屋にうつした。これは戦いのすぐ後に建築した。もう一つの重要な点である。この金庫の資金は海軍と表面上は同盟目的でつかわれる。この同盟目的だがすでにのべたように彼ら自身の目的につかうことができた。それはセイソスの時におきたことである。だがそれでも艦船と乗員のためだった。ところがアテネはあたらしい方針をきめた。これをどうみるか、私は彼らが帝国をつくったとおもう。

* アテネ帝国の出発
もはやそれは自発的にうまれた連合体というものでない。というのは彼らは毎年、金庫にある資金の六十分の一をとる。これは女神アテナへの貢納金であるが、これはアテネと言いかえることができる。彼らは今や、利益をうばう。同盟国からの税金である。これは将来、どのようにつかうか論議の的になる。彼らはそれは我々の金であり、我々が我々のやりたいようにつかうことができると主張することになる。

二つのことが二つのちがった方向にむかう。同盟におきるすべての問題、これが彼らに同盟の性格をかえざるをえなくする。問題はむずかしい。スパルタとたたかうこと、深刻な段階になってる。アテネ人は追放されてたキーマンを呼びもどした。というのは彼らはスパルタとの和平をのぞんでおり、それにふさわしいのがキーマンであるとおもってたからである。

* キーマンの復活
彼のことだが、彼はもっとはやく再登場との説もあるが、彼が紀元前四五一年に再登場した。というのは十年間の陶片追放が解除されたからである。彼はスパルタと交渉し五年間の和平を実現させた。これは両国が長期の和平の協定の交渉をおこなうとの了解のもとになされた。キーマンはこれを実現させ、陶片追放がどのようにはたらいたかをしめし、彼はただちに将軍にえらばれた。彼はまるで追放されなかったかのようだった。彼はただちに活動にうつった。彼がやりのこしてたことをはじめた。それはペルシアとの戦いだった。

彼は艦隊をつれキプロス(Cyprus)にむかった。その一部分はペルシア領だった。ペルシアとたたかい、それをやぶった。だが不幸にも死亡した。これでキーマンはアテネの政治からいなくなった。これは重大なことである。民衆の支持をえ、カリスマをもち、あたらしく登場してくるアテネの重要な指導者、ペリクリースに対抗できる政治家がいなくなったということである。これはペリクリースが比較的若年であるのに、前例がないほどの影響力をもつ人物となることができた理由でもある。彼があらたな権限を創設したり、軍事的勢力をえたことではない。
(3の2、おわり)

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ケーガンギ歴、ペロポネソス戦争(17、3の1)



* はじめに
引用:17. The Peloponnesian War, Part I、YaleCourses、2008/11/20 に公開

* 年表
465 セイソスの反乱
461 メガラとコリンスの紛争
457 エジプトへの出兵、453頃、敗北
453 デロス同盟の金庫が移転
451 キーマンの復帰
449 フォシスをスパルタが攻撃
447 フォシスにアテネが進軍
446 ビオーシャで民主政府を追放
445 和平の協定
431 第二次ペロポネソス戦争勃発

* 講義の対象、ペロポネソス戦争
我々は次の二、三週間において大ペロポネス戦争(the Great Peloponnesian War)のはじまりと戦いをしらべる。これはギリシャ人自体にとり極めて重要な問題あり、古代ギリシャに関心のある人々にとり重要である。というのは固有の重要性をさておいて、アテネの市民、オロラス(Olorus)の息子、ツキジデス(Thucydides)、彼はこの戦争の参加者で同時代の人物であるが、彼が我々のためにかたってくれている。ながい千年をこえて極めてすぐれた歴史家とみとめられてる。私もそうおもってる。

* 歴史家、ツキジデス
というのは、彼は西欧と世界の思想においておおきな影響をあたえた人物であるからである。現代における第一次大戦、第二次大戦、それにつづく冷戦を研究してる人々にとりツキジデスのペロポネソス戦争の歴史はおおくの示唆をあたえる。またさらに、歴史と戦争についての彼の考えかたがもそうである。

国際関係において、大衆のなかでの人間の行動についてもそうである。これが彼の歴史を注意ぶかく、他の歴史と比較しながらしらべる理由である。これは紀元前五世紀のおわりのほぼ三十年間にわたりアテネ帝国がスパルタの同盟とたたかい、それによりギリシャ世界とギリシャ文明をかえ今にいたるものである。

紀元前五世紀においてペロポネソス戦争は世界大戦といってよい。ツキジデスが取りあがげたが、ギリシャを巻きこみ、それにとどまらず、ペルシアが重要な役割をはたし、同様にマセドニアも、またシシリーやイタリアの人々も巻きこんだ。それはギリシャ人の観点からはおおきな防衛を必要としなかったが世界大戦であった。ギリシャの歴史にとり決定的な転換点であり、莫大な人命と財産を破壊し、きびしい党派の分裂と階層間の敵対心をうみ、ギリシャの都市国家の分断を引きおこした。

ギリシャ内部ではギリシャ全土における内乱である。これは都市国家内部の階層の関係を不安定とし、究極において都市国家間の関係もそうした。後世の人からみればギリシャの力をそぎ、外部の脅威への抵抗力をよわめ彼らの独立と自治をうしなわせる状況を生みだす傾向をうながした。

私は次の点を強調する。おくの点から戦争は悲劇であり、信頼と希望のおわりである。ペルシア戦争とペロポネソス戦争の五十年間はギリシャの偉大な時代である。我々が評価するおおくの事柄がうまれた時期である。それをギリシャ人たちが創造し発展させたのである。それは人間の能力の確信させ将来に花ひらくという希望の証拠をみつけた時代である。このようなことがあったからこそ、はなはだしい逆転の苦しみをあじわった時代でもあった。

ペロポネソス戦争が引きおこしたものから暗黒の時間がはじまったのだった。それはギリシャ人の命に前例のない残酷さがおそった戦争だった。ギリシャ人の戦いの作法がすでにボロボロとなっていたのに、さらにそれを破壊する戦いだった。それは蛮行と文明的行為からはるかにとおい行為の戦いだった。

このような見方はツキジデスにとってふるからある考えだった。これを彼が歴史において私におえしえくれた。残酷さ、凶暴さをへだてるうすい壁がある。それは社会にいる人間のあいだに存在する。そして社会はそれをおおいかくす。それは文明とよぶものににてるといえる。

しかし戦争というものはその防御壁を破壊する方向にはたらく。これは社会が個人にくわいえる圧力である。戦闘がながびくと怒り、焦り、復讐欲が増大する。残虐行為はつづく。捕虜を切りきざみ殺害する。 立坑に投げこむ。乾きと飢餓に放置し、死にいたらせる。これはシシリーでおきたことである。海にほうりこみ溺死させる。これはペロポネソス戦争の末期には普通のこととなった。

略奪者の集団がやってくると、彼らは無辜の学童を殺害し、都市国家全部を破壊し、男をころし、女性と子どもを奴隷にうった。ペロポネソス戦争の前にも残虐行為がなかったとはいわないが、これだけ集中し、これだけひどいものはなかった。

一つの理由はこうである。過去の戦争はみじかった。そしてツキジデスがまさに我々につたえようとしたことだが、戦いがながびけばそれだけ、残酷さをまし文明をたもつ基準がよりひくくなる。もし戦いを評価する文明度があり、それにはんするひどい戦いの方法があるとするならばという意味である。

これは二千四百年も前におわった戦争だが今日も読者を魅了しつづけてる。私はペロポネソス戦争と題する本をかいた。五万部もうれ、本当におどろいた。出版社もおどろいた。しかし私はおどろくべきでなかったとおもう。というのはたぶん百年ものあいだ人々はツキジデスとその歴史について研究してきた。あるいは研究してなくともそれについてきいてきた。すぐれた学者により参考文献がつくられた。マーシャル将軍は有名な引用集において引用した。彼が国務省長官であった時だった。人々はこれにつき話しつづけた。私はこれは親近感というより好奇心からくるとおもう。これは一体なんだろうかというものである。しかしツキジデスとペロポネソス戦争については、士官学校(military academy)でおしえてる。国際関係論のなかでもおしえてるだろう。中国の聖人、孫子(Sun-tzu)の兵法とともに最初の教科書でまなぶものである。古典のなかでよくよむものである。

しかし私がもとめるものはそうでなく、確信でき、学者によって支持されるものである。古典主義者(classicist)によってではない。それはかわらない意味、価値をもつ。我々がツキジデスの歴史からまなぶことができるものである。私はあなた方が文献をよむ負担を軽減したい。あなた方の時間を無用にうばうことのないようにしたい。それがこれからやることである。

あなた方がいろんな現象をしりたいだろうが。私は戦争の起源、戦争の原因、戦争の勃発の疑問についてかんがえたい。ツキジデスはこれらに非常に興味をもち、その説明にすぐれてるとおもう。それにかわるものがなく、さらにこの時代にぴったりと対応してないからである。ツキジデスの最初の本はこの主題に、すなわち戦争がどのようにおき、何故おきたかを取りあげている。これは極めて興味ぶかく、重要なものである。というのは歴史の事実、すなわち文明化された人類の歴史のほとんどが戦争の歴史であるという事実に我々が直面すべきであるからである。

* 戦争がおきる理由
人類の社会は戦争をたたかうために組織化されるといってよい。だが二十一世紀の時代にこれはわるい結論であるというべきである。現在、戦争は過去において積極的な機能がみとめられ、種々の理由から時にはほめたたえられたかもしれないが、それがすばらしいというには、あまりにもうしなうものがおおきい。話しをすすめよう。

戦争が何故おきたか、それらがどのようにさけられるのかという問題は私には重要である。ツキジデスはこれをかんがえるうえであじわうべき材料をあたえてくれる。さて彼は事実をしらべ第一の書で真実の原因、真実の説明をおこない、結論をまとめてる。その引用である。「真実の説明は、もっとも推奨されてないものだが、私はアテネが成長し偉大さにたっした時に、スパルタ人(Lacedaemon)は恐怖をかんじ彼らを戦争に追いやった。

学者により多少のちがいがあるが、次の点はほぼおなじである。彼はいう。この戦争はある時点で不可避となった。それはアテネ帝国、アテネの偉大さだが、それが拡大し、スパルタに警戒心を引きおこした。アテネの拡大を阻止するために戦争をはじめようとする時点である。私がここまでにいったことに批判や不同意、論爭をしてもらってよい。だが私がのべたことは独自あるいは私しかもたない見解ではない。次の点が重要と指摘したい。ツキジデスは戦争が勃発して紀元前四百三十一年におきたことをしらべて前述の見解をしめしたのでない。その根拠は彼が真実と主張してる事実、それにくわえ急激に戦争においやる理由と我々がかんがえてる出来事に焦点をあて、あまり真実といえないとして拒否してるからである。

* ツキジデスの考え
彼は戦争の説明をペルシア戦争のおわりの事実、デリアン同盟の形成を重要とかんがえてるところだが、説明はそこまでさかのぼる。これはアテネ帝国が出現しはじめた頃である。これが一つの転換点だが、さらにアテネとスパルタのあいだに不信感がうまれた時期にまでさかのぼるのである。これがギリシャ世界における重大な分断をもたらした。あきらかに疑いはおそれを生みだすものだからである。次に第二の点にふれる。アテネの勢力の拡大とスパルタにおける男女差別のおそれをツキジデスがかたってる。私が素晴しいとおもう点は、何故かを説明してるツキジデスの洞察力である。それが大学院レベルの国際関係論でおしえられる点よりすぐれてること。彼が人間の感情、情動をかたってる点である。

あなたが大学教授となるのに必要な構造についてかたってない。それは説得力にとむ。彼は構造について興味をしめしているが、問題を取りあげる最初の手順である。それは重要とおもってるが、何故、国は戦争をするのかを説明する段階になると、そこにいる人々の感情についてしらべる。我々はすでに彼がかたったいくつかの点について彼の説明から材料をえてはなした。私はデリアン同盟のはじまりとアテネ帝国への転換についてはなしたが、セイソスの反乱にいたるところまでははなしてない。

* アテネの野望、セイソスの反乱
そこではアテネ人が従来より攻撃的に振るまったことをしることができる。これをまだはなしてなかったのは、次のような文脈があるのでのこしておいたのである。ツキジデスはいう。紀元前四百六十五年、セイソスがアテネに反乱をおこした時に、彼らは最初にスパルタにゆき、もし我々がアテネに反乱をおこしたら、あなた方はアティカ(attica)に侵攻するかたずねてる。外交を担当するところの長老会議(ephors)にたいしきくとは然りとこたえたという。しかし彼らはそうしなかった。というのは彼らが実行しようとした時に大地震がおきてそれができなくなったからである。これらのやりとり、セイソスとスパルタのあいだを行きかったやりとりは秘密であった。

この時点でアテネはこの会話をしらなかったとおもう。というのはもしきいてたならば彼らが四千の重装歩兵をスパルタにおくらなかったはずである。それは奴隷の反乱を抑止するためスパルタをたすけるものだった。これから我々はツキジデスの状況理解の正しさをみとめざるをえない。

これで状況がわかる。スパルタがアテネにもってる不信感、それへの彼らの振る舞いがわかったはずである。これがアテネ人のつよい怒りを引きおこし、それが国内的な革命をよぶ。キーマン一派はエフィオルテスやペリクリースの一派、より急進的な民主主義者の一派にかわったという状況である。さらに外交上の革命、アテネがスパルタが主導するギリシャ同盟からの離脱がおきたのである。

そしてスパルタの宿敵、アーゴス(Argos)とはじめて同盟をむすんだ。次に、テッサリとも、アテネは彼らに将来の戦いにそなえ騎馬兵の提供を期待してるのである。これが両勢力のあいだの最初の紛争の転換点である。その深刻さから現代の歴史家は第一次ペロポネソス戦争のはじまりという。この戦いの結末におきたもう一つの点がある。

* 奴隷の反乱
この場面からアテネは退場するが最終的にスパルタが奴隷のことをどう処理したか。彼らは奴隷を抑止すること、イソーミ(Ithome)山の砦から引きおろすことができなかった。なので次のような取引をした。安全な下山とペロポネソス以外の別のところへの移動を保証する。彼らはあきあらかに奴隷たちが各所に散在することを期待してた。一定の一所への移動はないとかんがえた。どうなったか。アテネがうごいてある場所を確保した。どんな手段によるかはわからないが、コリンス湾の沿岸、ノーパクティス(Naupactus)である。これは良港をもち海軍の基地として好適である。コリンス湾を制約する位置にある。アテネがペロポネソスをにげた奴隷たちにあたえたものである。

これはスパルタの頭になかった。交渉でそのような事態をふせぐ手段を事前にとらなかった。アテネがスパルタにやった有害行為である。コリンス湾の仇敵と同盟国を困難に落しいれるものである。これで翌日にはがらりと状況がかわり別の世界となった。私はこれでスパルタ側とアテネ側のあいだの平和は消滅寸前となったとおもう。これで両方の協力の可能性はなくなった。アテネ側はスパルタ側と敵対した。アテネは奴隷たちを戦略重要地点においた。これは良好な関係を作りあげる方法でない。まさに一触即発の状況となった。人々はこれを戦争をはじめるきっかけにする。時にはそうでないが、この時はそうである。後でわかるが、この出来事の後ではアテネとスパルタのあいだが爆発するのにおおくはいらない。花火がスパルタ側のペロポネソスにある二つの国、メガラ(Megara)、コリンス(Corinth)のあいだにうまれた。これらはイスミス(Isthmus)で隣接する国だった。ここから北部ギリシャにむかったり、アテネにむかう場所である。両方ともスパルタ陣営だから、どちらよりの立場をとるか問題となる。

* メガラとコリンスの紛争
すぐに選択をせまられた。とゆうのはコリンスは論爭を優位にすすめ、どうやら戦争になっても優勢のようだった。なのでコリンスはメガラに攻撃を仕かけた。メガラはスパルタにやってきて助けをもとめ、戦いを有利にしたいといった。スパルタは否、我々は干渉しない。あなたの問題だが我々の問題ではないといった。興味ぶかいことだが我々はこれに何がいえるのかわからない。両者は自治権をもつ。理論にもとづきお互いにたたかうときめた時に、スパルタにどのような義務がうまれるか。ほとんどいえない。というのは条約上の違反があると誰もいってない。スパルタはこの出来事を無視する権利がある。

スパルタは数百年、それ以上、同盟国同士の紛争を無視してきたにちがいない。そうかんがえるべきである。戦いはすすみ、やがておさまる。紛争国のもとめるようにである。紛争に関与してスパルタがどちらかに勝ちをあたえるなどやらない。傍観者としての態度が好都合とおもう。これは次のことからいえる。まだスパルタは地震やその後の奴隷の反乱の影響から充分に回復してない。さらに混乱を持ちこみたくない。スパルタが過去にこのような傍観者的態度をとれたのは彼らがギリシャ世界で惟一の巨大国だったことによる。しかし紀元前四百六十一年は事情がちがう。助けをえられなかったメガラはアテネにゆくことができ、そうした。コリンスとの戦いで助けがほしいといった。たすけてもらえるなら、我々はペロポネソス同盟を離脱する。アテネ側につく。これは状況があたらしくなったからである。

これは、冷戦をしってる人々にとり、その類似性におどらくところである。そこでは北大西洋条約機構(NATO)とソビエトとワルシャワ条約機構(Warsaw Pact)のあいだに紛争があった。だが、そこには戦争を呼びおこす、あるいは戦闘を呼びおこすようなものはなかった。ところがアフリカだが、彼らは一つの陣営にゆきいう。援助してほしい。もしだめなら、もう一つの陣営にゆく。これは両陣営のあいだに深刻な紛争を引きおこす。我々はある国に損害をあたえたいわけでない。だがロシア人がその国に被害をあたえることをのぞまない。またその反対もおなじだ。

これはこのような状況でみることができる問題である。これでアテネは極めて困難な決断をせまられる。これがどれほどのものか私はあなた方につたえたい。すぐ予想できる反応はこれである。何故、我々がペロポネソスからの離脱者を受けいれねばならないのか。というのは、これはスパルタの怒りをよびペロポネソスとの戦争を呼びこみかねない。これは重大事である。我々はメガラとコリンスの争いにどんな気遣いができるか。もう一方の考えは次のようだ。否、我々はメガラとコリンスの争いに立ちいらない。だがメガラは我々の側にくる気持がある。もしメガラを支配できれば、我々の側につくなら、彼らはイスミスのアテネ側に所在してるのだ。

* アテネの地政学的勝利
さらにであるが、山岳がメガラをはしってる。もしここで軍隊が妨害してきたらその侵入は非常に困難となる。つまりメガラの協力はスパルタのアテネ侵入を困難とし、さらにそこをぬけて北部への進出も困難にするだろう。もっとはっきりいうと、メガラを支配すればアテネはスパルタの侵入にまったく安全となる。

彼らはこの申し出をうけたら、スパルタと戦争になるとかんがえてたろう。しかし、おおくのアテネ人が戦いはどのみちおきるとおもってた。我々がかんがえるべき問題はこうである。戦いに有利な条件をもつがスパルタと戦争をするのか。あるいは、それがない従来の状況でスパルタに対抗し、結局、侵攻をゆるし、山野の破壊をゆるすのか、とゆうことである。これは結局、敗北である。

というのは、アテネはまだアテネとパイリアスをむすぶ通廊の壁をまだ建設してなかった。これではスパルタはアテネに侵入しその港との連絡を遮断できる。アテネは必要な食糧を供給できない。つまりこのようなことを当時のアテネ人がかんがえたことだろう。ここで決断をするなら、決定的なのは将来がどのようになるかの予測である。あなたがもしスパルタとの戦争がないとみるなら、強硬策をつづける。しかしスパルタとの戦争の危険性があるなら何故、スパルタにたいする脆弱性を放置しておくのか。どちらをとるにせよ、一方に危険性があり他方に不確実性がある。こんな時に私は単純にいう。現実の世界、うつくしい世界に向きあいなさい。そうすれば決断がいかに困難なのかがわかる。

アテネの決断はこうである。メガラをアテネの同盟に引きいれる。それによりうまれる危険性を覚悟する。その対処のためにメガラとサロン湾(Saronic Gulf)にある港、ニセア(Nicea)のあいだに壁でまもられた連絡路をつくった。これはアテネの沿岸につづき、都市、ペガイ(Pegai)を支配下におく。ペガイはイスミスの北側にあったとおもう。そこを要塞化し兵力をおく。言いかえるとアティカに侵攻しようとするスパルタに障壁をきづくことである。この政策はおおきな成果となる。だが痛みをともなう。ツキジデスがこういってる。
(3の1、おわり)

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引きこもり登場の殺人



* 引きこもりが登場する二つの殺人
先日、元農水事務次官が逮捕。隣りの小学校の運動会がうるさいことから口論、犯行。引きこもり の息子(44)が死亡。この引きこもりですぐ思いだした。川崎、小学校児童大量殺傷事件である。ここの犯人も引きこもりだった。

* 二つの引きこもり
元次官の息子はほとんど外にでることなく、ゲームに没頭、家庭内暴力を引きおこしてたという。川崎は五十一歳の男、引きこもり、生活に困窮してたという。集団登校で車をまってた児童と保護者をナイフでおそい、二人をころし、多数に怪我をおわせた。暗澹たる事件。私はここで警鐘をならしたい。

* 警鐘の音色
まず、イジメとイジリは紙一重という言葉を紹介する。イジメは自殺すら引きおこす深刻な問題、事件はマスコミにすぐ取りあげられる。イジリはテレビやラジオでみる芸人の得意技。互いに悪口をいいあってわらわす。いやがる相方にムチャぶりする。でもイジメとちがう。番組でのイジリはおいしい出番、感謝すらする。笑いの中核にある基本技である。

隠してたい内面をイジって本音を引きだす。本当の自分をさらけだして、人間の交流を豊かにする。大切な鍵である。ただし注意がいる。

イジメとイジリは紙一重、区別は程度の問題、時と場所、相手との関係による。行きすぎればあやまり修復しなければならない。人は孤立して生きてゆけない。引きこもりはいけない。集団のなかの豊かな交流に身をおいてこそ、幸せがみえる。そのためイジリが重要、不可欠である。

* ただの優しさより豊かなイジリ
ただ優しいだけで豊かな交流はうまれない。イジリが不可欠である。小学校の運動会で徒競走は順位をつけない。勝敗が露骨につく騎馬戦は取りやめるとかいう。優しさがすべてか。大丈夫か。中学校受験、高校、大学進学では優劣、勝敗がつく。周囲にかならず敗者がいる。皆んな平等の天国をつくったところで、周りは地獄である。おそらくほとんどの子どもは敗北感にくるしんでる。

それが仲間との交流でやわらぐ。本当の自分をだして他人をしり自分を客観視できる。自分の居場所をみつければ痛みもやわらぐ。そんな交流がうまれるのにイジリが重要だ。ただの優しさではうまれない。そろそろ終わりだが、川崎の犯人は引きこもりで生活に困窮してたらしい、中年をすぎた彼らにいえること、私にはない。だが日本にはこれからも引きこもりがうまれる。おおくの予備軍がいる。特に子どもたちのためにいいたい。

* 結論
友だちをつくれ、仲間をつくれ、そしてそのなかで生きてゆけ。イジメの隣りのイジリが仲間をつくる。どうですか。国民の皆さん、テレビで、うすい優しさがでた時に、この言葉を思いだしてください。

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ケーガンギ歴、アテネの民主主義(16、3の3)


* 宗教における女性の役割
都市国家の宗教における各種の儀式、祭事のいろいろな役割が女性の惟一の公的役割だった。あたらしく刊行された本がある。コネリー(Connelly)という名前の大学の教授によるもの。これは古代ギリシャの女神官について詳細な研究をした。以前には我々がよくしらなかったものをあきらかにした。女性はすくなくともこの世界では非常に重要である。それがその他の世界をかえたといえないが女性は中心的な役割をはたしてたとおもう。しかし物事の宗教的側面に充分な周囲をはらってこなかった。我々は彼らが極めて世俗的な生活をしてるようにみえるが宗教が非常に重要な役割をはたしてた。

* ペリクリースの寡婦と母親への呼び掛け
宗教は彼らの考えかたのなかで非常に重要であった。これら宗教的事項をはなれても、アテネの女性はしずかに注意をひかないように家庭にとどまることを期待されてた。ペリクリースはペロポネソス戦争の第一年目にしんだ男たちの寡婦と母親にむかって話しかけた。こういった。彼の有名な葬式の言葉であるが、その最後にその寡婦と母親にむけいったもの。その出典はほぼ正確だろうとおもう。私にはすこし、あるいはまったくわからないものである。このような死者にこれらの言葉がはっせられたのか。それは一般的事項についての常識的な知恵をしめした。あなた方にあたえられる栄光はあなた方が自然にあたえられた特質にとどまるものでない。女性のもっとも偉大な栄光は男たちからほとんどかたられたことがない。それが善であっても悪であっても。では、ここで彼らは何故このような言葉がはっせられたのか、どうとらえたのか。誰でもよいがいつか私に説明してくれる人がいたらありがたいとおもってる。

* 一般像とちがう女性像
これらの情報源からえられる全体像はほぼ正確とおもう。だが、ちがった情報源からえられる全体像とうまく整合しなようだ。それをのべてみる。情報源だが、花瓶にかかれ絵画のような画像芸術、さらにおどろくかもしれないが悲劇、喜劇。これらはアテネにおいて毎年、二つの有名な祭事があり、そこで公演されてた。最後にはアテネの宗教的伝統といえる神話である。

* 強力な人物像
これからみると、公的あるいは私的世界において女性は中心かつ強力な人物として登場する。クライデムネストラ(Clytemnstra)、アイスキュロス(Aeschylus)の悲劇、アガメムノン(Agamemnon)に登場する。彼女は夫である王の殺人の用意をし、彼女の支配にいる愛人の専制政治を打ちたたる。次にエウリピデスのおそろしいメディア、彼女は王たちと交渉し、怒りのなかでおそろしい犯罪をおかす。それはエウリピデスによればその行為とちがい、その怒りは極めて正当と示唆してる。これはおおくのなかから、二つの例である。ここで女性は、中心的、重要で強力で能動的な役割をはたす。けっして受動的でない。

* 悲劇の女主人公、メディア
我々はあきらかに矛盾す姿にぶつかってしまう。それはエウリピデスの悲劇、メディアの有名なセリフにあらわれてる。次にそれをのべる。アテネのディオニドスの祭りでえんじられた劇にある。その女主人公、メディアは外国の女性である。彼女は尋常でない力をもつ。魔女といえる。ハロウィンの魔女を想像してはいけない。彼女の美貌はあなたを魅惑する。彼女は強烈な力をもつ外国の女性である。その劇中で彼女は女性の運命、それはあきらかに紀元前五世紀のアテネの女性の状況を正確に説明してるが、その運命についてはなす。

* 内面の言葉
いきてるもの、分別のあるもののうち、女性はもっとも不幸な存在である。まず過剰な富が我々、女性は夫をかうようもとめられ、我々の体のために主人をもつことをもとめられる。それが一人でなければ、事態はさらにわるくなる。そして問題は深刻になる。どちらがよいか、わるいか。女性はこの状況からの逃げ場をみつけるのは容易でない。あるいは拒否も容易でない。結婚は女性を追いつめる。その行動、身振りがかわり別の世界にうつる。

彼女に預言者のような能力が必要である。それは寝所をともにする夫を自在にあやつるのをまなんでいないならだが。もし我々がこれをうまく、注意ぶかくあやつれたなら、そして夫が我々とともに生活し、夫の負担をともにするなら、この生活は人がうらやむほどすばらしい。そうでないならしんだほうがよい。男が夫婦生活にあきたなら、彼は家をでて、その退屈さをおわりにする。そして友人や同年輩の仲間のほうにゆく。しかし我々は一人、家にとどまることをしいられれる。彼らはなんというか。我々は家庭の平和をたのしむ。だが彼らは戦争にいってたたかう。なんと馬鹿なことか。私は一人の子どもをうむより、戦線の前にでて三度立ちむかうだろう。

これをきいてアテネ人の男たちや聴衆はどうおもったのかしりたい。メディアがえがいた姿、女性は男に従属するものという姿は証拠からよく整合する。だが女性の運命に異議をとなえ文句をいう女性は彼女の名前をとった悲劇において強力で中心的人物であることに注意する必要がある。ところでこれだけでない。アテネ風の演劇のソフィクリ(Sopheclea)の悲劇、アンティゴニ(Antigne)がある。彼女もまた英雄的な女性である。王とその他の人々にさからい正義をつらぬこうとした。その信念をすてるよりむしろ死を受けいれた。これはペリクリースが思いえがいてた女性たちでない。かたることをやめ、放置した女性である。

これは、おおくのアテネ人の前で国の費用でえんじられたものだ。その脚本はアテネの有名な詩人であり演劇家である人物によりかかれた。メディアは中秋に恐怖をあたえた。それと同時に不正義の犠牲者として哀れみと同情をよぶ対象だった。彼女はその善悪をとわず、もっとも男たちによりかたられることのない人物だった。これらの男たちは劇場をでて一週間はメディアのことをかたることだろう。アテネの女性の役割は法がしめすより、もっと複雑であったとしんじる理由がある。女性について相互に矛盾するところがあり、それの充分な説明をもってない私がいえるのはここまでである。私は学界の論爭に立ちいらない。しかしここでのべた分裂は過去の証拠にあらわれてる。我々はさらなる何か、証拠を必要としてる。この両者がどれほど真実かをしるには、ぬけてるものがあるとおもう。次に奴隷制についてのべる。

* 奴隷制
ギリシャ、紀元前五世紀頃から家に付属した奴隷が(chattel slavery proper)はふえていった。社会で重要な要素となった。奴隷の主要な供給源は戦争捕虜、海賊行為による捕虜。彼らは人々を捕獲し奴隷としてうることを主要な生業としてた。もちろん、捕虜となった人々は最初、戦争、海賊などにより奴隷となり、奴隷商によりうられた。アメリカ南部の奴隷とちがいギリシャ人は彼ら自身で奴隷をつくろうとしなかった。あるいは成功しなっかった。

* 奴隷の起源
彼らは奴隷商から買いとるのが典型だった。中国、エジプト、ほとんどすべての文明をもつ人々とおなじく、ギリシャ人は外国人を劣等の人々とみなしてた。そして彼らをバーバリアン(barbarian)とよんだ。彼らの言葉が bar bar のようにきこえたからである。ギリシャ人のためにはたらく奴隷のほとどは外国人だった。ギリシャ人は時には、ギリシャ人を奴隷にすることがあったが、ギリシャ人の家庭でははたらかなかった。あるいはおおくはなかった。すでにのべたが奴隷は農夫たちとともに農場ではたらかせた。これが普通だった。この事情は二十世紀がはじまる前までは事情が同じだった。

* 農家ではたらく奴隷
ギリシャの大多数の農家は小規模だった。貧農では一人の奴隷をかかえれば幸運だった。はっきりといえないが、一人あるいは二人の奴隷をかかえ自分たちとともにはたらいたのだろう。以前にのべたが重装兵士の農家はこの程度だったとおもう。上層の人々は大規模だった。それは自由な借地人に貸す。それは奴隷がたがやし、また奴隷が監督するものもあった。

より大規模の土地をもつ人々はひとつのおおきな農地をもつのでない。私はあなた方に米国南部の状況、一人の農業主のもとに、おおくの奴隷を一カ所にかかえ大規模経営する姿を思いうかべないようにおねがいする。それはギリシャの典型的姿ではない。富裕な農業主は都市国家のなかに散在する小規模な農地をもつていた。このような状況では後代の新世界の綿花や砂糖黍栽培ではたらくような多数の奴隷を生みだす方向にははたらかなかった。そこで奴隷はすこしおかしな表現だが古代の工業ではたらく手工業者のようにはたらいていた。

* 鉱業における奴隷
しかしこのような例にあてはまらないものがあった。それは鉱業である。アテネ南部の鉱山の状況である。ちがった姿をみせる。ニキアス、紀元前五世紀、アテネの富豪は数千人をかかえてた。彼はそれを鉱山開発をうけおう人々に貸しだした。それで利益をえてた。だがこれは例外的な存在だった。これ以外の例はしらない。これが個人がかかえる奴隷の数の最大のものだった。

* 小規模奴隷、盾製造
アテネのもう一つの大規模奴隷の所有は居住外国人の家族百二十人ほどの奴隷を彼らの盾製造工場にやとってた。それはアテネの軍事鉱業複合体だった。ほとんどの製造工場は非常に小規模だった。その工場に一人ないし二人、少数の奴隷だった。ほとんどすべての商業には手工業とおなじく奴隷がはたらいてた。彼らは農業とおなじくその主人といっしょにはたらいてた。もしこれらの奴隷をよくみるとアテネの大多数の奴隷は自由人の手工業者、職人、普通の労働者のようだった。

* 小規模奴隷、商業
店舗にいる彼らもそうだった。というのは多数の労働者を前にし鞭をつかう人はいなかったからである。もし三人がはたらいてたら、一人が所有者でほかの二人が奴隷だろう。相当の数の奴隷が家庭内の従者としてはたらいた。おおくは羊飼いだった。公的にやとってた奴隷としては警察官だった。といってもびっくりしないでほしい。彼らは非常に少数だった。また監獄の監視人がいた。監獄も非常に少数で囚人もそうだった。事務員にもいた。彼らは秘書だった。そのうちの何人かは働きを評価され昇進した。これは普通のことで、商業においていえば、特に銀行にいた。紀元前四世紀のアテネでもっとも富裕な人物に、パジアン(Pazian)とよばれる人物がいた。彼は才能を発揮し自由を金でかった。そして富豪となった。これは奇人伝の話しである。このような例がおおくあるとおもわないでほしい。こんな一面もある。古代ギリシャの奴隷の数である。

* 奴隷の総数は
明確な答をだすだけの証拠がないので、ずっとながく論爭の的となってきた。奴隷の数の明確な数字はない。アテネをのぞいて自由人と奴隷の割合をしめす数字もない。

古典時代の奴隷の人口を証拠から推定するが、それは紀元前五から四世紀における奴隷だが、二万から十万とみる。そこで私は六万人とみてる。アテネの同時代の自由人の推定だが、四万世帯から六万世帯という推定がある。これから私は五万世帯とみる。これから一世帯に二人の奴隷がいて、アテネの自由人の四分の一から三分の一だけが奴隷をもってたとみる。

* 奴隷の分布
奴隷の分布は均一でない。ほとんどの家族は奴隷をもたない。ある家族は多数をもつ。ある歴史家の推定だが、南北戦争以前の米国南部で全人口の三分の一、自由南部人の四分の三は奴隷をもたなかった。奴隷制が南部の経済において需要だったからこれらの歴史家はこんな推定をしてる。古代アテネにおいても同様に重要であり、抑圧的だった。だが私はこの推定にいくつかの問題をかんじる。

その一つは南北戦争以前の南部の綿花地帯との差がある。そこで奴隷の解放はすでにあったが、大量の奴隷人口が有利にはたらく単一の商品作物が経済と社会を支配してた。ところが、アテネのようなところであるが、その経済は複数の作物から成りたち、せまい土地が散在している。そこでは大規模の奴隷制は適合しにくい。また、別の違いだが、奴隷がどの程度、解放されるかとの事情である。南部では比較的にまれであり、ギリシャでは極めて普通のことだった。もっとも有名な例はすでにのべたが、銀行の事務員から身ををこし、かせいで自由を買いとったパズアンがいる。彼はアテネのもっとも富裕な銀行家となった。市民権もあたえられた。だが奴隷自身で自由を勝ちとることはなかった。

* 奴隷の解放
人々はしばしばその死を契機に奴隷を解放した。またたびたび様々の理由で解放した。また、米国南部との違いだが、そこでは奴隷は主人と皮膚の色で違いがわかる。主人は奴隷解放に強硬に反対し、その反乱をおそれる。古典時代のアテネは非常にちがう。そこでは奴隷は街中を階級意識のつよい貴族をおこらせるほどに街中を濶歩する。プラトンがアテネの民主主義について文句をいってる。うられた奴隷の男女の自由は、彼らをかう人々とさほど差はない。紀元前五世紀の無名の著作家がその振る舞いに嫌悪をしめしてる。彼らをこらしめてもよいのに、しない。彼らは人がとおる時に脇によけないといった。

* 寛容な扱い
もし自由人が奴隷をうつことに法的正当性があった時に、アテネ人がしばしば奴隷と間違えられてうたれることがある。自由人の衣服が奴隷と居住外国人とくらべ特にすぐれてるわけでない。アテネ人は奴隷が贅沢にくらすことをゆるしてた。ある者は極めて贅沢な状態だった。

海軍力にたよる状況において、奴隷の労働は必要で金でかう。彼らの働きから利益をえる。奴隷が富裕になってしまうと、自分の奴隷があなたをおそれる必要がなくなる。スパルタでは自分の奴隷があなたをおそれるがアテネでは、もしあなたの奴隷があなたをおそれたなら、おそらく彼の金をつかって危険をさける措置をとるだろう。

馬鹿げたことをいうようだが、言論の自由のなかで奴隷と自由人を平等の関係におく事情である。これはアテネの民主主義になやまされた右翼の人物がはっした言葉のようだ。だがこれが真実をあらわしていて、馬鹿馬鹿しいといっても、それにかわる説得力をもつ考えがないので、否定できないものである。これで私は奴隷がアテネで一定の安心をかんじてくらしてたとおもう。古代アテネでは奴隷と自由人を識別するのが簡単にはできなかった。これは米国南部の状況と対照的な部分である。

* 奴隷解放の例
さらに特記すべきはアテネ人は彼らがもってたすべての奴隷を解放することもかんがえたことがある。紀元前四〇六年、アテネはペロポネソス戦争で敗北に直面した。彼らは軍役にこたえられる年齢のすべての奴隷を解放した。さらにアーグヌゥシ(Arginusae)の戦いに勝利した艦船にのった奴隷たちの市民権をみとめた。二度、重要な時点で、成功はしなかったのだが、同様の提案をおこなった。さて、南北戦争で奴隷を解放し南軍に参加させるという提案を南部政府に提案した人々がいた。だがでるたびにつぶされた。ここで我々はあきらかな違いを両者にみることができる。南部人におそれがあった。彼らは奴隷を信用せず、もし武器があたえられたら彼らに背をむけ彼らをころすというおそれだった。アテネ人はその恐れをまったくもってなかった。私は二つの体制の違いをしめす大事な話しだとおもう。

* 質疑応答、奴隷へのおそれ
では、この主題ではなすことはおわった。七分から八分あるので質問をうける。

学生:どうしてアテネ人が奴隷をおそれなかったのか。
教授:まず、アテネ人は奴隷にひどい扱いをしなかった。なので根本的憎悪がうまれなかった。次に、解放される可能性がないわけでなかった。これらがはたらいて両者のきびしい対立をうまなかった。つぎに、奴隷をアテネ人は自分をころそうとおもってるという感覚をもってなかった。これはおおくの奴隷が家庭にいたことに関係するとおもう。米国南部では家庭内の奴隷は非常にすくなかった。彼らは友愛的あるいはあたたかい感情をうむかもしれない存在である。さらにもう一つの状況がある。アテネの奴隷は主人といっしょになってはたらいてた。監視された集団ではたらいたわけでない。農家の農夫の同僚労働者としてはたらいてた。このような状況すべてが関係した。我々はアテネにおいて奴隷の反乱をきいたことがない。ところが ヘロットがスパルタでは反乱をおこしてた。彼らはスパルタとはちがう。紛争はあったが反乱はなかった。これらが理由となってる。

* 解放への仕組み
ほかに。(質問者の発言は不明)。彼らが技術を習得した時、程度はちがうが米国南部でもおきた。その場合、それだけ生産性がたかまるから主人側の利益でもある。だから奨励し、その見返りもあった。それはふえた利益から一定部分をとっておくことである。これを蓄積して、最後に自由を買いとることにいたる。これは米国南部でもおきたことである。

* 逃走奴隷
他は。(質問不明)
逃走奴隷はいたとおもう。だが私のしるかぎりおおきな問題ではなかったとおもう。米国の場合は、逃走奴隷の扱いをさだめる法律の制定において南北間のおおきな問題となった。私は逃走奴隷はそんなにおおくなかったとおもう。というのは、奴隷がどこににげたとしても、そこにも奴隷制があった。だからアテネからビオーシャににげたとして、彼らはビオーシャの奴隷となる。このことと、すでにのべたがおだやかな扱いが逃走奴隷がおおきな問題となるのをふせいだとおもう。

* アテネとスパルタの違い
他に。学生(アテネとスパルタの状況の比較)。
次のことを指摘しておきたい。ある男が紀元前四世紀の初頭に集団を引きいて反乱をおこした。それは ヘロットとスパルタ兵士(spartiates)でないいスパルタの地にいる人々の集団だった。彼らはよろこんでスパルタの秩序にさからう人々だった。

(以下、裁判についての質問があったようだが、以下は省略する)
(3の3おわり)

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ケーガンギ歴、アテネの民主主義(16、3の2)



* 経験をつんだ聴衆の存在
彼らは日常の経験をつうじてまなび議会における非常に手強い聴衆となる。だがこんな疑問がある。議会における討議である。が特別な知識も能力もない市民がよくしってる人の助けもなしに参加できたか。証拠からみて私はなかったといいたい。というのは議会や五百人委員会には発言したがらない人物がいた。それは経験不足、情報不足、教育不足によるものである。そこには公式に、あるいは非公式にはっきりとした抑止があったからである。

* 勝手な発言を抑止するもの
また、もう一つの比較を紹介したい。私は何年ものあいだ米国の有名大学の学部の会議に出席してきた。そこでみたもの。それは、ほんのすこしだげが発言し、さらにすこしが思いきってする。それは百人をこえない集団で議論されたが、非常な対立をよぶとはおもえない問題につき、賛成あるいは反対の意見をいう時である。

問題の議論が熱情を呼びおこす時で、まれな、あるいはより大規模な会議においての状況はいうまでもない。この学部の会議に出席してる人々は極めて教育水準がたかく、普通人よりはるかに聡明で、公衆のまえではなすのが職業の一部である人々である。会合は規則にそい端正さをもってすすめられる。規則は議事の妨害、個人攻撃を禁止してる。

もしある人があの男は大嘘つきといったら、別の人は彼に説明をもとめ、その発言は個人の名誉を毀損するという。その発言は削除しなければならない。こんなことはアテネの議会ではおきなかった。このような非常におだやかな学部の会合においても発言は非常にすくない。それは何が抑止してるのか。何故か。その答は、あなた方はわかってて、はなそうとしてない。何故か。

* 人々が発言をおそれる理由
何故、あなた方は発言をおそれてるのか。(学生が「愚かとみられれたくないから」と発言)。ありがとう、それが答である。人々は愚かとみられることをおそれる。誰もそれをいわないのにおそれる。それが彼らのやりかただ。これがすばらしい抑止力となる。これを理解してないとアテネの議会がどう機能したかを理解できない。

* アテネ議会の抑止力
アテネにはもっとおおきな問題がある。アテネの議会はしずかでない、時々事件がありそうだ。アリストファネスの演劇でデカイオプリスがピニックスにすわっていったが、大声でおどし、演説者の邪魔をする。プラトンもおしえてくれる。アテネ人が演説者をどのようにわらい、茶化すかを。彼らは必要な専門知識がかけてたのである。

このような非公式の抑止力だけでも演説者の数を減少させたとおもう。だが公式の仕組みもあった。ピニックスでの議論で話しにわってはいろうとした時にすこしかんがえる時間をつくるとか演説者の発言に注意をはらう。これらを促進する措置である。それはたぶんペリクリースの時代のどこか、あるいは彼の死後十五年以内の時点でアテネ人はグラフェ・パラ・ノモ(grae para nomo)という手続を議会に導入した。それは議会の市民を政体の守護者とする効果があるものである。

* 議会の特別な手続
市民なら誰でも五百人委員会あるいは議会においてだされた提案に異議を申したてることができる。条件は現存する法と矛盾するというもの。その申立てはその提案の効果を失効させ、あるいは法案がすでに通過していても法律化を中断させる。その申立人は法廷にだされ、もしそこで否定の表決がでたら、その申立てはみとめられず、彼には罰があたえられる。

* 民主主義、不安定化
三つの事実がある。ある人がこれをやって市民権を剥奪された。議会とその手続が期待するものは、公式、非公式をとわず議論において無知と無能が影響をあたえることを極力さけようとゆうものである。もちろん、無知の低能者がなんら影響をあたえないことがある。我々の社会でもおなじである。ここに一つのより深刻な指摘が民主主義になされるようになった。

ペリクリースにより、不安定さがまし、分派活動や階層間の争いがふえてきたという。それは所有権の軽視をよび、少数の富裕者にたいする多数の貧者の支配につながったという。この指摘は合衆国の建国者の考えかたにおおきな影響をあたえた。彼らは民主主義を拒否した。このことをしかっりしっておく必要がある。だが彼らが民主主義と理解してたのは批判者がいってるものである。

* 民主主義の中断と復活
彼らは意識して民主主義を拒否した。彼らはそれでないもの、大衆的な共和制をかんがえた。その共和制は民主主義とすこしちがうものだった。エフィオルテスとペリクリースによりはじまったより完全な民主主義がはじまった。強固で秩序だった政権は百四十年つづいた。それは二度、貴族政治により中断された。最初はクーデター、くるしい戦いのなかのものだった。四ヶ月つづいた。

二度目はペロポネソス戦争を勝利したスパルタの強制による。 一年たらずだった。それらは、階層間の争い、殺人、追放の報復、財産の没収もなく、より完全な民主主義は復活した。長年にわたる戦争の遂行、敗戦、外国による占領、貴族政治があったがアテネの民主主義は規律と、おだやかさをもって存続した。それは世界に比類ないものだった。
ーーーーーー0511ーーーーーー
この変容は政治と政体の状況にてらして注目すべきものだった。それがペリクリースとその後の時代の民主主義にひろがっていった。だがアテネの大衆は軍産複合体勢力の存在に無縁であり、点検と均衡(check and balance)の政府の複雑さや無思慮なロビー活動、捏造にはしりがちなマスメディアの世論操作の妨害はうけなかった。この点を指摘しておく。彼らは議会がひらかれる日にピニックスの丘にゆき、演説し、投票するだけだ。そこでもっとも過激な社会、経済の変化を生みだしていったのだ。

* 政治的平等と経済的平等
彼らやりたいとおもってることができた。貧民に有利となるであろう債務の取りけし、貧民に有利となる富裕者への没収的税制の導入、少数の富裕者からの単純な土地収用、これらはすべて可能だった。何者も彼らをとめられなかった。だが彼らはやらなかった。法の前の平等が民主主義の基本原則だがペリクリース時代のアテネ人には政治上の平等はあったが経済的平等の場所はなかった。

反対にペリクリースが主導した民主主義は私有財産の保護をはかり不平等な富の分配につき、変更の努力はなかった。陪審員になる時の宣誓だが次の条文があった。私は私的債務を消滅させ、アテネの市民の土地、家屋を再配分させることをゆるさないといった。さらに主たる行政長官は毎年職につく時に宣誓する。職につく時にもっていたものをもち、職をさるまでかえないといった。アテネ人は私有財産を尊重し、経済的平等が行きすぎることを拒否した。これが彼らの民主主義が平和的で、安定し、持続した説明になるとおもう。

* アテネ成功の理由
何故、大多数のアテネ市民は控え目でおだやかだったのか。それは紀元前五世紀のアテネは比較的多数に富が分配されてたという事情があった。これは寡頭政治や貴族政治がおこなわれた都市国家と比較してという意味である。

繁栄拡大していった時期には合理的でおだやかな政治をおこなうことが困難だった。おおくが貧困である時期もそうである。このことからもアテネの民主主義が成功したといえる。しかし常に、極めて富裕な者と何千人もの貧者が存在する。どの時代のアテネにおいても大多数の市民は重装歩兵になれるほど富裕でなかった。それは家族で農業を経営し、歩兵をささえるほどは富裕でなかったという意味である。

それはつまり、おおくの貧者がいなかったとはいえないということ。最貧層は歩兵としての質をたもてるほどの財産もない人々だ。だが彼らが艦船に乗りこみ、アテネに富、力と栄光をもたらした、その人々である。この三十年間は、戦争、疫病、貧窮、敗北の最悪の時代だった。にもかかわらず私有財産権に文句をいわず、経済的平等化として、債務の取消し、土地の再分配のような革命的政策をもとめない。ペリクリース時代のアテネ人は、ただ法の前の平等をもとめたのだ。

* ペリクリースの政治、二つの平等
私はアテネの民主主義をかんがえる時に、基本となるものだとおもう。すべての市民に完全な政治的権利をというのがアテネの民主主義を他の都市国家の寡頭政治、貴族政治と区別するものである。法の前の平等とすべての市民の政治参加という二つの平等により彼らには機会があたえられてる。これらが支配する社会でアテネ人はひどい国難、危機にむかっていった。政治的平等、個人主義をゆるす法、民主主義の堅持、それの寛容な解釈、これこそペリクリースがおおいに貢献し同僚市民にむけ誇りと信念をもってうったえ、その考えを共有したものである。

アテネ人は合理的、世俗的、世界的視点にたって人生に向きあってた。政治的自由、個人自治の重視を大切にしてた。公民としては共和制で、かつ民主主義のもとにくらしてた。このようなペリクリース時代のアテネ人は我々の時代の支配的な考えや価値観に非常にちかい。それは古代からのどの文化と比較してもそうである。それがペリクリース時代のアテネが我々に重要な意味がある理由である。

* アテネ人の特色
アテネと我々を比較して、類似からまなぶところがあったのだが、むしろ違いからもおおくをまなぶことができる。アテネ人は富や財物を評価するが、その地域社会への貢献への参加とそこで評価されることとくらべれば、それほど高貴で重要とはおもってない。彼らは個人の重要性、自己決定権、法がみとめる権利の主張には先駆的だったが、規律のとれた政治の世界に関与することを重視し、自己の精神世界の充実をもとめることを想像できなかった。ペリクリースとその時代の人々を理解するためにはこれらの違いの重要さをもっとしる必要がある。その時、我々はすこし謙虚になってまなぶべきとおもう。アテネ人は古代の人々だが彼らは我々がわすれ、あるいはけっしてしらないことをしっておりしんじてたのかもしれない。彼らはある点においてただしかったのでないかという可能性を率直にみとめるべきとおもう。

* 市民の範囲
私はここまで活発に活動する市民のためのアテネの政体の状況をはなしてきた。この市民は両親が市民権をもつ成人男子である。そこではアテネにすむおおくの人々が排除されてる。そこで二種類の人々に突きはなす。政治から排除されてる女性と奴隷である。両者は古代アテネの非民主主義的側面、我々の基準からみてそうである側面を暴露したいとおもう現代の学者が注目してる人々である。この学者たちはすべての生ける者は平等でなければならないともとめてるようだ。

* 差別の問題
人々が男女間に差別があってはならないとおもってることを私はしってる。奴隷が存在すべきでない。また市民でない人々が市民権をえたりその権利をえられれようにすべきという声がある。人間にかぎられてる保護につき動物にもっと保護をあたえるべきと、ねがうおおくの人々もいる。これらの保護に木々や他の植生をくわえるべきとねがう人々もいる。それでアテネと我々の状況とその判断をくらべてみる。

* 女性の地位
まず女性からはじめる。歴史にあらわれるおおくの文化と同様にギリシャも男性に支配されてた。これはペリクリースの時代のアテネもそうだった。それはまた他のギリシャの都市国家ともかわらない。古典ギリシャの女性の地位についてはながいあいだ論爭の的となってきた。アテネの法、規則、哲学的あるいは道徳的文書あるいは日常生活をや社会組織の情報をおしえる記録、これらから証拠がえられる。

* 女性の公的参加
女性は公的生活のほとんどの場面から排除されてた。 彼女たちは投票できなかった。政治的集会に参加できなかった。公職につけなかった。政治に直接に参加できなかった。ところが、すべての階層の男性は公的な責任をもちそれに参加する機会があった。

* 女性の結婚
女性はわかくて結婚する。十二歳から十八歳、平均では十五歳だろう。夫であるが三十歳を下限としそれ以上で結婚する。女性は常に娘と父親のような関係にいたのが実情である。結婚は常に事前に用意されてた。社会の階層のうえになるほど父親がでて経済的、社会的条件を配慮した結婚が用意された。

社会的地位がさがるとこれはあたらないかもしれない。証拠がないのだが、上層階級より非公式となり当事者間の希望にもとづいた結婚がおおくなるようだ。証拠がある話しをすると、最貧の女性にはあてはまらない。通常、女性は夫を選択する権利はない。女性の持参金は男性の親戚により管理される。離婚は非常に困難である。そのためには男性の親戚の承認が必要で、かりに承認があっても、離婚後の守護者となる意志がなければならない。持参金は離婚の場合、女性とともに返却される。そしてそれはまた元の父親、あるいは然るべき男性の親戚の管理にはいる。

* 跡継ぎをうむ仕事
社会的に尊敬される女性は夫の家族における跡継ぎをうむこと、それが仕事であり責任とみられてる。しかしもし女性の父親の家族に跡継がなかったら、ギリシャ語でエピクレイロス(epikleros)とよばれ、その家の財産を引きつぐ女跡継ぎとなる。その場合、彼女は法定の血縁と結婚しなければならない。それは彼女の父親の血縁で、父親の次の順位の血縁者となり、その家の男の跡継ぎをうむこととなる。男子の子孫のためにはアテネ人の観点からは女性はある家族からある家族に貸しだされる。それはオイコス(oikos)、家族の単位(family establishment)が存続に必要な男子の跡継ぎをうみ、そだてるための目的があるのである。

それぞれの子孫が純粋で正当に継続されることが重要であったので女性は注意ぶかく家族外の男子から分離されていた。また家庭内においても女性専用部分に閉じこめられてた。男子は性的満足を家庭の外、高級あるいは下級の娼婦にもとめることがある。彼女たちのおおくは外国からあつめられた。尊敬をうける女性は家庭にととまり、子どもをそだて、料理をし、衣をおり、家事の監督をした。
(3の2おわり

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ケーガンギ歴、アテネの民主主義(16、3の1)



* 概要
私はここでアテネの民主主義の最盛期の姿を説明する。それはエフィオルテスの死、ペリクリースが改革、この後にできたものである。我々が立法機関とよぶものと、それより重要性がおちるが行政機関とよぶものにつき説明する。その後に我々が司法機関とよぶものを説明する。このアテネの司法機関は現代の目からみるとより奇妙にみえる。毎年、六千人もの陪審員(jury)の表をつくり裁判にのぞむものである。
(16. Athenian Democracy (cont.)、2008/11/20 に公開、Yale Couses)

* 司法機関
ある日のこと、割り振りにより指定された陪審員がある特定の裁判所の特定の裁判にのぞむ。通常の人数は五百一人だが裁判のよっては五十一人であったり千五百一人だったりする。公的か私人間のもの、重要性などにより判断する。

* 陪審員の指名
賄賂や不公平性をさけるため、アテネ人はその指名について極めて複雑なものを作りだした。これで不正を予防しようとしたのだ。アリストートルのアテネの政体(Constitution of the Athens)、その六一章にある。それをよむと複雑さがわかる。彼らはこれでは誰が陪審員となるかがわからず、賄賂がおくれない。それでもやるなら六千人におくることになる。そうかんがえたようだ。そのやりかたは現代のアメリカとおおいにちがう。

* 検察官、弁護士がいない
まず検察官がいない。弁護士のような代理人、法律家がいない。シェイクスピアがよろこびそうな状況である。民事、刑事、公的、私的な問題、大規模あるいは小規模な事案、これらが裁判の事案として受けつけられ私人により審議される。原告(plaintiff)と被告(defendant)、告訴人(suer)と被告訴人(sued)が彼ら自身の声で裁判をあらそう。

* 代言人の活躍
自分の声、自分の言葉でできないならそれをたすけ、その裁判の準備するる代言人をやとうことができる。この仕事はアテネでおおいにはやった。それはペリクリースの時代より後のことだが、有名な裁判の代言人の発言は保存された。その最善のものは紀元前四世紀以降である。

* 判事がいない
次におどろくことである。判事がいない。陪審がすべてである。自尊心のつよいアテネの民主主義者たちはこんな個人の介入をみとめない。彼がどれほど能力があっても、何が重要な証拠であり、またそうでないか。何が適用すべき法か、どのような手続を適用すべきかを差配する人物をみとめない。アテネの観点ではこれは学問や専門性を重要視しすぎてるとおもわれた。それは不正をうみ、非民主主義的偏りをうむとかんがえた。それは誰が判事となるかわかれば陪審員の時とおなじように賄賂の可能性がうまれる我々の社会でかんがえれば判事が賄賂を受けとることはないわけでない。それをさておいても判事が片よってることがないわけでない。The Athenians would have no of that .それで それは関係する法と前例を引用する異議申し立てや、原告と被告のどちらを採用するかをきめる陪審員にまかせるのである。

* 正義と公平の考え
正義と公平さを執行するうえでアテネの民主主義者たちは専門性にほとんど信頼をおいてない。これが民主主義政治におけるもっとも民主主義的特徴である。そこにはすべての人は充分な判断力をもってる。あるいはそれがなんであるかはともかく裁判に重要な判断能力をもってる。それを前提にし、裁判の場においては原告と被告は裁判に必要な陳述の機会があり、反論し、関係する法を提示し、証人をだし、最後にその主張をまとめるのである。

* 裁判の水時計
またアメリカの目からおどろくことである。一つの公判にはさだめられた時間がある。そのための役人がいて水時計ではかる。どれも一日で結審する。最後に陪審員が判断する。判事がいないから当然、彼らは何を検討すべきだという指導、どんな可能性があるかなどの指導もない。陪審員たちは議論しない。
ーーーーーーーー
* 投票で判決
もしかしたらいそうだが、千五百一人ものいかれる男たち、彼らはいない。彼らは単純に秘密投票をし、単純過半数で判決をきめる。罰が必要な場合で、法に規定されてない場合、あるいはほとんど規定されてない場合もあるが、次のようにする。勝訴した原告だが、彼は罰を提案する。ところが被告には対案提出の機会がある。ここで陪審員が議論なしで表決する。陪審員が彼らの案を提出することおはない。あらたに罰をつくることもできない。どちらかの案を選択するだけである。

* 罰のあたえかた
通常は罰はよりおだやかのものが選択される。というのは陪審員は非合理な案をさけるからである。原告が重罰を主張したら、陪審員は相手の罰を選択する。反対のやりとりでもおなじ結末となる。これを批判する意見がある。それではなんでも訴訟に持ちこみたいアテネ人をつくる。アテネ人は訴訟好きかもしれない。だが、この仕組みのなかに工夫がある。

* 訴訟の抑制
根拠のない、合理的でない、おかしな、あるいは無茶な訴えをへらすものである。原告はさだめられた割合の陪審員数の表決がえられなかったら相当量の罰金をはらはねばならない。政府への訴えは政府に、私人間の訴えは被告にはらうものである。たしかに効果があるとおもう。現代の我々の仕組みでも役だちそうだ。たとえば敗訴した原告あるいは被告につき判決で訴訟費用の支払いをめいじることができる。これは馬鹿げた訴訟を防止する仕組みでもある。だがこれはアテネほど徹底してない。あなたが陪審員におおくの賛意をえられなければ、訴訟の費用がかかることになる。

* この裁判の欠陥
アテネのこの裁判にはおおくの欠点がある。先例にしたがわないから判決は奇妙であったり、予測困難なものになる。陪審員は偏見をもってるかもしれない。また陪審員は被告、原告にたいし彼ら自身の知的能力、知識でしか判断できない。彼らは法を不正確に適用する。事件の経緯をゆがめる。我々は法廷において彼らの演説をきかされる。彼らは誰もしらない法を作りあげたりする。また、意味不明の議論を展開したりする。彼らはこの機会を悪用したりする。証拠や関連性にもとづくゆがみのない陳述もあろうが、適切な判事の指導がなく、それが実現するというのは夢物語、出鱈目、空理空論であろう。

* 代言人の主張
アテネの有名な演説家の逸話がある。これは五世紀末から四世紀にいたリシアス(Lysias)の話しである。彼は裁判で代言人として活躍した。ある人がやってきて裁判に巻きこまれた、報酬をはらうから裁判での主張の演説をかいてくれといった。彼は承知した。それで裁判はうまくゆくといった。彼は原稿をわたした。すばらしい演説だとほめた。これでまけるわけないといった。リシアスのドアが再度たたかれた。その男だった。彼は演説を再読した。自分が間違ってるかもしれないが、この論理はひどい。矛盾、飛躍がある。リシアスがいった。落ちつきなさい。陪審員は演説を一度きくだけだといった。

もちろん、論理の欠陥はのこったままでも、現代の目からみてアテネのやりかたはかなりの魅力がある。アメリカの司法制度は批判されるところがある。過大な技術的要件、理解困難な複雑さがある。それは法律家や判事が中心的役割をはたすことからくる。これはまた、司法制度でたたかうために費用がかかり、金持ちが圧倒的に有利となる状況をうんでいる。

* 米国司法の批判
根拠のない訴訟事案を抑止する措置が充分でないので裁判で公判日程が一杯になってしまう。アテネでは陪審員選びに時間をかけないが、ここではかかってしまう。法律上の技術的問題がさらに時間をかけさす。公判処理に時間制限がない。公判がはじまるまで何年もかかる。時には、原告がはじまる前に死亡してることがある。

裁判をうける人々の権利をまもるためにいろいろな配慮がなされてるが、それは手続をどんどん複雑にする。それが裁判に遅れをうむが、誰もがそれを妥当とかんじてるわけではない。時間がかかりすぎると正義のおくれは正義の否定につながる。判事がしめす判決は非常に複雑で、直接的でないので普通の市民には理解しがたものとなってる。

* 市民目線のアテネ
結果、判事や法律家への批判がおおい。また司法制度への信頼もうしなわせてる。これをみれば、アテネの仕組みは短銃、迅速、市民の誰にもひらかれ、理解しやすいものとなってる。そこにはおだやかな罰をうながす仕組みや、不合理な無駄を抑止する仕組みがある。そこには市民と法のあいだを邪魔する技術的問題や法律の専門家による障壁がない。普通のアテネ市民の常識を前提にした仕組みである。全体としてみて、アテネの民主主義の仕組みはペリクリースの時代に最高となったが、すぐに民主主義に反対する当時の人々のきびしい批判にさらされた。

* アテネ民主主義の批判
のこされた文献から、何世紀ものあいだアテネ人を解釈する人々がいる。彼らは民主主義につききびしい結論をだしてる。古代の著作家の攻撃は大衆で構成された会議が政府をうごかす、あるいは公職者を籤引きでえらぶという考えにむけられてる。アテネ、スパルタ、ペルシアと渡りあるいた変節漢、アルソバイアデス(Alcibiades)はスパルタで民主主義につき何もいうべきことがない。馬鹿者のいうことといった。プラトン(Plato)はソクラテス(Socrates)をとおしてもっと完璧に、辛辣に評価してる。

* プラトンの批判
それは家をたてる、あるいは船を建造するようなもの。その時にアテネの議会は専門家のいうことしかきかない。もし専門の能力をもたない人がそんなことに忠告しようとしたら、たとえ彼が非常な美男子で金持ちで、かつ貴族であっても彼らは耳をかたむけない。そして彼を笑い者にしたり、怒鳴りつける。罵倒で意気消沈させたり、提案を取りやめさせたり、武装した兵士に彼を引きはがさせたり、あるいは議長の退場命令で退去させたりするまで、つづける。あなたもアテネ議会に登場し発言することを想像してください。そこで何がおきるかわからない。

* ソクラテスの批判
ソクラテスがいう。議論が国のことだったら、誰が登場していってもよい。大工、鋳掛屋、靴修繕屋、旅行者、船の所有者、金持ち、貧者、貴族、普通の市民、彼らがいっても前にのべたようなことはない。もし彼が知識がなかったり、おしえられてなかったら助言もする。実際、アテネ人は知識、技術、能力、経験の重要さをよくしってる。

これらはたしかに存在し、公共のために活用できることをしってる。彼らは軍の士官、国庫の管理者、艦船の建造者、水道供給の管理者は籤引きできめず、選定する。これらは究極的に生きるか死ぬか、あるいは国家財政の安全につながる問題だからである。それ以外のことでは専門性についておおくは考慮しない。もしかりに彼らが管理や能力の判断のために政治学の教授、哲学者、法律家を選定しないとしたら、

* 政治は専門家がやるのか
それは、これらの分野で役にたつ専門性があると確信をもてないからである。もしそれがあるとするなら、彼らは公共のために間違いなく活用してるろう。この二千五百年のことから彼らが間違ってるという自信が私にない。我々の議会の上院、下院の議員たちのなかで法律をまなんできた人たちが何パーセントいるか私はしらない。だがそれはおおすぎるとおもう。こんなことに我々がだまってすませてることは、実は異常なことととおもう。我々の社会がみせてくれる専門の多様さ、それが政府機関においてはみられないのである。アテネ人はこのような非民主主義的状態をゆるしていない。

* 馬鹿と無能の危険性
次にいえることは、公共分野で馬鹿と無能が重要な役割をはたすことはもっともあってほしくないことだからである。当然、専門性と経験の否定には裏腹の問題がある。それは究極には自分たちが何をはなしてるわからない人々がどんなかたちにせよ影響力をもつという事態を生みだす。これにつきアテネ人は白痴、馬鹿、狂気、その他、のぞましくない要素がつつよい影響を政治にあたえることに警戒心をもっていた。

* 政治の決断の方法
政治の決断、これが何かはっきりしないが、我々はこの点では彼らよりうまくやってるとおもわない。こんなことを思いだす。ウリアム・バックレー(William Buckley)は、ボストンの電話帳から最初の五十あるいは四十人を抜きだし地域の政治をまかせたほうが、ハーバード大学の教授陣よりうまいくいくといってた。これは私も同意する。たぶんエール大学もおなじだろう。

民主主義のうごかしかたをかんがえる時に我々のやりかたが惟一とかんがえる前にすこし時間をとってかんがえるべきとおもう。アテネ人はこの問題にどうしたのだろうか。議会が決断するのは当時の批評家やあなたばがかんがえるよりずっと、うまくうごけないし、その能力もとぼしい。何しろ五千から六千人の人々がいて決断しようとしてるのである。

* アテネ議会の決議
アテネの市民は毎年、開催される会議の最少の半分に出席するなら、二十もの会合で討論をきくことになる。もっとも有能の人々がやってくる。選挙でえらばれた公職者、かってそのような公職についてた人々、各党派を代表する指導者、問題によりえらばれる相当数の専門家、彼らが意見をのべるのである。

これらは真剣な議論である。事前に発言を用意できない。いわゆる政策集といった資料をみるわけにもいかない。本物の議論であり、発言者はむずかしい問題や反対者からの議論に即興でこたえねばならない。反論しなければいけない。真剣な議論の後に投票がおこなわれる。それは討議者と聴衆がつくった重要な結果である。

* 議会傍聴の経験、表決
そこで、その議会の出席者がどれだけの時間、議論をきいたことになるか。それぞれが平均で十年とみてよい。またおおくは、それ以上だろう。そのような経験がつもりつもって、それだけでもすぐれた投票者の集団を作りあげたにちがいない。それは比類のないほどの啓発され洗練されたものだとおもう。このほかに毎年、五百人のアテネ人が五百人委員会に所属する。そこでアテネについての管理運営の経験をつむ。それはささいなことから、深刻な問題にわたるものもある。

* 経験をつんだ判断
議論の基礎であり議会投票の基礎となる法案を提出する。特定の議会の会合には数千人が出席するが、そのおおくがおそらく五百人委員会の仕事をし、いわば訓練をうけてるだろう。このような経験をもってるなら、無知の大衆がおこなった決定という主張は説得力がないといえそうだ。私は次のような例をかんがえる。

十九世紀のこと、人々は音楽会にいく。そこでは聴衆のほとんどは音楽家だった。ラジオもテレビも録音機もない時代だった。音楽がききたかったら演奏しなければならない。ことに女性はそうだが何かの楽器の演奏をまなぶ。演奏ができる。彼らは楽譜がよめ、理解できるが、それは音楽に参加してることからくる。

今日ではこんな状況はほとんどない。ベートーヴェン(Beethoven)、ブラームス(Brahms)のような人が作曲しオーケストラを指揮した。彼らはある意味で専門家といわれ、また充分な教育をうけたアマチュアといえる人々が演奏してたのである。
これが私のいう比較である。職業的政治家、それがいるとして、アテネではまったくかかわらず、またしれない人々を我々はあつかってる。
(3の1おわり)

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韓国、日本資産の売却申請へ



* はじめに
この一日、韓国でいわゆる徴用工訴訟で差し押さえられた日本企業の財産を、原告側が現金化のため裁判所に売却申請をした。これにつき韓国外相が介入しないとの見解をあきらかにしたという。馬鹿馬鹿しいという感想がうかんでくるが、日本政府の遺憾表明や報復可能性の言及にとどまってる現状に、またぞろ微温的処理がおこなわれるのでないかとの疑いがきえない。日本国民として政府が日本企業に不当に損害をあたえる行為に明確な行動をとる必要があると、あらてめて申しあげたい。努力は漏れきこえるが、また曖昧な対応ですまそうとしてるとの懸念がぬぐえない。これについて基本的なことにつき、国民の皆さんに理解してほしい。

* 国際約束にはんしたら政府はどうするか
私が行政法で勉強したことをいう。国の統治行為には行政、立法、司法がある。王様の昔をかんがえると、王様は法をさだめ、それをまもらせる。争いがおきたら当事者の主張をきき、裁定する。近代化をつうじ、立法は議会、司法は裁判所、最後にのこる行政が政府となった。三権分立は近代国家の原則と確立された。ところがこの問題のように裁判所が政府がむすんだ条約にはんする判決をするとどうするか。これは行政が最後の調整をおこなう。歴史の経緯をさかのぼり結局は行政がおこなう。これがみとめられてる。私が勉強した結果である。

* 行政が最後の調整をする
だから、もし日本企業に損害がうまれたら、韓国政府がそれに見あった額を補償すればよい。日本は基本条約でこの種の請求権を消滅させたが、それと同時に巨額の経済協力をおこなってる。日本がとやかくいう話しでないが、充分な財源である。韓国内で処理する問題である。日本政府が韓国政府に是正措置を要求するのは当然であり、それがなされなかったら実効性のある措置、制裁が発動されるのも当然である。心配なのは曖昧な対応ですまそうとする動きである。

* 曖昧な対応ですませるべきでない。
たとえば、日本と韓国の企業が資金を提供しあって、その基金から補償しようという案が韓国の報道にあった。在韓国のフジゼロツクス元会長という人が両国は密接な経済関係にある。たしか運命共同体といった。だから過激な措置は両者にわるいと、まるで韓国の利益を代表するような記事がでた。だがまってほしい。ここで譲歩しても韓国の異常な状態はつづくが、さらにわるくなってゆく動きがある。

* 選挙制度改変で文在寅体制強化
今、韓国国会は対立が激化してる。それは与党側、文在寅政権の支持層が対立する野党の駆逐をねらって選挙制度の改正法案を強行採決しようとしてる。それはどうやら成立しそうだ。こうなると比例区への配分がふえ、野党の基盤とする選挙区が圧迫される。これでは現在の野党が絶対的に不利と予測されてる。このような国会ではまた反日を策する法案がどんどん成立するだろう。さらにへんな話しがある。上級公職者を対象に取締を強化するという法案もおなじように強行採決されそうだ。ようするに政権の都合にあわせ取りしまろうとの趣旨のようだ。今、大統領府はユーチューブを監視してるという。政治学者、藤井厳喜氏が文在寅政権は親北、反日だが、そこに反米がくわわり、さらに社会主義化を目ざしてるようだという。経済であるが、投資が前年比でマイナスとなったという報道がある。これは韓国企業が国内投資をやめ海外脱出をはかってる動きと分析してる。さて結論である。

* 結論
両国は運命共同体、両国共倒論がよくでてるが、韓国に運命をともにしようとの誠実さはかんじない。日本がすこし傾むいてもたおれない。韓国の不誠実さが消滅されないかぎり、制裁を着実にすすめるだけだ。国民の皆さん、私は上で韓国の異常さを指摘し日本政府の当たり前の主張の当たり前さを説明した。私の主張に賛同していただけると、ありがたい。

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MMTの誘惑


* はじめに
平成最後の日にMMT(現代貨幣理論)の話しをする。評論家の中野剛志氏がユーチューブで解説してくれた。米国の下院議員で環境政策をうったえるオカシオコルテス議員が支持をを表明し、にわかに注目があつまった。この学説はニューヨーク州立大学のステファニー・ケルトン教授が主唱するが、異端の経済学としてノーベル賞受賞者のポール・クルーグマンなど既存の権威からつよい批判をあびてる。その内容である。

* いくらお金を発行しても政府は破産しない
日本、米国、英国のように自国通貨を発行しても政府(政府+中央銀行)はデフォルト(債務不履行)しない。いくらでも、好きなだけ支出できる。財源の心配はない。ただ、供給に制約があると、ほしいだけものが買えなくなるのでこまるという問題があるだけ。実に明解な主張、これだけきっぱり言いきった人は日本ではいなさそう。当然だが、では税金は無用か、何のためかとなる。

* 税の目的は財源確保にあらず
政府は納税を自国通貨によるようさだめてる。国民は納税義務をまぬがれるため、自国通貨をつかうのだが、これは当然、ひろがり物品の購入、貯蓄にもつかう。かくしてひろく流通するようになる。通貨の流通に税が密接に関係する。

経済の調整機能につかう。好景気で利益が拡大、税収がふえ、インフレ抑止に、不況で利益がなくなれば、納税がない。これで景気回復をたすける。

政策推進につかう。CO2抑止ならば環境税。消費抑止ならば消費税を導入とか。

税には自動安定化装置が組みこまれてる。好況時の税収増はインフレ抑止とか社会保障(失業保険とか)は不況時には支出がふえ景気回復を下支えし、好況時はおのずからへる。かくして税は財源確保のためでなく、多様な目的のために存在してる。

* 財政赤字は問題でない
当然、こうなれば政府は国債を発行し財政赤字を拡大する。問題ないかという。勿論、無闇な拡大はインフレを助長、だがデフレ脱却が問題の時に何が問題かと主張する。

赤字拡大で民間の預金がうばわれ金利が高騰する。これについては、誤解、間違いという。ここも面白い。

* 貸し出しがあって預金がふえる
銀行業務の実際をみると、このように貸し出しから預金がふえる。個人が銀行に預金する。これを財源にして銀行が貸しだすとおもってる人がおおい。これは誤解、間違いである。銀行は自らの判断で個人の口座に金額を書きこむ。それで個人の預金がふえる。ちなみにお金の種類はいくつか、この預金も立派なお金。これを業界では万年筆マネーとよんでたそう。ここまでいわれると、私にとっ衝撃的な指摘だ。これが国債発行から金利高騰につながらないとの主張になるという。ここでやめる。したにユーチューブを引用しておく。さて感想である。

* 感想
この学説の批判は強烈と中野氏がいってる。既存の権威の圧力にまけそうと弱気をみせる。私はここで既存勢力の肥大化した自己保身をかんじる。財務省である。政府はいくら支出してもデフォルトしない。こんな指摘だったら節約、節約といってた自分たちの立場はどうなるのか。彼らの財政審議会、四月の会合で、MMTに反論する資料をつけてた。財務省とくんでる政治家もおおかろう。選挙民からどういわれるか。財務省のレクをもらって国民の借金は一人あたり、たしか八百万円といってたマスコミもどうか。つぶされた自分たちの面子をどうしてくれるとおもってる。まことに傲慢なことだ。次に銀行である。

銀行は万年筆マネーでお金を製造してた。では町のパン屋さんはどうおもうか。ペン先をこねて百万円を製造してた。それをしった彼らはおこらないか。百万の借金をするのにどれだけ銀行に頭をさげたことか。ここで公平のためにいうが、銀行は金をかして利息をえる。これが彼らの製造物というほうが真実にちかいとおもう。だが雨降りに傘をかさず、天気に傘をさしだす。民間の恨みはつもりつもってるだろう。結論である。

* 結論
経済学の教授、田中秀臣氏はユーチューブで平成はじめに三万八千九百十五円をつけた後にバブル崩壊、その後、今にいたるまで日本はデフレを脱却できなかったという。この十月には消費増税が予定されてる。田中氏も失政を指摘してるが私も同感である。おなじようなことを繰りかえし、あたらしい世界に一歩を踏みださなかった。令和の新時代には一歩、踏みだしてもらいたい。

ユーチューブ:「日本の未来を考える勉強会」ーよくわかるMMT(現代貨幣理論)解説ー平成31年4月22日 講師:評論家 中野 剛志氏


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ケーガンギ歴、アテネの民主主義(15、3の3)


* 対象の限定
アテネ人は投票の権利を制限した。公職につくこと、陪審員になる権利を成人、男子である市民に制限した。奴隷、居住する外国人、女性、男子で二十歳以下にはあたえなかった。現代の評論家はペリクリース時代の民主主義を批判する。ペリクリース時代の民主主義に疑問をていする。彼らは奴隷が存在し、女性の権利を制限してるという。このような権利の排除だが、文明がはじまった紀元前三〇〇〇年頃から他の文明にも同様にあったものでありアテネが特例でない。これは最近までつづいた。この批判のような近視眼的視点があることは興味をひくものでも、おどろくべきことでもない。

アテネ人がやった排除より重要なことがある。例をみないほどの大規模な人々をふくめたことと、その人々の参加の意義の重大さと、参加がもたらす成果の偉大さである。ここで有用なこととして指摘しておく。それは米国のジャクソン民主主義とよばれるものであるが、その最盛期には奴隷制度と共存した。二十世紀にいたるまで女性の選挙参加への権利は否定されてた。また年齢にかんしては、なおも制限がつづいてる。

おおくを排除してるとしてペリクリースの民主主義を否定することは、偏狭な価値観と時代錯誤の立場にとらわれてる。それは思いもよらぬ不幸な結果を産みだす。すくなくとも現代のギリシャ人は誰もアテネの民主主義を否定してない。ならば後にのこるのはそれがよいか、わるいかだろうが、現代の我々がかんがえることではない。ちがった立場からみてみよう。米国や英国が民主主義だというのをきいて、当時のアテネ人はおどろくだろう。

* 現代とちがう民主主義
彼らにとっては、民主主義の中核には、直接で完全な主権(sovereingty)がある。それは市民の過半数が代表するものである。とおれおが現代の特徴をみると、政府はその代表がおこなうこと。それの点検と均衡。権力の分離。重要な職の任命、選挙でえらばれない官僚組織、裁判官の終身任期。一年以上の任期をもった役職の規定。これらはすべてあきらかに合理的精神をもった市民が民主主義と理解するところに敵対するものである。古代と現代の考えかたに違いがある、その理解にはアテネの民主主義がどのように機能したかを簡単に検証することが必要となる。それはもし我々が偏見をすて世界の歴史でまったくまれな政府のありかたの特徴を把握しようとするなら、必要になってくるとおもう。そしてアテネの自治がおわった後に、どのようなかたちでも存在したことはないだろう。

* テネの行政、立法、司法
では時代を無視した分類だが、政府の機能は三つの機能、立法、行政、司法にわかれ、これをもとにかんがえてみたい。アテネの民主主義で立法とよぶものは議会、エクレシア(ecclesia)とよぶものだろう。これはペリクリースの時代においてはアテネの成人男子が参加するものである。これは四万から五万人のおおきさである。彼らのおおくは都市からはなれてすんでる。ほとんどは馬をもたない。だから議会出席には長時間の徒歩が必要となる。だから、実際の出席は五千から六千人だったろう。

* 議会の定足数、場所
ある活動についての定足数がさだめれれてる。それにはすくなくとも六千人の投票者が必要となる。これはそれ以上かもしれないが、そう以下であったかもしれない。会議はピニックス(Pnyx)とよばれる丘のうえでひらかれる。アクロポリスからそうとおくないところで、市場(アゴラ、agora)を見おろすところにある。市民は傾斜のつよい丘の土のうえにすわる。発言者はひくい場所にある舞台のうえにたつ。その声がきこえるようにするのは困難である。ここは戸外で、拡声器などない。紀元前四世紀の偉大な演説者、たとえばデモステネス(Demosthenes)は波がくだける音がひびく海岸において演説の練習をする。その練習をつうじてピニックスで声が充分にきこえるようきたえたという。おおきな声はアテネの政治家には貴重な資産だった。

* 議会開会の様子
議会開会の様子を今にのこってるアリストファネス(Aristophanes)の喜劇から想像することができる。紀元前四二五年にえんじられ題名はアカニアンズ(Achanias)である。そこに典型的な彼の喜劇の主人公が登場する。田舎からでてきた古風な老農夫が戦争に文句をつける。彼はそのため田舎の農場からアテネにまでやってこなければいけなかったからである。年齢は六十歳である。

* 喜劇がおしえるもの
一文を引用するが、その日は議会がひらかれる日である。彼はピニックスの土のうえにすわってる。まだ誰もきてない。彼がいう。

「もう議会が開会する日がはじまってる。誰もこの丘にきてない。あいつらはまだ市場(いちば)でお喋りをしてる。あかい液につけた縄をもってウロウロしてる」

アテネ人はいつも都市のセンターや市場からでてこない。おくれるとされてる。そのため役人がいて、彼らはお喋りに夢中になってる人々を追いだすため、あかい染物の液体につけた縄をもって彼らを追いだす。そして市場には誰もいなくなる。彼らはあかい液がつくのをいやがる。縄が近づくとにげる。それで彼らを追いだし、誰もいなくなるわけである。彼がいう。

「議会の議長もまだきてない」

そして議長があらわれ、やってきた。彼らは前列の席をあらそって大騒ぎをする。誰もしずかにと注意する者がいない。

「なんて奴等だ。いつも私が一番最初にここにくる。 席をとる。私は一人だから、うめく。あくび、足をのばし、屁をする。何をしようか。書きものか。髮を櫛でなでる。家計簿をつけるか。私の農場のほうをみるか」

「平和が一番。町はいやだ。村にかえりたい。ここで炭をかう、油も、名前がわからないがただのも。それでここにきた。思い切りさけぶ用意ができてる。発言の邪魔をする。もし平和以外のことをいったら、発言者に悪口をいう。でも、もう昼だ。議長、どうする。」

誰もが前列の席にやってくる。議会の役人がやってきていう。

「ここは駄目、さだめられた場所に」

そして議会の開会を声たからかに宣言する。次にいうのは簡単なものである。

「発言をもとめる者は誰か」

誰かが手をあげる。そして会議はすすむ。では喜劇の話しはおわり。ピニックスでの実際の会議はこんな喜劇でない。彼らは深刻な問題をあつかう。さだめられた会合がある。一年を十にわけた会期がある。必要なら特別な会合ももつ。

* 会議の詳細
その議題である。条約の承認また不承認。戦争の宣言。ある作戦への将軍の任命。派遣する軍の決定、それにあたえられる兵員、装備の決定。ある役職につく人物の承認、それの罷免。陶片追放をするかどうかの決定。宗教にかんする問題。遺産の問題。議会に持ちだされるもの、なんでもである

* 直接民主主義の姿
現代の代表制民主主義の市民にとって、このような大都市の会合のやりかたはおどろくことばかりである。そこで議論してる出席者たちの生死やその都市全体にかかわる外交政策の問題を直接にあつかってるのである。古代と現代の民主主義の違いをみるのに非常時の対応をみてみよう。

* 非常時の問題での対応
たとえば米国大使館が奪取されたとしよう。その最初の情報は複雑で巨大な組織である情報機関のある部署に秘密情報としてやってくる。それはもしかしたら政府がしる前にCNNの報道としてあらわれるかもしれないが、それは極秘情報である。ホワイトハウス、国務省、国防省のかぎられた一部の人たちにのみしらされる。

その政策も国家機密の保護から秘密としてあつかわれる。少数の集団のなかで議論され、最後に決定は一人の人物、すなわち米国大統領によりなされる。もし秘密がもれなければ、決断が公表された時にはじめて人々にしらされる。この例は典型例となってるキューバ・ミサイル危機である。そこでは秘密がまもられた。

新聞も近年は国の安全保障のために秘密をまもる。そのようなふるいやりかたで何がおきるか。関係部所で問題は一週間ほどころがされる。大統領がテレビにあらわれ、現状にどのような脅威があるかを説明し、どうしようとしてるかを説明する。もはや議論するにはおそすぎる。だがこれが我々の政治でおこなわれてることである。ペリクリースの時代には戦争か平和の問題がアテネにおいてもあった。そのたびに議会がひらかれ市民のまえで議論された。そして単純多数の投票により決議がなされた。これが厳密におこなわれたのか、このような重要な問題においてアテネ市民が完全で最終的な決定権を行使した。そんなやりかたをすることになってたという以上のたしかな証拠を私は見つけたわけでない。

* 五百人委員会の機能
数千人の構成員からなる議会が助けなしで、その任務をはたせない。そのために五百人委員会の助けをえてる。それはすべてのアテネ市民から籤引きによりえらばれたものである。それはおおきな組織では対応できないおおくの公務をはたしてるが、その主責任はこの点で立法の準備作業をすることである。五百人委員会は議会を輔助する機関であり、議会は彼らが作成した法律案を投票にかけることができるのである。

議会は再作成をもとめる指令をつけて送りかえすことができる。まったくの新法律案で置きかえることもできる。大衆の権威が完全な決定権(sovereignty)とその実効性、これがピニックスにあつまった議会の働きとして直接に機能してる。彼らがやりたいとおもったどのようなことも、その日からそのようにうごけるのである。

*行政の単一責任者の不存在
行政、我々がそうよべる行政についてみる。古代のアテネにおいて、こう区別してたわけでないが、我々の理解をたすけるため、これを区別して説明する。我々はこの行政を判断力と実行力もつものとして厳密にしぼってかんがえる必要がある。行政と司法の区別は現代の区別よりさらにはっきりしない。まず、責任者として大統領、総理大臣はいない。内閣もない。どのようなかたちにせよ国家を運営し、責任をはたす選挙によりえらばれた公職者はいない。政策一般を提案する責任者はいない。

米国人が政府(the administratio)とよぶものや英国人が政府(the government)とよぶものはない。十人の主たる公職者としてえらばれた十人の将軍がいる。彼らは一年の任期でえらばれる。その名前でわかるように彼らはおもに軍事の公職者である。彼らは陸軍や海軍を指揮する。彼らの再選は制限されないが、キーマンやペリクリースのような長期の再選は極めて異例である。

* 将軍の権能、評価、点検
彼らが発揮した政治力は議会の同輩市民を説得し、したがわせる個人的力である。彼らは陸海軍の作戦行動をのぞき特別な政治的、行政的権能をもたない。これをのぞき誰も命令する権能がない。将軍としての権能だが、きびしく制限されてる。外征作戦の指揮官は議会全員の投票によりえらばれる。

また議会は派遣軍の兵員、したがうべき作戦の目的をきめる。選出のまえには五百人委員会により、その能力、資格について審査をうける。その任期を満了した時には、その業績について審査をうける。特に、彼らの財産につき会計検査をうける。ユスナ(euthuna)とよばれる。

えらばれた人たちによる審査だけでなく、一年間に十度、議会全体から一年間に十度、将軍は評価をうける。もし満足できないと表決されたら、彼らは法廷で裁判にかけられる。そこで有罪とされると罰や罰金をかされる。もし無罪ならもとに復職する。彼らには特権があたえられるから、彼らが人々の支配にはんしてないかを慎重に審査する。これらの手続の裏にあるものである。このようなきびしい審査をようする公職者には、陸海軍、海軍の船建造、国庫の管理、都市の水道施設にかかわる公職者である。だが他のおおくの公職者については籤引きによりえらぶ。このようなやりかたはアテネ人が民主主義の支配的原則として平等を重視してることからくる。

* 籤引きによる公職者の選定
それは市民としての責任をはたす能力がある市民は充分にいるとの考えである。さらに行政の権能を少数の人間にゆだねる危険性への恐れがある。それが彼らの有能さ、あるひは経験をみとめても恐れをもってることでもある。この理由からアテネは相当量の公職を籤により割りあててる。一人にあてる公職は一度かぎりと制限してる。ただし例外には五百人委員会がある。それはその生涯につき二度である。将軍の再任には制限がない。これはその技術と能力がその職の必要不可欠の部分だからである。任期が非常に短期であることをのぞき、これが本当の例外といえる。現代の目からみておどろくべきことだが、アテネ人は公的活動の管理からは、教授、専門家、専門職、官僚、政治家をとおざけてる。これ以降は次回にはなす。

(3の3おわり)

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