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GDP、1.4パーセント増は内閣府の嘘か [バカにされないクスリ]


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* はじめに、GDP1.4パーセント増のまやかし
ラジオのおはよう寺ちゃんの話しである。内閣府が発表したこと。七月から九月期のGDP速報値が実質で0.3パーセントの増。これを年率換算すると1.4パーセントの増となる。これは七四半期連続、およそ十六年ぶりのこと。これに捕捉説明がつづくが個人消費が天候不順などで低迷。だが外需がこれをおぎなったという。私はよかったとおもった。

* 京都弁の経済学者、藤井さんんのふかい解説
だが前日、ボジョレ・ヌーボをのみほぼ徹夜、このスタジオにきたという経済学者の藤井聡氏の解説はちがう。機嫌がわるいのか怒気がある。内閣府のホームページからエクセルの表をみた。日本の需要は内需が99パーセントであるが、GDPが五百三十二兆円から五百三十一兆円と約一兆円へってる。これは我々の総所得がへったということ。1.4パーセントふえたとの記事はある種のまやかしと断言する。へえっと寺島さん。

まやかしの説明である。まず輸出と輸入、輸出がふえて輸入がった。我々が買う気がなくて外人に売りとばした。景気がさがりはじめた時には外需がちょっとふえる。これは目まいみたいなもの。で、一兆円へった。これは国民一人当たりにすると八千から九千円へったこと。それだけ我々は貧乏になった。四月から七月期にくらべてそう。で、物価もみてみる。

ちらっとみたら二パーセントのマイナス。日銀の二パーセントというインフレ目標からみたら差引四パーセント。目標未達成だ。一般の人にはわかりにくいところがあるがGDP。物価がさがったからGDPがちょっとさがっても割合でみる伸び率は1.4パーセントの増になっただけ。この新聞記事はGDPがふえてる。ありがたいという記事。だが現実はちがう。このまやかしの種あかしは三分くらいの仕事だった。経済記事をかく記者は内閣府のエクセルをみておけといった。寺島さんが代表してあやまった。藤井さんの結論である。日本はデフレ。で、どうすればという質問に政府の財政出動しかないといった。さて感想である。

* 経済に関心がある素人の感想
経済に関心があるが素人の私が内閣府のエクセルをみて珍紛漢紛、藤井さんのようにいかない。寺島さんの仕切りにのっておこなう藤井さんのたくみな説明をきいて納得した。私も最初はありがたいやっとデフレん脱出がみえてきたとおもった。でも藤井さんの話しからは経済担当記者も私とおなじかとおもった。ここからは私の推測である。内閣府の発表には定型がある。彼らはそれにしたがう。それ以上のふかい分析は自分の所管ではない。エクセルの表をみれば何もかくしてない。そこからデフレ脱出できるかどうかは関心をもつ者の仕事。まさに新聞記者の仕事でしょう。こういったところだろう。さて結論である。

* 結論
私が心配するデフレ脱出の問題意識にこたえてみごとに解説してくれた藤井さんに感謝する。それにしても社会の窓である新聞記者がこの程度か、とおもう。国民の皆さん、だまされないようにしましょう。

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加計学園、足立さん、朝日死ね [バカにされないクスリ]


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* はじめに、加計学園で朝日、死ね
日本維新の足立康史氏が国会で加計学を追及する野党を批判した。証拠もだせず国会を空転させる姿勢に過激な発言がでた。希望の玉木雄一郎氏、立憲民主の福山哲郎氏は獣医師の団体から献金をもらった。そんな人に疑惑追及の資格があるか。また岩盤規制の打破を仕事とするのに石破四条件をつけた石破茂氏も献金をもらったと批判した。金をもらって利益をはかった。三人を犯罪者とよんだ。また足立氏や今回の設置認可を批判した朝日新聞に自身のツィッターで「朝日死ね」といった。その過激さを説明するのに、かって朝日が「保育園おちた日本死ね」をさんざん持ちあげたとした。

* 正論に喝采するネット民、犯罪者は撤回
ネット民のおおくは喝采をさけんでるが日本維新に関係がふかい橋下徹氏は死ねは駄目という。またこの発言が飛びだした委員会の委員長にこの三氏の追及をもとめたが首をかしげられた。この委員長は自民である。さて足立さんの損得は。

* 足立さんの損得勘定
マスコミの偏向報道はネットで根づよい。だが悪口だが「情弱」という層の人たちはそのテレビや新聞でしか情報をとらない。だから加計学園の偏向報道批判もとどかない。だが犯罪者や朝日死ね発言でマスコミも報道せざるをえない。注目をあつめネットで簡単にしることができる情報がこの人たちにとどく。発言は撤回し謝罪したが批判はやめないという。自業自得の朝日とはどうなるか。こうみれば充分に勘定があう。

* 大人の風格、自民党
自民党は大人(たいじん)である。安倍一強でも謙虚さをわすれない。過激な犯罪者発言には同調しない。私は日本の政治は二大政党制ならぬ一大政党制といった。ここで野党はひたすら与党を批判する。右にいったら左にいかなかった。左にいったら右にいかなかった。これは野党が政治に不満をもつ人々の受け皿となってるからである。駄々っ子のような野党にひたすら低姿勢をつづけ足立さんのように反撃しない。ネット民がよくいってくれたというのに自民党はしない。一大政党制で与党をつづける由縁である。

だがそれでいいか。ギリシャの神話に正義の女神がでてくる。彼女は天秤をもつ。両方の重みをはかって正義をしる。甲論乙駁があり事実の釣り合いがわかる。これで国民に何がただしいかがみえてくる。大人の風格をまもられても真実はみえない。結論である。

* 結論
私は安倍さんのお友だちと献金のお友だち、どちらがどれほど悪いかしりたい。国民の皆さん、足立議員の過激であるが国民の素朴な疑問を受けとめる。それにこたえようとの姿勢を応援してあげてください。

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加計認可は妥当 [バカにされないクスリ]


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* はじめに、ついに加計学園、来年春、百四十名で開学
加計学園獣医学部は来春の開学にむけ設置が認可された。入学定員は百四十名という。希望の党、玉木雄一郎氏を筆頭に野党が批判。手続がおかしい。石破四条件をみたしてない。これにたいし政府は手続に瑕疵はないという。私は妥当だったとおもうのでその事を説明する。

* 認可とは、本来自由、国が基準で認証、文科省が合理的規制も
まず、行政法を勉強した。学校の開設のような事業を認可するとは国民が自由にやってよい事業を政府が一定の基準をみたしてると認証すること。諸般のことに学問的解説をおこなう武田邦彦氏がいう。米国では基準をみたせばどんどん認可する。後は自由競争にまかせ入学者なければつぶれるまでと。だが日本では国が私学助成してる。税金の観点から政府が合理的理由で規制をくわえる余地がある。これは妥当とおもう。特区申請の話しである。

* 特区は文科省が立証責任、石破四条件
ところで認可申請は本来自由。だが文科省が岩盤規制で申請拒否してた。それであらたに特区制度をつくってこれでみとめられたら申請をみとめる。これは申請だけ認可をみとめるのでない。それは文科省がきめる。こう高橋洋一氏が説明してくれた。ところで石破 四条件。これをみたさないと特区はみとめないという。これがまさしく野党の主張。高橋さんが主語をわすれてるという。規制官庁が規制を維持する(ここでは設置申請を拒否すること)。これが合理的と説明する。もしそれができないなら規制をやめるという特区制度のなかでもうけられたもの。この条件が頭にある文科省は諮問会議分科会で申請拒否を非とする主張に特に反論しなかった。だから申請がみとめられたと高橋さん。

ちなみに石破氏は特区担当大臣であり学部設置を認可する文科省大臣でない。条件は特区申請につけられたもの。設置認可にはついてない。では百四十で認可したがこれは適当か。

* 百四十の認可は妥当か
当初入学定員は百六十だったものが百四十と。これは実習実施で問題との指摘をうけた措置。なお当初の数字はアンケートをとり需要を確認したものと朝日の記事にあった。ちなみに何名がただしいか。日本は計画経済の社会でない。そんな数字をしめせる役所はない。税金をだしてる以上議論が必要だが上記程度の根拠で認可となった。

* 行政訴訟、申請拒否できるか
加計学園 は申請を受理しないのは不当と文科省で行政訴訟したらどうか。まず申請の拒否は敗訴の確率が極めてたかい。その結果、申請がみとめられ内容の審査が問題に。需要見込みをつよくもとめる声があったが実際は上記のとおり。では何故加計学園が訴訟に踏みきれなかったのか。

* 行政訴訟は定着せず、特区の機能が代替へ
日本では欧米のように行政訴訟は定着してない。争いをきらい穏便な処理をよしとする風土である。特区にかかわる県の担当者がいってた。この制度があってたすかった。以前は関係省庁にいっても話しをきいてくれるのほせいぜい係長である。ところがここに持ちだせば課長補佐、課長、必要なら局長まで引っぱりだせる。しかも特区推進の役所、つまり内閣府の役人、有識者が同席する会議で話しをきいてもらえる。これがなければ実現できなかったという。

ちなみに行政訴訟をしない方がわるいとせめる声があるかも。だが自己主張がつよい欧米にあわせる必要はない。風土にあったやり方もある。さて結論である。

* 結論、半年疑惑ででなければ別の問題を
認可は妥当である。上記の高橋さんもいってた。半年たって疑惑の証拠がでなければやめる。そのとおり。国会はそれほど暇じゃない。国民の皆さん、野党の政治家にはやく疑惑の証拠をだせといってください。

* ちょっとかんがえた
やっと認可が決定され事実がでてきた。あらためてかんがえたが石破 四条件がすっきりしなかった。そこでかんがえる。文科省が認可する。あらたにできた特区申請とちがい昔からあった制度。石破さんは四条件で申請させなくするといったそう。だがもし行政訴訟をおこされれば文科省が敗訴し申請は可能となる。行政訴訟があろうがなかろうが文科省が申請を受理して問題があるか。既得権につながる政治家や関係者がさわぐだろうが制度上は問題ない。そもそも岩盤規制を突破しようとする石破担当相が逆行するような条件をつくれるか。前川前次官は文科省においてもこの条件で審査せよといってたが、これは素人相手の詭弁では。石破 四条件に意味があるか。実際は担当の内閣府も規制官庁の文科省も反対せず申請が実現した。意味があるとおもった石破さんの思惑を二つの官庁はほぼ無視した。どうやら役人が一番事情をしってるようだ。そっちょくな声がききたいものだ。

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スパルタの栄光、その三、栄光から崩壊 [英語学習]

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* はじめに
シラキュースにおいてスパルタ王が指揮するシラキュース軍がアテネをやぶった。さらにペルシアの資金で強化されたスパルタ海軍がアテネをやぶった。アテネの防御壁が破壊された時にスパルタはアテネにかわってギリシャの覇者となった。だがその栄光はながくない。奴隷制にたよった軍事国家は内部崩壊してゆく。あらたに登場したシーブスとの戦いにやぶれスパルタ軍はほぼ消滅した。シーブスが奴隷を解放しスパルタの栄光は完全にきえた。ここではスパルタの栄光と崩壊をあつかう。

(The Spartans - Part 3 of 3 (Ancient Greece Documentary)、Timeline、World History Documentaries、2017/08/28 に公開)

* デルファイの神託
ここはデルファイである。古代ギリシャにおいて宗教的に非常に重要な場所である。ギリシャ人にとってここは世界のへそ(中心)である。まだ天と地がはっきりとわかれていなかった太古と今をむすぶへその緒のようなものである。デルファイは神託で未来をのぞく窓となる。神託は精神世界との交流から日常生活の助言にいたる多様な人々の必要にこたえてくれる。恋愛問題から外交問題まで人々は神託をもとめてやってくる。この夏にアテネがあるアティカに侵入してよいか。レアンドロあるいはレオニダスと結婚してもよいか。その答は奇妙な現象のなかからやってくる。それは年おいた女神官、預言者の老女からやってくる。彼女はわかい処女の服装に身をつつんでいる。

彼女は薬物の効果により自分自身を興奮状態におく。幻覚をおこさせる草を口にふくみ月桂樹の葉のうえで毒性のある草をもやして、その煙を吸いこむ。こうして自分自身を興奮状態におく。そしてうわ言を口にする。そこに神意が吹きこまれたようにみえる。彼女の発言を男の神官が書きうつす。うつくしい詩文にかえる。これが神託である。

* 神託をおそれるスパルタ人
神託は難解である。その真意は事件がおきた後にあきらかとなる。これがよくおきた。そしてこれがたぶん紀元前五世紀頃にすこし時代遅れとなってた理由だろう。ギリシャでは懐疑主義や合理主義のあたらし思想はまだはいってない。これは人間と神と宇宙が存在するという根本的信仰に疑問をもつというものである。アテネで 哲学者は太陽をあかくねっした岩とかんがえ劇作家のアリストファニは雷を宇宙が消化不良をおこしたわるい例だといって冗談にした。しかしギリシャでアテネ以外のどこでもこのような考えかたはなかった。

スパルタ、ユラテスの谷は安全で事件がない。ここでは神は天にいましてすべて世界はこともなしとしんじられた。スパルタはかって革命的な社会であった。それは二百五十年前のことである。今やそれがつくった社会体制は固定化しかえることのできない伝統となった。スパルタの選良たる戦士は変化に臆病となり新規のことには敵意をしめすようになった。十年間、スパルタはアテネと戦争状態にあった。アテネは革新的な民主主義を生みだし、ますますデルファイの神託に懐疑的となった。ところが保守的なスパルタの人々にとりその価値はゆるぎないものだった。女神官がかたることを彼らはつつしんできいた。だからもし紀元前四一五年にスパルタ人がやってきてスパルタの未来について神託をもとめたら、そして女神官が神託をつげたなら非常に憂慮すべき知らせを持ちかえったろう。スパルタはその最大の敵、アテネの壁が破壊されるのをみるだろう。勝利のよろこびが爆発するだろう。だがその勝利も腐敗し最後にはきびしい敗北となるだろう。

* アルソバイアデス、シラキュースとの戦いを主張
スパルタとアテネの戦いは流血の惨事である。どちらがかったときめがたいものだった。十年の戦いが多数の死者をだしたが決定的なものでない。アテネの悲惨な疫病と屈辱的なスファテリアにおけるスパルタの降服の後に両者は一時休戦の協定をむすんだ。だがこの協定の六年後にはなばなしくもシラキュースとシシリーで戦いがはじまる。ギリシャから数百マイル(百六十キロメートル)はなれたここで、アテネは大敗北をきっした。ギリシャのすべての都市が地中海およびそれをこえる領域で植民地建設に乗りだした時代、シラキュースの都市も建設された。

この戦いにおいてギリシャの世界は二つにわかれた。それはスパルタとその同盟、それにたいするアテネである。紀元前四一五年、アテネにおいて戦争の気運がたかまった。その議論の焦点となったのがシラキュースである。その戦いを主張したのはアルソバイアデスである。彼は頭がよく美男子で野心的だった。典型的なアテネ人だった。彼には大衆人気があった。当時のアテネにひろまってたあたらしい思想の潮流にのってた。ソクラテスは彼の友人だった。彼の政敵は彼が無神論者であり神を冒涜してるという噂をひろめた。アルソバイアデスは美食家で酒をのみ美女をあいした。ソクラテスの忠告をきかなかった。アテネを疫病がおそった時に神を馬鹿にする言葉をはっしたという噂があった。だが彼が戦争をかたる時に市民は耳をかたむけた。

スパルタとアテネの戦いをかんがえる時、スパルタが好戦的にみえるが、かならずしもそうではない。アテネはその帝国主義の野心をみたすことに貪欲である。また戦いに賛同する三万人のアテネ人をみつけるほうが戦争に賛同する一人のスパルタ人をみつけるより容易だという。アルソバイアデスが好戦論を主張する時に彼は充分な手応えをかんじることができた。

* アルソバイアデス、スパルタに逃亡
艦船がうごきだす前に事件がおきた。神を冒涜する事件がアテネをさわがした。そのいたるところでエルメスの神像が破壊された。夜のあいだに何者かがおこなったという。上品な言い回しでは鼻がかけたというが事実は男根の破壊だった。アテネの将来に不安をなげかけ盛りあがった戦争気分に水をさした。不吉な予兆があらわれ犯人さがしの声があるなかで艦船は出発した。そこにはアルソバイアデスものってた。

彼の政敵は彼の不在を利用した。彼の名声をおとしめ、わるい噂をひろめた。その結果、アテネの当局は彼の召喚命令をだした。陰謀の罪、涜神の罪にとうためだった。アルソバイアデスはアテネ市民が噂に迎合する無定見さをよくしってる。彼自身もまた自分の目的のため世論を操作してた者である。彼の主張をまともにきいてもらえる可能性はひくいとおもった。逃走することにした。その行き先はなんとスパルタだった。そこににげて彼にどのような成算があったのか。彼は大衆政治家である。大衆受けする振る舞いはできる。スパルタでは衣服はみすぼらしい。生粋のスパルタ人にとっても食事はまずい、しかし彼はスパルタとあいいれない人物ではなかった。彼の背景をさぐると関係がありそうだ。彼の家族もアテネの貴族階級の人々とおなじようにスパルタと関係があった。彼自身もスパルタ名をもってた。彼はスパルタ人の養育係にそだてられてる、彼自身のスパルタとの関係にはこいものがあった。

* アルソバイアデスの恋愛事件
しかしスパルタの大衆は彼のおそるべき魅力にも心をうごかされなかった。だが噂によれば彼は王の妃、ティメヤを魅了したようだ。スパルタの性についての倫理観は奇妙なものだった。スパルタ以外のギリシャでは不倫は罰をうける罪である。しかしスパルタでは既婚女性がもし夫の同意をえるならば夫以外の男性を愛人にもつことができる。それはフリーセックスというわけでない。スパルタにおいては人口減の問題が 深刻であった。そのため一夫一妻制や核家族といった考えは重要でなかった。大切なのは健康な男の子どもをうむことだった。そのためにつよくて勇敢で多産な男性をもとめることがあった。これが本当か王が同意したかしなかったのか、たしかでない。だがこの問題はアルソバイアデスがスパルタをでていったあともながく問題としてのこった。

* アルソバイアデス、スパルタ王にシラキュース遠征をすすめる
さてアルソバイアデスは自分を受けいれてくれたスパルタにお返しをした。。彼はシラキュースにおいてスパルタと同盟しようとする人々に援助をあたえるよう助言した。これは従来のスパルタの発想ではまったくでてこない革命的だった。彼は説得してまわりジュリペス将軍がおくられた。それは費用をかけず海外に自国の防衛軍をおくる方法だった。これはアテネの数千人の兵たちには致命的打撃となる助言であった。

* アテネ、シラキュースで大敗北
王の遠征は最初から順調だった。ジュリペスが到着してからアテネにとり事態は不調となった。ジュリペスは彼自身がすぐれた戦略家というわけでなかった。しかし敵に包囲されたシラキュースの人々にとってスパルタの戦士がいる、そのことだけで士気があがった。彼らの反撃がはじまった。アテネは補強部隊をおくらねばならなかった。丘のうえにある砦に大規模な夜討をかけた。すこしずつ頂上にむけ前進していった。ある時点で彼らの攻撃が成功したようにみえた。夜明けとなった。アテネの兵たちは疲れはてた。彼ら港にある自分たちの野営地まで押しもどされていった。彼らのすべてがシラキュースから逃亡したいとおもった。彼らがシラキュースから出発しようとした夜である。普通ではない現象がおきた。神の存在をしんじることがもっともすくない人々である。だが月食という現象をみて不吉な予兆をかんじざるをえなかった。野営地の神官は落ちつくようにいった。また次の満月までには予兆はよくなるといった。その判断は間違いだった。ジュリペスは艦船の錨をおろしシラキュース湾の入口を封鎖するようめいじた。アテネは罠におちた。つづいて戦闘がおきた。数千のアテネの兵がころされた。ところが彼らは幸運だったかもしれない。生きのびた兵たちはもっと不幸だった。アルソバイアデスの裏切りが彼らの運命を苛酷にした。

彼らの数は約七千であった。都市の外にある石切場につれていかれた。ここはいま公園に整備されてる。それは岩が切りたったせまい空間である。日除けの場所も飲み水もない。彼らはここに閉じこめら数ヶ月のあいだ傷つきしんでいった。灼熱の日光にやかれその最後をむかえた。秋となれば夜はこごえるような寒さだった。ほとんど食事や水があたえられなかった。すぐ病気が萬延した。死者が積みあげられ、ほうむることができなくなった。それらはくさるまで放置された。苛酷な飢えと病気はつまりは処刑であった。拷問であった。シラキュース人は子どもたちをつれて彼らをのぞき、あざけりわらった。シラキュース人はエウリピデスの悲劇をこのんだ。もし囚人たちが音響効果のよいこの場所でその一文をみごとに歌いあげたならば、ここから解放され奴隷にうられることがあったという。シラキュースにおける敗北がアテネにつたえられた夜、悲しみの声がひびいた。そして彼らを絶望の奈落におとした。

* さらにつづくアテネの凋落
シラキュースにおいてスパルタがアテネに完全に勝利することはできなかった。アテネは一年の混乱の後にもう一度、スパルタに立ちむかった。だがそれは彼らの敗北を先にのばしただけだった。最後に打撃をあたえた男はライセンダという。彼はスパルタ人だが、いやしい身分の出身である。私生児である。父は完全なスパルタ人であったが母はヘロットであった。つまりスパルタの経済をささえてる奴隷、マイシニア人とおもわれる。いわば混血の身分であったがアゴギへの入所がみとめられた。これは苛酷な訓練によりスパルタの男子を戦士に仕たてるものである。彼は社会的地位をもってなかったが集団のなかで頭角をあらわし軍隊における指揮官として、すぐれた政治家にそだっていった。

* スパルタ、ペルシアの資金による海軍力の増強
彼の政治的活躍にはペルシアとのふかい関係の構築があった。とかくばらばらになりがちなギリシャであるが七十年前にスパルタとアテネを指導者としギリシャは同盟しペルシアとたたかった。今やギリシャ人同士がころしあってる。ペルシャ帝国はこれをみて自分に役にたつほうに黄金をくばっている。ほとんどのスパルタ人はペルシャをきらう。スパルタ人は法の支配をこえたところにいる一人の人間にこびへつらう、その無駄とおべっかをきらう。ところがライセンダはこの価値観をかくすことができる。彼はペルシャを扉をあければ金を取りだせる金庫のように利用する。彼はサイラス、ペルシャの王の息子と個人的な関係を作りあげた。これにより彼の艦船の船員の給与が二十五パーセントと昇給した。国にぞくしない傭兵の船員はアテネからスパルタに乗りかえた。その結果アテネの艦船の船員が一夜にしていなくなったという。

* スパルタ、ライセンダの勝利
ペルシアの資金をえたライセンダの艦隊はアテネとその同盟に何度も勝利した。その結果、彼はアテネにたいする穀物の供給路を封鎖することに成功した。紀元前四〇五年である。ライセンダは大規模なアテネの艦隊を迎えうった。彼は相手をうまく誘いこんだ。戦いを拒否し、おそれて退却するようにみせかけ、敵の警戒がおろそかになった時に攻撃した。アテネは大敗北をきっしてその運命が彼の手ににぎられた。

アテネが降服した時、ギリシャの全土がこれまでアテネにもってた不満や恨みを爆発させた。一人のシーブス人はアテネを完全に破壊しその領土をシーブスに引きわたすべきといった。しかしスパルタはこれまでの戦い、おおくの犠牲にもかかわらず感情的にならなかった。彼らは冷静に条件を突きつけた。アテネの民主主義政府の廃止、アテネの艦隊の縮小、三隻のみにすること。都市を防禦してた壁のすべてを破壊。これはスパルタ人がながいあいだ不満をもってたものである。アテネの壁がもえてる時にスパルタがギリシャの支配者となったことがみとめられた。ライセンダはアテネの売春婦、都市の周囲にキャンプしてた一人がたちまち態度をかえ残り火のなかで踊りをおどり帝国の滅亡の歌をうたってるのをみた。アテネはスパルタに同調する勢力により運営されることとなった。ふるい学派のひとたちが定住した時に流血の事件がおきた。そのなかにアルソバイアデスがいた。彼はスパルタに亡命したがたくみな弁舌でアテネ市民にとりいりもどってきた。この敗北がおきた時、彼は指導者となりスパルタに立ちむかう一人とみられた。しかしスパルタからの命令により排除された。

ライセンダは勝利をデルファイに記念碑としてのこすことにした。彼は自分自身を顕彰する立派な記念碑をたてた。これはスパルタ人の行動倫理、控え目にものごとをいう自分を目だたせない。この倫理から、あざけりの的となった。今は基底部だけがのこってるが、かっては三十以上の実物大の青銅の彫像があった。それらは彼の勝利をたすけてくれた友人、支援者である。そしてその中心に彼自身がたってた。彼に王冠をかぶせようとしてるのがなん と海の神、ポセイドンである。自己宣伝の一。まさに恥をしらない姿である。

抜け目ないライセンダがもたらしたスパルタの勝利がすべてをかえた。スパルタがもっとも有力な都市国家となった、ギリシャ世界においてそうなったことがあきらかとなった。もし選択するなら帝国にすすむ道である。ライセンダはおおきな計画をもってた。そこにはスパルタによるあたらしい世界の秩序とそのなかなでの彼の場所が用意されてた。

* 神託と王位継承問題
紀元前四〇〇年である。表面上はスパルタは何もかわらなかった。だが時代がかわる。その頃に神託がでた。それがスパルタの市内を駆けめぐった。ビッコの王、他部族の征服、戦争の発生についてかたってた。ほとんどの神託は曖昧で内容のないものだったが、これは内容のあるものだった。スパルタにおいて権力闘争がおきることに言及してた。アジェス王がしんだ。

二人の候補者が王位をあらそうことになった。彼の息子、ラヒヒダスと異母兄のアジェスレイアスである。王位の継承は単純であるべきである。ラヒヒダスは王の息子である。アジェスレイアスは、生まれつき足が不自由だった。普通のスパルタ人たったら障害のある男子はうまれた時に排除される。ところが王室についてはこの法が適用されない。アジェスレイアスはこれにより生きのびることができた。七歳の時に彼はアゴギにはいった。これはスパルタ人の男子を戦士にそだてる仕組みである。スパルタの王室にぞくする者でアゴギにはいったものはいなかった。彼はこのきびしい環境で丈夫にそだっていった。アジェス王がしんだ時に彼は充分な自信をもって候補となった。この神託が出まわったのはこの時であった。そこにビッコの王とかいてあるのはまさにアジェスレイアスをさしてる。そこで示唆されてる脅威は深刻である。ところで神託はその解釈が重要である。抜け目のないライセンダはこれを政治的に利用した。まずスパルタ人にかっての歴史を思いださせた。

* ライセンダの政治的発言
アルソバイアデスとアジェス王の妃、ティメヤの恋愛問題である。この噂が真実ならラヒヒダスはアルソバイアデスの子である可能性がある。ティメヤはおさない時にラヒヒダスをあやしてアルソバイアデスとなんどもささやいてたという。ライセンダは神託のビッコの王、そのビッコは正統でない子を意味するかもとあてこすった。これでラヒヒダスはおち、アジェスレイアスが王となった。

* アジェスレイアス王の登場
彼はスパルタの王のうちでもっともスパルタらしい王である。アゴギが生みだした典型だった。スパルタ社会の仕組み、考えかたに全幅の信頼はおいてた。しかしスパルタの社会はかわってゆく。アテネにたいする勝利は戦争によるほころびをもたらした。質朴な戦士にたいする誘惑をもたらした。戦争は彼らにあの豚の血と酢からつくった伝統の食事にそれ以上のものをもたらした。国外にでたスパルタの指揮官の身持ちのわるさが有名となった。国外で不当な利益をえて持ちかえる。このわるい傾向がながくつづいてた。これがはじめてアジェスレイアスによりかえられた。彼が王になると彼とその家族は質素にくらしはじめた。彼のぼろぼろの外套は彼の質素さの象徴となった。

* 王とライセンダとの対立
そしスパルタに存在する頽廃の芽をつむことが彼の惟一の関心事となった。そこでライセンダをどのようにあつかうかが問題となった。ライセンダが神託をたくみに利用したことでスパルタにおいて彼の政治的影響力が増大していった。これまでの行動のつけが彼にもどってくる時がやってきた。この国際的に活躍した将軍はアジェスレイアスを見あやまった。彼は支配者である王の威厳を極めて重大にかんがえてたのである。ライセンダの海軍がアテネに何度も勝利してゆくにつれ彼のまわりに支持者がふえてきた。政治的な野心をもつ人たちもあつまってきた。このような人たちは足の不自由なぼろぼろの外套をきた王より彼のほうを尊敬する人たちである。

アジェスレイアスは彼を公然と攻撃することにした。彼がすすめようとする作戦はすべて、その反対のことをやった。ライセンダの支持者が賛同をもとめてもこれを拒否した。さらにアジェスレイアスは彼の考えを次のとおりあきらかにした。ライセンダと関係をもつことは死をもたらすかもしれないといった。最後に破局がやってきた。アジェスレイアスはライセンダに彼の食卓にやってきて自分につかえるようめいじた。ライセンダはこれは友人への振る舞いでない屈辱だといった。アジェスレイアスはそれをみとめるとともに自分よりたかい位置にたつことをゆるさないとこたえた。ライセンダは行方をくらましデルファイにいってアジェスレイアスにたいする謀略をめぐらせた。彼は金をおくり神託をかえ警告をあたえるものにしようとした。彼はこれが迷信に左右されやすいスパルタ人に動揺をあたえることをしってた。

彼はこの謀略が実現する前に戦闘において死亡した。その謀略は相当深刻な内容であった。その死後に書類が発見された。そこにスパルタの政体を改革するということがかかれてた。王の選出に公選制を導入する。ライセンダ自身が最強の候補者となることを想定してた。アジェスレイアスはこれをただちに公表しライセンダがスパルタにとり脅威であったことをあきらかにしようとした。しかしこれをよんだ長老の一人がその内容があまりに深刻である。なのでアジェスレイアスにつよく非公開をもとめた。すでに死亡してるライセンダを墓場からよみがえらす。それより演説原稿も彼もそのままにしておくようもとめた。この事実はかくされスパルタは何もかわらなかった。だがスパルタをめぐる外界はどんどんとかわってゆく。一連の災害が深刻な神託の正しさをあきらかにしていった。

* スパルタ、内部対立の表面化、ケネドンの陰謀
深刻な事態がアジェスレイアスの近くにあつまってきた。古典ギリシャの力がもたらすよき秩序がしりぞき、みえなくなった。そしてこのわるい精霊になやまされる王のまわりに悪運があつまった。王位をついで一年がたった。ふだんどおり犠牲の儀式がおこなわれたが神官が警告をはっした。スパルタは邪悪な敵にかこまれているという。これに新味はほとんどない。ほぼ三百年のあいだその独自の社会構造、ヘロットがいる人種差別政策、彼らを最下層しその労働力に依存する。ペリオイコイという商人、職人の階層。彼らは市民権をもたない。その頂点にホミオエ、えらばれた市民、スパルタの戦士がたつ。人口の少数派がその下部をしっかりと支配している。神官はこれがもつ脆弱性を警告していた。実際の脆弱性はそれよりももっと深刻だった。その数日後である。陰謀が発覚した。それはスパルタの社会構造を根本的にくつがえそうとするものだった。その首謀者の一人はケネドンという。彼はヘロットでもペリオイコイでもなく下層のスパルタ人であった。

この人たちはいったいどのような人たちだったのか。戦争からの逃亡者、私生児、混血、借金による奴隷だったのかもしれない。この陰謀者たちで注意すべきはヘロット、ペリオイコイ、下層のスパルタ人という範囲の広さである。ケネドンは彼らがスパルタの理想郷の恩恵からはずれた人々といってる。彼らが自白し罪状があきらかになった時にケネドンとその仲間たちは。槍を突きつけられて追いたてられ処刑の場所につれてこられた。それはこの地中の裂け目がある場所だったろう。ここはスパルタから数マイルの距離にある。考古学的調査がおこなわれその底に数フィートの厚さの残存物が発見された。紀元前五世紀から六世紀にぞくする。男、女、子どもの骨がのこされてた。

この事件はスパルタの欠陥をあきらかにした事件である。それは異常なまでの選抜主義である。スパルタは市民の権利をはじめてみとめたギリシャの都市であろう。しかしそれは常に少数の人々の特権であった。この少数へのこだわりはさらに先鋭化してゆく。彼らは本能的に自分たちのきびしい基準にあわない者を排除してゆく。その結果はこうなった。スパルタからスパルタ人がいなくなる。百年前のテルモピレの戦いの時代である。そこには一万の完全な市民権をもつ人々がいた。今や千の少数となった。スパルタ人の人口は 危険水準にたっした。戦いにおいてスパルタ人は戦闘をおそれるようになった。彼らは指揮官になる。兵はヘロットがなる。彼らは戦いの後に奴隷からの解放が約束されてる。この他に不承不承に参加した同盟軍がいる。

* 枯渇するスパルタ戦士
スパルタにあたえられた時間はすくなくなってきた。アテネの防御壁が取りこわされた時、紀元前四〇四年が歴史家によれば自由なギリシャのはじまりであるという。傲慢なアテネはその振る舞いゆえにほとんど友人をもたなかった。だがスパルタ帝国も抑圧をくわえるものだとわかってきた。アテネはその艦隊のために資金を要求してきた。スパルタは戦争をたたかうために兵を要求してきた。f友人との仲がわるくなる時期であった。スパルタにあたらしい敵が登場してきた。シーブスである。軍事的にいえばさほどおおおきくない同盟の盟主である。しかしアジェスレイアスの理解しがたい行動により不満をたかめている都市がふえてゆく。事態はスパルタが予想してるよりはやくうごいた。紀元前三七一年の春である。都市国家があつまる会合がひらかれた。ここできびしい敵対関係や戦争への危機をやわらげようとした。ここでは外交や税の問題が重要となる。だがこれらはアジェスレイアスの得意とするところではない。スパルタはこの会合では筆頭者とみなされてた。しかしシーブスの代表にたいし他の都市が尊敬の態度をみせてるのに気づいた。彼はこれにいかり代表と論爭をはじめた。シーブスも受けてたち無鉄砲にも反論をかえした。 アジェスレイアスは完全に冷静さをうしなった。彼は平和協定を取りあげそこからシーブスの名前をけした。二十日後に二つの都市はぶつかった。その場所はレッキトラである。ここに記念碑がのこってる が当時はもっとたかく周囲を威圧するほどだった。アジェスレイアスはこの戦いの指揮をとらなかった。彼が戦争をこのむとおもわれたくなかったからだろう。別の王が指揮した。七百のスパルタ、千三百のヘロットである。それにあまり気持がすすまない同盟の軍である。

* スパルタとシーブス、レッキトラの戦い
それにたいするのは六千のシーブス軍である。彼らの士気はたかく復讐の念にもえてた。敗戦は兵力の差だけでない。シーブスはあたらしい戦術をとった。彼らの密集歩兵隊の編隊は八列の厚味でなく五十であった。四百のスパルタがその日にころされた。これはおおきな数字でないようにみえるが当時のすべてのスパルタの兵の半分にもたっするものである。軍事力の観点からは実質的にスパルタ軍は消滅した。

その敗戦の意味は深刻だった。ここは都市、マイシニアの壁がのこってるところである。スパルタ人がけっしてみたくないものである。これはレッキトラの敗戦の後に三百年のあいだ奴隷とされてたヘロットがたてたものである。シーブスはレッキトラの戦いの後にラコニアにあるスパルタを攻撃した。これでマイシニア人を解放した。アジェスレイアスのその後である。彼は八十歳になったが傭兵隊の将軍として、からになったスパルタの国庫をお金でみたそうとエジプトにいた。エジプト人が彼をみかけた。彼はぼろぼろの外套をきて砂浜にすわってた。ある歴史家によれば彼らはただわらったという。

* 軍事国家、スパルタの終焉
スパルタは嘲笑の的となった敗戦からけっして再生することはなかった。奴隷の支えをうしなってから再生することはなかった。第二流の都市国家に格下げされた。これにつづく数百年のあいだ、カルタゴ、シシリー、ローマとあたらしい領土をもった勢力が登場した。スパルタはそのたびにかってのスパルタの仕組みを復活させ再生を夢みた。だがマイシニア人の奴隷がいないスパルタはスパルタではない。ユートピアの正体があらわれた。もはや誰もスパルタを再生させることはできなかった。

スパルタが崩壊して四百年の後に重要な人物の訪問をうけた。ローマの最初の皇帝、オーガスタス・シーザーである。彼はここに皇帝としてでなく個人としてローマにおおくの文化的影響をあたえた社会に敬意をあらわすためにおとづれた。またここにはローマからの旅行者だけがきたのではない。ここのおおきな劇場ではスパルタの独特の踊りや軍隊での儀式がえんじられた。また近くのアルテミスの神域にいけばかっておこなわれていたスパルタ男子の通過儀礼、時には棒でなぐられ死にいたるかもしれない儀式。それの復活版をみれる。これらはスパルタの興隆と没落の象徴であるかもしれない


スパルタからながい旅をしてここ英国の田舎、バツキンガムシャーにある貴族の敷地にやってきた。ここにギリシャ風の建物がある。これはアテネの文化をたたえたものだろう。そこに美徳の寺院というものが ある。そこでは三人の賢人がかざられてる。ソクラテス、ホーマー、それと半分神話の人物であるライカーガスである。

彼についてこうきざまれてる。スパルタ建国の父。偉大な知恵をもって国をかたちづくる法をさだめた。それは国民を腐敗からまもり、強固な自由をあたえ、富、貪欲さ、贅沢と欲望をうしなわせる堅固な道徳をあたえた。

これは自己規制、自己否定に清教徒的な共感をもってかかれた極めて公平な総括である。だがそこにはスパルタ社会がもつより上流階層的でない側面、女性同士にある親密な関係、残酷な教育、奴隷制度、たえまなくつづく戦いについてふれられてない 。さらにいうがスパルタがもつ最大の欠陥、理想に拘泥しすぎ完璧さを追及するあまり時代とともに自分自身を改変してゆくことができなかった欠陥についてふれられていない。

(おわり)

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国民が馬鹿にされてるなあ [バカにされないクスリ]



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* はじめに
京都大学の藤井聡氏がラジオでいってた。訪日したトランプ大統領が対米赤字をいってはる。一九九〇年代にもおおいに問題となった。日本は内需拡大をつきつけられた。というわけで今回、試算した。

日銀がいってるインフレ率二パーセントを達成したら赤字がどれだけへるか、データをもとに計算、毎年1.2兆円、五年で六兆円。これで問題はほぼ解消する。ところで誰か このことをいったか。トランプさんもいわなかった。日本側もいわなかったようだ。たしか当時、米国は日本に四百兆円の公共投資をもとめ最終的に六百兆円。国内から文句をいわれながらやった。ここで藤井さんが吠える。どうして国民はこんなことをわすれるのか。というわけで考えてみた。

* 考えてみた
国民はわすれてない。はじめからしらない。馬鹿だから。もうすこし丁寧にいえば専門家にくらべればあきらかに無知。かしこい専門家はしってる。今はそんなこというべき状況じゃない。トランプさんもいってない。だからだまってよう。するとマスコミもいわない。だったら国民が何もいわないのは当然。私は国民は馬鹿にされてるとおもう。専門家や担当の役人なら当然しってる。デフレに日本で内需拡大が必要なのは当然。米国にまともにこたえる回答ともなる。だが国民がさわがないからだまっておこう。国の借金、実は政府の借金の額を問題に。将来にツケをと不安をあおる。

借金は何かをかう。何をかったか。借金そのものが罪でない。国債発行という借金がどう役だつたのか、あるいは役だつのかを評価しない。それを国民に説明しない。今回のように米国の要求にまともにこたえるのに役だつ。国民はいつまで馬鹿にされているのだろうかとおもう。さて藤井さんの話しをもう一つ。

* 外国人技能労働者の人権問題
これはいま人手不足の日本でふえてる外国人労働者にかんし人権問題があるので規制を厳格にするという話しである。藤井さんは人権問題を解決する必要はみとめるがそれよりこれについて安価な労働者受け入れ、その隠れ蓑になってることを問題にしてる。もっともである。経済評論家の三橋貴明氏が口を極めて非難してる。デフレの日本で日本人労働者の賃金をさげる方向にはたらく。将来の社会的問題、それへの公的負担の増大につながる。人手不足は資本主義の王道である労働者一人あたり生産性の向上で対応すべきという主張である。

この種の議論でマクロ経済の視点が欠如。不安すらおぼえる。制度が本来の趣旨からずれる。安易な拡大が社会的問題を引きおこす。それはかならず将来の公的負担の増大というかたちで国民にもどってくる。受け入れを増大させたいならその人数、本人と将来日本に呼びよせる家族、これらの人数の予測、学校、社会保険、社会問題などの負担増の予測など個別問題だけをみずマクロ経済の視点から評価し予測する。今の研究はすごい。たとえば私がよく引用させてもらってる計量経済学者の高橋洋一氏。彼ならたちまち試算をみせてくれるだろう。数字でその問題のおおきさがわかれば、私でも見当がつく。さて結論である。

* 結論
国民の皆さん、馬鹿にされつづけるのはやめましょう。

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アレクサンダー大王、その二の九、バルカン遠征 [英語学習]


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* はじめに
アレクサンダーはフィリップの暗殺後の混乱を乗りきった。まず有力将軍の支持をえて王位継承者の地位を確保、アテネ、シーブスなどにギリシャの覇者をみとめさせた。北の反乱をおさえ領土をダニューブ川まで拡大した。西の辺境の反乱も平定した。フィリップの後継者たる地位を確立しさらに東進しギリシャ人の都市をペルシアから解放するとかたりはじめた。
(Alexander the Great: The Balkan Campaign (336 to 335 B.C.E.)、Historia Civilis、2017/10/31 に公開)

* 暗殺後に有力将軍がアレクサンダーを支持
フィリップ三世が暗殺されだ。このような場合には王位継承が問題となる。しかし息子、アレキサンダーが有利な位置にいたことはたしかである。彼は三人いた息子の上から二番目である。一番目は認識に障害があり政治に関与してない。ところでおおくの人がしんじてるところだが三番目、幼児であるが、彼をフィリップが王位の継承者とかんがえていたという。おさない王は十数年にわたり摂政が政治をおこなうことを意味する。野心的な重臣たちはこの実現をもとめる。王にかわって実権をふるうことができる。フィリップのもっとも信頼がたかかった将軍、アンティパータ(antipater)がいち早くアレクサンダーのもとに軍を引きいてやってきた。このことはアレクサンダーこそがフィリップが予定してた継承者だと公然と主張したことにつながる。

これにより他の有力な将軍たちもアレクサンダーのもとにやってきた。マセドニアの軍は彼を支持した。幼児を王位につけようという陰謀は彼の死とともになくなった。その後の数ヶ月は事件がつづいたが事態が落ちついた。三つのことがかわった。

一、アレクサンダーは父の有力な支持者のすべてを味方につけ彼らを顧問に任命した。
二、アレクサンダーからなんらかの保証をえて臣下たちは満足して彼にしたがった。
三、アレクサンダーの有力な対抗馬であったフィリップのおさない息子はしんだ。うたがわしい状況のもとでの死であることを公平のため付言しておく。

* 内政安定化にうった手段
一、王として彼が最初にやったのはすべての税金を廃止。今後の国の歳入を鉱山開発と征服によるとした。これにより臣下は非常に満足した。これが彼を支持する条件の一つとなった。
二、フィリップが公布した法律、命令のすべての維持を誓約。これは軍の古老を満足させアレクサンダーを支持する条件の一つとなった。

* アレクサンダー、ギリシャの覇者の確認
王位の維持にどのような条件が必要かをみるのは興味ぶかい。マセドニアの権力組織をまとめあげた後には新王はギリシャ全土が彼の王位をみとめるかどうかをたしかめる必要がある。またフィリップの承継者としてギリシャの覇者である地位は要求しうる。これらをたしかめる必要がある。

* 各都市を巡行、テッサリの妨害
アレクサンダーは三千の騎馬隊を引きつれて南にむかった。テッサリのちかく山をぬける惟一の道にやってきた。テッサリが軍をうごかし道を封鎖してた。テッサリはアレクサンダーに使者をおくりまってくれとたのんだ。アレクサンダーと軍をとおすかどうかを検討してるといった。これは無礼な行為であった。フィリップはその統治時代にテッサリを併合していた。つまりここはマセドニアの領土である。彼らはアレクサンダーを外国の王のようにあつかった。この道は非常にせまく衝突をおこすのは小規模の軍を引きいるアレクサンダーにとり不利だった。彼はまった。

彼はひそかに山の道を切りひらくようめいじた。数日後に馬にのったまま山をこえた。間道をぬけたマセドニアはテッサリが何がおきたかをしる前に道にもどりテッサリ軍の後をすすんでいた。テッサリはとっさの判断で態度をかえアレクサンダーを新王として歓迎した。彼はこの服従の姿勢をそのまま受けいれた。

* アテネ、シーブスの服従、スパルタの姿勢
また南下をつづけた。おおくのギリシャの都市から外交使節がやってきた。彼をあらたな覇者としてみとめた。ところがシーブスとアテネは不気味な沈黙をまもってた。ところがさらに南下するのをしり不承不承に外交使節をおくり彼を覇者としてみとめた。ほこりたかいスパルタはアレクサンダーの覇者をみとめようとはしなかった。しかし文書をおくった。それにはおおくの人々のやることを追いかけるのは我々のやりかたでない。むしろこれらの人々を先導するのがやりかたである。すでにのべたがスパルタは当時、千の軍を編成するのが限界。それにくわえて奴隷の軍を編成するのがやっとだった。もはやマセドニアの脅威ではない。ある人はスパルタがはいってることが南の都市をおどす材料になるといった。ギリシャ人はマセドニア人を信用してない。だがギリシャ人はそれ以上にスパルタを嫌悪してた。

* デルファイの神託、不敗神話のもと
すべてのギリシャは平定した。アレクサンダーはすぐ軍をもどし神託をもとめデルファイにいった。これは父、フィリップもやったこと。ところが問題があった。神託は冬にはでない。寺院でアレクサンダーは拒否された。彼は事情をしらず激怒した。ある説によると寺院を急襲した。そして女神官の長に乱暴な行為をおこなった。彼女を椅子のうえに押しあげさらに暴力をふるい神託を要求した。この過程のどこかで神官が彼は無敵であるといったという。ややしんじがたいところがあるが彼はこれを真実の言葉と受けとった。ある人の見解ではアレクサンダーをおとしめる宣伝工作という。しかしこれを彼がしんじたとすると彼は自分は戦いでしぬことはないとしんじてマセドニアにもどったことになる。

* 北の辺境の反乱、スレイスの荷馬車攻撃をかわし勝利
さてアレクサンダーがその権力の確立にいそがしかった頃に、マセドニアの後背地で反乱がおきた。これらの地域はフィリップにより近年に征服されたものである。北部と西部の反乱は独立を要求してる。ところでマセドニアの北の辺境はダニューブ川の南、そこには五日の進軍でゆける距離にある。アレクサンダーは北方の辺境を永続的にするためダニューブ川のところまでひろげることにした。冬に彼は山で攻撃作戦をおこない春にさらにすすんで北方の脅威と向きあうことにした。ヘーマスモンスという現在のブルガリアにぞくする地点でスレイスの軍と遭遇した。道をすすんでた時である。

スレイスは丘のうえで待ちかまえてた。前面に荷馬車をおいて防禦としてた。アレクサンダーは斥候をおくり彼らを回避できる道をさぐらせたが見つからなかった。彼はいらついて後をむいて歩兵隊にめいじた。まっすぐ敵にむかえ。疎開しゆっくりした歩調ですすめといった。彼は慎重になり荷馬車がおいてある理由を予想した。予想はあたった。マセドニアが丘の中腹にきた時、スレイスはその荷馬車をおし斜面をすべらせてマセドニアのほうに突っこませた。アレクサンダーは冬のあいだにこのような作戦への対応を兵に訓練してた。彼の合図とともにマセドニアの兵は体を地面に投げだし盾で頭をかくした。荷馬車はいきおいよく滑りおち、うつむいたマセドニアの兵を乗りこえていった。若干の擦傷、切り傷をのぞくとまったく無傷のままでおわった。この荷馬車による攻撃はなかなかすばらしいものだった。マセドニアの無敵の密集歩兵隊をやぶったかもしれない。だが実際はそうならなかった。攻撃の道がひらけたのでマセドニアは丘の上の敵に直接攻撃をおこなった。弓矢隊は矢をさかんにいて歩兵を援護した。歩兵はすばやく攻撃をおえ、まったく損害がでなかった。

* ダニューブまで領土を拡大
アレクサンダーが王としての最初の作戦はまったく完璧な勝利だった。しかしバルカン遠征はまだおわってない。アレクサンダーとその軍がダニューブ川についた時に敵対する部族がいるのを発見した。彼らはアレクサンダーが北上するのを妨害していたものだった。彼らが川中の島にもどっていった。彼らはもしマセドニアが島に上陸しようとするならばいつでもたたかう用意がある。そうみえた。川をわたった北の岸べには別の敵が待ちかまえていた。彼らは草原からやってきた放牧の部族である。マセドニアを注意ぶかく観察してた。アレクサンダーはこの複雑な状況によい答がないかかんがえた。島への上陸作戦は被害がおおきいだろう。どのような方策があるのか。

彼には考えがあった。騎馬隊を扇型にひろげた。ちかくの村から釣り船をうばってきた。のこりの軍にはどんなものでもよから筏をつくるようめいじた。夜陰にまぎれて軍の一部を筏にのせた。島にわたるのでなく向こう岸にわたった。彼らは穀物畑の背後に上陸した。これらは充分に背がたかくそこに身をかくすことができた。彼らが下船しおわると朝日がのぼってきた。歩兵隊は横一列にならんび前進をはじめた。アレクサンダーは騎馬隊を引きいた。マセドニアを観察してる中立軍を攻撃した。放牧の部族は数ではアレクサンダーより優位にっあた。たぶん三対一だろう。だが彼らはまったく不意をつかれた。川からはなれ退却にうつった。彼らの野営地にもどると彼らは軍を再度編成した。ところがマセドニアがまだおっかけてきたのでおどろいた。放牧の部族は野営地を放棄し草原にきえていった。アレクサンダーにはおおきな勝利だった。しばらく略奪をおこないダニューブ川にもどった。川中の島にいた部族は川の両岸にマセドニアがいることを発見して非常におどろいた。彼らは島にとどまり長期の城攻めにたえるより降服をえらんだ。

アレクサンダーは神をしんじる気持のつよい人物である。マセドニアがここにとどまり神に彼らの勝利を感謝するために一連の儀式をおこなうよう主張した。軍を引きいてダニューブ川をわたることは兵站作戦のみごとな成果である。この後の数日間は他の部族があらわれて降服を申しでた。マセドニアの領土はこうしてダニューブ川まで拡大した。遠征の目的はみたされ、北方の国境は確保された。

* 西の辺境の平定、イィリアンの軍と遭遇
しかし西の国境についてはなお脅威がのこってた。イィリアン(illyrian)はアレクサンダーの父、フィリップの時代に降服していた。しかしフィリップがひいた国境線には満足してなかった。彼らはこの不安定化した時期こそこの問題を有利にすすめる絶好の機会ととらえた。アレクサンダーはイィリアンが進軍してくるのをきいた、ダニューブからただちにこちらにむかった。彼はペリアムというちいさな砦のちかくですすんでくるイィリアンをとらえた。イィリアンはこの砦にはいったがこれは賢明だった。その砦は東、北、西にかけて三つの丘でまもられさらにその南は川でまもられてた。丘をぬけて砦にむかうただ一つの道があった。アレクサンダーはそこにとどまり城攻めの準備にはいった。だがこれは戦術的には失敗だった。

* アレクサンダー、罠にはまる
ほとんど同時にまるでアレクサンダーをまってたかのようにもう一つのイィリアンの軍がやってきた。彼らは丘にのぼりマセドニアを包囲した。アレクサンダーはまるで罠に自分からはいっていったようなものだった。しばらくのあいだイィリアンはマセドニアとの距離をたもってた。この道は隘路となってた。この谷をぬける、あるいははいるにも一日仕事になるものだった。

もしマセドニアが谷から抜けでようとするとイィリアンは丘をくだりマセドニアを背後から追撃できる。これをよくみると砦をマセドニアが包囲しそのマセドニアを丘にいるイィリアンが包囲してる。イィリアンにとってはじっくり腰をすえてアレクサンダーが間違いをやらかすのをまつ状況となった。数日かけて彼と助言者のあいだで議論がかさねられた。次のような狂気じみた作戦を実行することとなった。それはマセドニアが絶望的な状況になってることをかんじさせるものだった。これはすばらしい作戦だった。彼らは戦いにはいるため兵をうごかした。ながい隊列をつくった。兵が実際よりおおくいるようにみせた。それから演習をおこなった。これが彼らがかんがえた作戦だった。これはさらにいえば見世物だった。歩兵隊が前進する。次に停止する。次に方向をかえる。隊形を変更する。これらはまったく合図なしだった。前進してる時に長槍を前後に振りまわす。そして完全に同期して長槍を前に突きだす。槍が風をきる音がする。それは丘のうえにいる敵にもきこえた。

* アレクサンダー、奇策で相手をまどわす
なんの合図もださずマセドニア軍のすべてが沈黙をやぶり戦闘の雄叫びをあげた。武器で盾をたたいて音をたてた。おどろくべきことだが、これはおおきな効果があった。イィリアンはこれほどの規律ある動きをみたことがない。それは人間業にみえなかった。ある部隊はおそろしくなって逃げだすこととにした。退却の動きがでたここが絶好の機会である。合図がはっせられた。マセドニアは丘の上の敵にまっすぐ攻撃を仕かけた。アレクサンダーも騎馬隊を引きいて攻撃した。イィリアンにとっては完全な不意打ちだった。

散発的な戦いがあったがイィリアンは総退却にうつった。マセドニアはこれで誰一人うしなうことがなかった。 アレクサンダーは自分をほめてよい。自分から危地にはいり、しかしそこから成功裏に抜けだした。それもまったく損害をださずにである。アレクサンダーは今や谷を支配下においた。イィリアンはまだ地平線のどこかにいる。アレクサンダーには食糧補給の問題があった。彼は食糧補給線をどのように確保するかをかんがえねばならなかった。彼は騎馬隊と弓矢隊を丘のうえにのこした。そしてそれ以外のすべてをつれて川にむかった。しばらくかんがえてから彼は道をとおって谷をぬけるより川をわたることにした。

* アレクサンダー、川をわたり戦況を好転
安全をたしかめるためまず選抜された盾持隊が最初にわたった。歩兵がその後につづいた。こうしてるなかで丘のうえにいる騎馬隊と弓矢隊はイィリアンがもどってくるのを監視してた。軍の大半が川をわたった頃騎馬隊と弓矢隊は丘をおりてきた。川をわたろうとした。するとイィリアンがもどってきた。すぐ川をわたってるマセドニアに気づいた。彼らは丘をおりてマセドニアの後方を追撃した。向こう岸にいたマセドニアの歩兵隊は投石機の攻撃の準備をととのえた。それは砦の城攻めのために用意してたものである。イィリアンが谷をすすんできた時に投石機の攻撃がはじまった。ある人によればこれは歴史上はじめて城攻めの投石機が野戦でつかわれた例だという。

川をわたっていた弓矢隊は川の途中で向きをかえ矢による攻撃を仕かけた。この一斉攻撃はイィリアンの進軍をとめるに充分だった。これによりマセドニアは余裕をもって川をわたることができた。これらを振りかえっていえるのはアレクサンダーは幸運だったということである。

* アレクサンダー、攻撃の仕上げ
アレクサンダーはこちらの岸で野営地を設営した。彼は馬糧調達の部隊をおくり供給線を確保した。ここでやっと食糧の荷物を受けとることができた。彼はここで猶予の時間をえた。数日後、川岸に斥候隊をおくった。そこでイィリアンが何をしてるか観察した。おどろいたことに彼らはただそこにいるだけで何もしてなかった。監視の兵すらおいてなかった。 彼らはまるで戦いに勝利したかのような振るまいだった。アレクサンダーは選抜された盾持隊と弓矢隊の兵を引きいて川をわたり夜討ちを仕かけた。予想したとおりだが敵はまったく気がつかなかった。監視の兵もおいてなかった。テントを攻撃した盾持隊はまったく気づかれないまま睡眠中の兵をころしていった。

敵襲撃に気づいた頃には野営地からおおくの兵が逃走してた。多数がころされそれ以上の数が捕虜となった。この攻撃だけでイィリアンの軍は消滅した。翌日、砦のイィリアンが降服した。ヘーマスモンスの城攻めは奇妙なものだった。

* ゴールズと友好関係をむすぶ
アレクサンダーは自分自身の失敗から危地に落ちいりそこから抜けだした。そこでしめした彼の行動はまったく天才を発揮した。彼がペリアム、ダニューブ、ヘーマスモンスでおさめた勝利は間違いなく一つのメッセージを周囲におくった。アドリア海沿岸のゴールたちがいつしょになり、このわかい王と外交関係をむすぼうとした。

彼が彼らゴールの代表団とあった時に彼らが彼の足下にひれふす機会をあたえた。そこでまずきいた。貴下は世界でもっともおそれてるものは何か。彼らはひれふすかわりに率直にこたえた。天が頭のうえにおちてくることである。あきらかにゴールの神話からきたものだった。神をしんじることのあついアレクサンダーはこの奇妙な答に感心した。彼は彼らに友好関係をむすぶことをみとめた。そして彼らが平和裏に彼のもとをさることをゆるした。彼の我儘がでた時だが後に自分の部下にむかってゴールズが彼を尊敬せず傲慢だと文句をいった。

* 権力移行をみごとにやりとげたアレクサンダー
我儘がでることは別にしてアレクサンダーが自分自身をたかく評価するだけの充分な根拠がある。彼の父の突然の死が混乱を引きおこした。この期間にフィリップの征服の成果をうしなうことなく、むしろそれを拡大させた。マセドニアを内乱からすくった。権力移行の困難な時期に重要なものをうしなうことなく権力移行を成しとげた。あかるい未来がみえた。国境地帯が平定されたことをうけ彼は公然と父がもってた夢の実現をかたりはじめた。それは東にすすみペルシアの支配下にあるギリシャ人の都市を解放することである。この目標を達成するためにも彼はほかのギリシャ人と協力する必要がある。そして当面の彼らの忠誠心はまだあきらかではない。

(おわり)

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加計学園認可へ、さて何が問題 [バカにされないクスリ]



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* はじめに
この十一月に安倍批判の的となってた加計学園獣医学部設置が認可のはこびとなった。毎日新聞は野党がさらに追及するという。私のブログでほとんどでかいたが、あらためて加計学園や文科省の動きを振りかえってみよう。

* 加計学園の動き
二〇一六年四月、元文科省の木曾巧理事を学園にむかえ、正式申請にむけ文科省と事前相談にはいった。
二〇一六年十月、正式申請をおこなった。順調にゆくなら二〇一七年八月の認可となるが、おそらく教員審査でもめたのだろう。この十一月の認可となった。

学園理事長加計孝太郎氏は申請手続への影響、特に設置の審議会で大学教員が参加する審査に悪影響をあたえることをおそれマスコミにでてこなかったのだろう。認可がきまればその肉声をきくことも可能だろう。

* 文科省の動き
特区諮問会議から宿題をあたえられ回答期限の二〇一六年三月末まで回答しなかった。つまり申請をみとめることとし文科省は加計と事前相談にはいり同年十月に申請を受理した。審査はすすんだがおそらく教員の問題でこの十一月認可のはこびとなった。途中で前川氏というすこしかわり者の前次官が混乱を引きおこしたが、大学を担当する高等教育局は安倍政権の方針のもとに粛々と審査をすすめてきた。

* さてどこがおかしいか
五十二年間、学部申請を受理してこなかった。もともと認可権限をもつ文科省が拒否という不合理をこんなにながくやるか。行政訴訟になれば敗訴する可能性が極めてたかい。きびしく審査するが最後に認可する。こうあってこそ天下り先確保にもつながる。こんな省益を無視した不合理を文科省がすすんでやるか。そこに政治の関与があったことはあきらかだろう。そんなことに気がつかない国民は馬鹿といわれてもしようがない。

役人がきかれて、誰誰先生の圧力がとかいうか。五十二年間の異様な事態を文科省のせいにする動きがあるが濡れ衣である。異様な事態を引きおこした政治を追及する。政治家が国会で政治家(元政治家をふくむ)を追及して、これをただすべきである。さて結論である。

* 結論
この問題を国会で追及してきた玉木雄一郎氏にお願いする。
一、学部設置をすすめようとする加戸守行前愛媛県知事を日本大学総長とともにおとづれ圧力をかけたという北村直人氏や、
二、石破四条件をもうけ学部設置を妨害したと後に暴露された自民党石破茂氏を

国会できびしく追及していただきたい。

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スパルタの栄光、その二、ペロポネソス戦争の勃発 [英語学習]


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* はじめに
ペルシアの敗退後、スパルタとアテネの同盟は長続きしなかった。両者の違いが際だっていたからである。軍事のスパルタと民主主義、経済、文化のアテネ。これだけでなくスパルタ女性の独特の地位。社会に積極的にでて発言、財産権をもつ。他の都市の女性にはない特徴である。スパルタはペロポネソスの奧にもどったがアテネは東地中海の覇権をにぎる。猜疑心をつのらせるスパルタが地震をきっかけにヘロットの反乱にあう。ここでアテネとのあいだに亀裂がうまれペロポネソス戦争に突入する。アテネの指導者、ペリクリースの死によりいったん小康をえるが、西の重要拠点パイロスをうばわれ百二十の兵が降服する。和平はなったがそれはあたらしい戦いのはじまりでもあった。
(The Spartans - Part 2 of 3、Timeline、World History Documentaries、2017/08/26 に公開)

* ちがいが際だつスパルタとアテネ
紀元前二千五百年前、西欧文明は破滅の危機にひんした。東からペルシア軍が侵入してきた。独立をたもってたギリシャの都市国家を従属させようとした。圧倒的な兵力にめんしてスパルタとアテネが抵抗に立ちあがった。テルモピレ、ここの隘路において三百のスパルタ兵が英雄的な戦いをおこなった。彼らは玉砕して敵の進軍をおくらせた。ギリシャの他の都市に戦いのやりかたをしめした。その数日後である。

アテネの海軍がペルシアの攻撃をうけた。彼らはアテネの中心から数マイルはなれたここサラミスの沖で彼らの艦船を攻撃した。この戦いでアテネとスパルタは同盟してたたかった。だが彼らは対称的であった。アテネの政治は民主主義、ギリシャにおいて経済と文化の中心であった。また対外的にひらかれたたかい文明をもつ社会であった。そこでは力は民衆とともにあった。他方、スパルタである。

彼らは軍事国家、えらばれた戦士が支配した。その生活を多数の奴隷がささえてた。スパルタの男子は常に試練がまってた。国がもうけた幼児殺しの関門をかりに生きのびたとして、七歳になったら母の手からはなれアゴギという訓練キャンプにはいる。きびしい訓練のなかで彼らに栄光か死というスパルタの倫理が教えこまれる。彼らはほとんど女性とは交流のない生活をおくる。ところで女性というと不可思議なもの独立したもの才知あるもの肉体的にも政治的にも強力な存在とみられてた。

* 同盟関係の破綻、ペルシア戦後のちがい
スパルタとアテネは対極にある。たがいに矛盾し両立しがたいもの。もし共通の敵がいなかったらたとえ協力をさぐっても結局は不安や猜疑心をさそい混乱におわるだろう。かって同盟関係にあったが両都市はたがいに武器をもって対立する事態となった。叙事詩に登場するようなスパルタとアテネの戦いがはじまる。その争いの結果はギリシャの運命をきめるだろう。

ペルシアが侵攻した時にスパルタ人がかんじてたものとアテネ人がかんじてたものはずいぶんちがってた。前線から数百マイル(百マイルは百六十キロ)はなれラコニアの牧歌的な田園地帯にあったスパルタ本土はまったく直接の影響はなかった。それにたいしてアテネは侵攻をうけそのアクロポリスは放火、破壊された。ここスパルタはペロポネソス半島の奧にあって戦争はとおいものだった。平和が回復するとスパルタ人は日常生活にもどった。それはいつもの規則にのっとり軍事優先のものだった。ここの社会は規則ただしく従順で、なかんずく家庭や個人の要求をおさえ国家のためにすべてを犠牲にするのをいとわないというものだった。必要だったら命をおしまない。その目的はただスパルタ人が作りあげたとしんじる理想郷をまもることだった。そのために必要なのはさらにおおくの重装装備の戦士を作りだすことだった。それ以上はほとんどない。ただ現状をまもりたい。それだけだった。しかし戦後のアテネはちがう。

事態は急速にかわっていった。くるしい占領の後に歓喜の勝利がやってきた。都市はおおきく変容する。戦争前に民主政治の基礎はきづかれてたけど実態のともなわない名前だけのものだった。それは一人の男、財力をもった男がおおきな権力移動をおこなった。うまれたばかりのアテネの民主主義にやってきたのだった。これは三段櫂船の展示である。これはほぼ二百の漕ぎ手がのる。このような船がペルシアの艦船をサラミスにおいて無力化した。たたかう艦船の漕ぎ手はアテネの貧困層の市民であった。彼らが攻撃の主体である。彼らは政治のなかで最下層にぞくする。筆者の注。伝統的兵力の主力は重装歩兵であった。鎧兜など高価な装備の調達は富裕層、地主層でなければむすかしかった。注おわり。サラミスの勝利の後に彼らは政治的要求を声高にさけぶようになった。

* アテネの民主主義の成熟、海軍をささえる下層民
アテネの民主主義は活気づいた。この艦船の漕ぎ手の頂上にたったのはペリクリースである。彼は富裕な貴族。何代にもわたりアテネの民主主義を牽引してきた。彼はするどい感覚で時代の変化を見ぬいてた。そしてその先頭にたつて牽引するという野望ももってた。その権力をたもつためには貴族から一定の距離をおき、平民の支持をえるようつとめた。彼はすぐれた演説家であった。議論や演説をとうして民衆の協力を獲得した。しか彼が民衆の支持をえたのはそれだけでない。巨大な建設計画を発表した。これは実際は貧民層のための仕事の創設だった。彼はいう。

* 新興勢力の指導者、ペリクリース
あらゆるかたちの事業とそのために必要な需要を作りだす。それはすべての芸術家の想像力、すべての働き手の参加が必要である。そこからすべての人々が報酬をうけられる。彼らは都市をうつくしくかざり維持する。

彼は市民のお祭りに公的支援をおこなった。パルテノンの建物のような記念的建物に公金をつぎこんだ。もっとも重要な業績は裁判の陪審員や戦争の兵たちに国が報酬をはらったことである。艦船の漕ぎ手たちはアテネの民主主義においてはじめて政治権力をにぎった。ここに人々により統治される民主主義がはじめて実現した。

ここ市場(いちば、アゴラ)では市民の声がきこえる。ここではアテネの日常生活がいとなまれる。ここに職人、法律家、商店主、哲学者など多様な人々があつまってきて都市の喧騒と活気をつくった。あつめられた彼らの声はアテネの民主主義の基盤となった。国家の公職は財力や地位に無関係にすべての人にひらかれてた。市民は政治活動に積極的に参加することが期待されてた。議場において演説や論爭がおこなわれる時には市場への入口はすべて閉鎖された。アテネでは民主主義に参加することが強制された。それはスパルタで軍隊の規律が強制されたのとおなじである。

* アテネの経済、文化の拡大、ペルシア対抗の盟主
ペルシアの敗北後に革命的に変化したのはアテネの政治だけでない。経済、文化の活動もそうである。それらには活力とあたらしい考えかたが吹きこまれた。ペルシアとの戦いでギリシャ同盟軍は勝利をおさめたがペルシアはなおもつづく脅威であった。ギリシャの都市は東の強敵とたたかう指導者を必要とした。スパルタはこの仕事を引きうける気がない。関心が内むきとなった。ところが旺盛な対外的関心をもったアテネの民主主義はこの仕事を引きるけることとなる。ペロポネソスにまもられている現状に満足してるスパルタとちがいアテネは常に海とともにあった。

ペルシアの敗北とともにアテネはパイリアスの港とのあいだに連絡路をつくりそれを壁でまもった。これはアテネが対外的に海上の覇権を主張したことを意味する。物資の交易、人の移動において帝国を作りあげれる力があることを宣言したようなもの。アテネはこの建設のため都市の資材を消費しつくした。都市の記念碑や墓場の墓石まで供出させた。その結果、十二マイル(十九キロメートル)の堅固な壁が完成した。これはアテネの富をまもり他の都市の干渉を排除できるものである。アテネは東地中海における警察官となった。

同盟国はアテネにしたがい貢納金をおさめることが期待された。もしこれにさからうならば彼らの港にアテネの艦船があらわれるであろう。これは三段櫂船外交というものである。このような力の均衡の変化をスパルタが見のがすはずがない。海軍の急激な発展はスパルタにとって充分な脅威だった。だがそのうえに防御壁の建設をしり彼らの憂慮はいっそう深刻となった。

* 台頭するアテネを懸念するスパルタ
スパルタは防御壁をきらう。壁は都市をつくり都市は注意してないと民主主義のようなものを輸出する。彼らは壁にまもられた都市をおそれ、それ以上に民主主義をおそれた。スパルタは壁をもたないことで有名であった。こういうことがいわれてる。壁は若者である。国境はその槍の先の刃である。スパルタ人にとって都市をつくるのは法、壁やおおきな建築物でない。それは彼らの思い、理想である。

アテネとスパルタは明快に違いをみせる二つの存在である。スパルタは軍事国家であり外国人ぎらいである。アテネは躍動的で世界に門戸をひらいてる。もちろん、実情はそれほど簡単でない。アテネは帝国主義的で傲慢で攻撃的だった。その民主主義は女性、外国人、奴隷を排除してる。ギリシャ人にとりアテネの問題は、彼らのはげしい移り気、ギリシャ人が大切にしてるよき秩序を破壊しようとしてることである。

紀元前五世紀の詩人、ピンダーがいう。よき秩序は都市をささえる強固な基盤である。これがおびやかされると何がおきるかギリシャ人はしってる。都市を二分する内乱、田園地帯で収穫の放置。都市での流血。スパルタのやりかたは平等主義と選抜主義をたくみに混合したもの。おおくのギリシャ人には魅力的であった。スパルタは良識、義務と一体性を重視しよき秩序を保障してくれるようにみえた。

* スパルタにおける女性の独特な地位
しかし他のギリシャの都市からみるとスパルタのよき秩序には極端な性にかんする政治的な扱いがある。これに他のギリシャ人はおどろきおそれた。保守的スパルタはあきらかに極端であった。紀元前五世紀頃のアテネで女性はどうだったか。その生活はけっしてたのしくなかった。都市における芸術、建築、民主主義はすべて男性が享受するものだった。女性ができることといえばおもに従順で男をたてる妻をえんじることだった。事実、古代のギリシャにおいては女性は外部の人からみられるものでも、その話しをきかれるものでもなかった。歴史家のゼネフォンがいう。女性は家庭にとどまるようすすめる。演説家、ペリクリースは公式の場において女性について言及することははずかしいこととおもってた。

アテネの女性は家庭のおくふかくにまもられ生活をおくる。家庭内で女性がおこなうべき仕事をこなす。そのための訓練をのぞいて彼女たちは最小限度の教育のみをあたえる。社会において女性の発言権はなかった。教育はよくいって無目的であり、もっとひどくいえば危険なものだった。ある風刺詩人がいう。女性に文字をおしえることは間違いである。それはおそろしい毒蛇にさらに毒液をあたえるようなもの。アテネの少女たちは十二歳のわかさで結婚するがめずらしいことでない。彼女のために適当な男がえらばれる。すると彼女は家族をはなれ夫の家庭のなかに姿をけした。女性の役割は家庭内を切りもりし雑用をこなし穀物を粉にひき、洗濯してパンをやく。奴隷をもつ富裕な女性は家計のお金を切り盛りする。こういうことなので女性はたまにある家庭の用事や宗教行事への出席、これらをのぞくと家庭内にとどまっていた。

ところがスパルタでは女性はどこにでもでかけた。もし六十や七十の年寄男性をのぞくとして空中から市街をながめる。すると少年より少女をおおくみつける。彼女たちは少年とちがい国の教育訓練の対象となってない。もし戦闘や訓練がないなら男たちは共餐仲間がすむ住居で休息してる。女性が街の日常生活を支配してた。スパルタの女性が外にでる生活様式は非スパルタ人男性からおそれられ魅惑の対象ともなった。ホーマーはスパルタを美女の土地とよんだ。トロイのヘレンの美貌はもともとスパルタにあった。トロイの王子と駆け落ちしてトロイのヘレンとなったと神話にある。もちろん、スパルタの女性がすべて美人であるはずがない。しかし彼女たちはその肉体をきたえていた。それはギリシャではみられないものだった。

* 肉体をきたえるスパルタの女性
国から彼女たちも少年とおなじ食事をあたえられた。ワインをのむこともゆるされた。国は歌唱や踊りの指導もした。レスリングも指導し投げ槍のなげかた円盤のなげかたも指導した。彼女たちは国により少年たちとおなじように競争にかつことをすすめられた。少年や少女の訓練は裸でやった。そしてそこには女性らしいつつしみはなかった。裸は規則である。というのは極端なつつしみぶかさをやめさせることが肉体をきたえることを増進するとかんがえたからである。そしてそれは効果をあげた。肉体的に彼女たちははるかにすぐれてた。アテネの喜劇作家はアテネの女性たちがスパルタの女性の肉体の美くしさを褒めたたえるセリフをのこしてる。

ここに神に願いをかける捧げ物として鉛のちいさな人形が展示されてる。当時のスパルタ女性のおどる姿を模型にしたものである。これをみるとアテネの男たちが熱狂したという理由がわかるような気がする。スパルタの踊りはその独特の躍動ぶりで有名であった。特に運動とちかいかたちの踊りはそうである。女性は飛びあがり臀部を踵でたたかねばならなかった。それをできるだけおおくやらねばならなかった。それは非常にむずかしかった。非常に重要なことはそれが裸の太腿部の大部分をあらわにすることだった。これはたぶん スパルタの少女たちを太腿露出狂とよぶ理由だった。国の教育の一部として彼女たちはここのような川岸にやってくる。ある詩人がいう。神々しい夜とよぶその時に彼女たちが性的興奮の儀式の踊りをおこない歌唱の競技会をおこなう。少女たちはたがいに歌いかける。下肢はゆるみ、ながい髪の毛を振りみだす。それは乗馬にのっている時のようである。愛の表現に疲れはてる。スパルタは非常にめずらしい性格をもつ古代の都市である。それはおどろくべきことでない。つまり女子同士の愛を奨励していた。

* スパルタ、独特な結婚観
スパルタの女性と男性は別々にくらすという生活になれていた。七歳になると少年は家族をはなれてアゴギにおくられる。きびしい妥協をゆるさない訓練をおこない戦争のやりかたをまなぶ。男同士のつながりは奨励されるというより強制される。十二歳の時に彼らは年長の男性と組をつくらされる。通常は二十歳から三十歳までの未婚の男性である。この男性は少年たちの物質的な必要をみたし世話をし住居の面倒もみる。彼らは母親と父親のかわりをつとめる。また教師であり家庭教師でもある。それにくわえて愛人、制度化された男色の愛人でもあった。

スパルタの戦士たちの対人関係の実相である。親密な関係は男たちの精神的、情緒的な側面に継続的な影響をあたえてるようである。結婚の時である。結婚に円滑にはいってゆくためにおおくの調整が必要となってくる。実際的なスパルタ人は普通でない方法で対応する。とらわれの結婚とよぶ方法を実践してる。結婚の夜、花嫁は頭をみじかく剃髪する。それはアゴギにいる少年のようである。花嫁は男の外套をき足にはサンダルをはく。そしてくらい部屋に一人おかれる。その頃夫は共餐仲間の館からしずかに抜けだす。彼女のもとにくる。彼女を藁のふとに横にする。愛の営みがある。抜けだした夫は共餐の館にもどる。同僚とともにねる。つまりふだんどおりの生活にもどる。古風でおもしろい。これは結婚の夜だけの風習でない。その後、数ヶ月あるいは数年もつづく。

このおどろくべき風習の意義についておおくの議論がある。だが女性の前で男性を最高に仕たてる舞台装置となってることはあきらかである。女性にとってはその時が男とのはじめての愛の経験である。スパルタ人がどれほどわかい男たちに結婚したくなるよう仕むけても、あるいは彼らに義務をはたすよう説得しようとしても問題はおきる。こんな話しがのこってる。たぶん誇張があるだろう。スパルタの女性が男の頭をなぐり祭壇のまわりを引きすりまわす。結婚を約束をすることをもとめる。またもっとありそうな話し。結婚してない男性が衣服を剥ぎとられ裸にされる。冬の最中、市場(いちば)の周りを行進させられる。そしてこの罰が正当であるという歌をうたう。これは彼らがスパルタの法がもとめるところをうまくすりぬけてるからである。スパルタには独身主義者をゆるす余地はなかった。

* スポーツをきそうスパルタの女性
これらの男子にあたえられる仕打ちは極端にみえる。しかしそのきびしさは次世代の戦士を生みだすことが本当に必要だということからきてる。女子に競争を持ちこみ肉体をきたさせる。そこにはおなじ不安が反映してる。女子に配慮された食事があたえられるのは健康な女子が健康な赤子を生みだす可能性をたかめるからである。これはイリシア、安産の女神の彫像である。一部がかけたものだが彼女の表情にはっきりとしたくるしみがある。妖精が彼女に寄りそい、その腹をなぜはげしい痛みにたえられるようたすけてる。スパルタの女性はこの女神にふかく帰依した。彼女たちは常に健康な男の子どもをうむべしという圧力をかんじていたからである。スパルタの戦士の数をおおきくたもつことがが何にも優先する目標であった。戦士の数は最大で一万であった。これは紀元前五世紀をとおしへりつづけた。その理由の一つがスパルタの女性は十八歳まで結婚せず、男性は二十四歳から二十九歳までは結婚しなかったという事情がある。これは他のギリシャと比較するとしんじられないほどおそいものだった。だがスパルタの女性は子どもをうむだけの存在ではなかった。

ある一定の時期になるとギリシャの女性は外にでなくなる。そうすることが期待されてた。だが彼女たちは彼女たちとして固有の力と責任をもっていた。スパルタの女性は政治の世界でも街中でも男に対抗する存在であった。特に神聖とみられてたスポーツ競技場においてたたかう人たちであった。外部のギリシャ人をおどろかせたのほスパルタの女性の肉体のうつくしさではない。彼女たちがしめす自由奔放さである。それが悪名として有名となった。アリストートルはいう。女たちがほしいままに社会をうごかしてるという。これはけっしてほめ言葉でない。アテネや他のギリシャの都市では女性は土地を所有すること、おおきな財産を所有することがゆされなかった。女性の相続人や未亡人は父の望みにそって結婚した。年長の兄弟あるいは従兄弟や叔父がそれをしたかもしれない。それは家族の富をへらさないためのことであった。

葬式や結婚式の出席に牛が引っはる車にのることはあるが乗馬はありえなかった。スパルタで女性は財産を管理する力がある。土地を所有することも財産を所有することもできた。彼女たちは財産を相続することもできた。結婚において誰と結婚するか、あるいは結婚するかしないかも自分できめた。経済的に独立した彼女たちは乗馬でスパルタから外にでゆき鞭をふるって物事をうごかしてゆく。アテネにおいて女性が公衆の面前にでることは制限されてたがスパルタで女性は社会的にみとめられる活躍をした。彼女たちは有名人となった。そのなかでもっとも有名なのはカイネスカ、スパルタの王女である。彼女はスポーツの世界で伝説の有名人となった。彼女の名前はちいさな犬という意味をもつ。

* 二輪戦車の優勝に名をのこすスパルタ女性
彼女はスポーツを愛好する家族にぞくし男の子のような活発な女性であった。彼女は二輪戦車競争で優勝したチームのオーナーである。カイネスカは乗馬の専門家であり非常に裕福であった。まさにつよいチームをつくる責任者として完璧な資格をもってた。彼女自身は競技に参加してないが男をやとい戦車をはしらせた。彼女は自分の野望をかくそうとはしてない。オリンピックゲームにチームを参加させた。そこにはギリシャ全土からすぐれた運動選手たちがあつまりその力を競いあった。彼女の勝利はおどろきだった。その四年後にもまた勝利した。残念なことだが彼女はその勝利を自分の目でみることはできなかっただろう。オリンピアにおい競技は男子のみが参加するという規則だった。

しかし彼女は自分の功績が忘れさられることがないよう手をうった。記念碑をオリンピアに奉納した。オリンピックの聖地の中心に記念碑がおかれた。そこにこうきざまれてる。

私、カイネスカは脚のはやい馬にひかれた二輪戦車の競争で勝利したので、ここに記念碑をたてこう宣言する。自分はギリシャ全土のなかでこの王冠を獲得したただ一人の女性である。

* 政治につよい影響力をもつスパルタ女性
しかし女性が 活躍したのはスポーツにおいてだけでない、彼女たちは都市の政治においても重要な役割をはたした。彼女たちは公衆の面前で演説するよう訓練されてた。彼女たちは公的な決定に権限をもっていなかったがその意見が尊重されるように手をうってた。彼女たちは戦士がその倫理を実行しようとする時にもっとも強硬な意見をいうようだ。スパルタの法律となってないが法について地域社会の声をきき何が正義かを見いだそうとする。その時に勇者をたたえ臆病者を非難する。その時声をあげる最前線にたつのが女性であった。スパルタの女性はおしゃべりで弁論の達人であった。適切にそれがつかわれた時には鎧、兜をまとった戦士たちをもうごかした。

戦士が同僚を勇敢な死と評価する時、女性はすばらしい高貴な旅立ちという。あなたもゆくべきだったのではという。ある男が自分の剣がみじかすぎると文句をいった時に一歩前に踏みこめば充分にながくなるとその母親がいった。スパルタの女性は言論の自由と経済的な権利をもっていたがスパルタを女性にとって夢の国とみなすのは間違いである。 スパルタの女性は軍の連隊の母である。社会の仕組みにおいてそれがスパルタの中心となる。彼女たちは子どもをうみ七歳にアゴギに手ばなす。スパルタは常に出生率の低下を懸念してる。スパルタの男子は母親にとって大切なものだった。奴隷がいて家事の雑事をやる必要がない。わが子に充分な時間をそそげる。しかし時がくればわが子をアゴギに手ばなさなければならない。それは非常な苦しみである。ためらうことはゆるされない。これがスパルタである。母の本能がみたされるより国の目的が優先される。我々がかんがえる母親の姿は母と子どもの関係を大切にしはぐくむものである。だがスパルタで感情的な側面が関与する余地はほとんどない。

* きびしい戦士の母、スパルタ女性
国家レベルではゆるぎない従順さ、生死の行動原理をつらぬく。彼ら個人の生命より重視される。母親においても息子がその義務をはたす。これをなによりも希望する。そのやりかたはまるでナチであり養育ではなかった。息子が戦いにむかつ時に母親がいう伝統的な別れのことばがある。盾をもて、そうでないならそのうえに。これは勝利の帰還、さもなくば死という意味である。もし息子がこの教えにそむくならば母親からの同情はほとんど期待できない。こんな話しがある。逃亡してきた息子に出あった母親が自分のスカートを引きあげ息子に自分がもともと生まれでたところにもどるかときいたという。

* スパルタとアテネの対立を誘発した地震
ペルシアが敗北したその後のこと。スパルタの男たちは母がほこらしくかんじるようなことをほとんどやらなかった。敗北の後からスパルタとアテネは平和裏に共存をつづけた。両者の同盟は問題があったものの維持されてた。しかし両者の考えかたはあまりにも違ってた。そのために相互信頼がうしなわれてしまった。あきらかな抗争の段階である。天変地異がおきた。これで両者の同盟が崩壊し対立から抗争の段階にはいった。紀元前四六五年、一連の地震がスパルタをおそった。被害はおおきかった。おおくの人命がうしなわれた。だがそれはスパルタ社会のなかにいる敵に絶好の機会だった。人口の大半をしめるヘロットが蜂起した。マイシニアの中心にあるアトミ山に反乱の奴隷がやってきた。

それは彼らの母国の象徴でありスパルタによりうばわれたものである。そこに要塞をきづきスパルタの到来をまった。スパルタは敵を山からおろすことができなかった。紛争はながびき、彼らは同盟都市であるアテネに助力をもとめざるをえなかった。アテネは反乱軍を山からおろすために部隊をおくり城攻めの機械をもってきた。それは伝統的戦術に固執するスパルタにはないものだった。この時である。ここでスパルタは不安をかんじた。さて概していうがギリシャで奴隷をもつことは問題でない。だがギリシャ人全体を奴隷とすることは簡単にはみとめることではない。

* ヘロットの反乱に干渉したアテネ
スパルタはこの事実をしってた。さらに彼らの偏執的な不安がある。もしアテネが 反乱者を支持したら、民主主義の病原菌をスパルタにひろめたらどうなるか。この危険を放置できなかった。アテネ軍には本国にもどってもらった。アテネはこの行為を侮辱ととり憤慨した。アテネは同盟を破棄した。そしてスパルタと衝突しはじめた。彼らはスパルタの敵と結託し妨害工作をし、さらに 反乱者をたすけ逃亡を援助した。そのためあたらしい都市まで用意した。あきらかな敵意があらわれた。

* あたらしい戦いのはじまり
今度は両者のあいだに戦いがはじまろうとする。戦いがはじまった。その原因はいろいろあっあったが、その中心には過去五十年のあいだにアテネがおおきな力を獲得した。それがスパルタのあるペロポネソス半島に影響がおよび脅威となったという事実である。紀元前四三一年、ささいな口実をとらえスパルタはアテネに戦争を宣言した。彼らは軍をアテネの領域におくった。彼らはアテネに七マイル(十一キロメートル)のところまで軍をすすめた。すでにのべたがアテネは厳重な壁によりまもられてる。かって友好国であったが今や不倶戴天の敵となった。

戦争最初の年、アテネの犠牲者である。ここの墓地にほうむられてる。都市の壁の外にあった。ペリクリースが公衆にむかって熱情的に演説した。この歴史的な名演説で彼はいった。この戦いでアテネがやったことすべてはただしくスパルタがやったことすべては間違いであるという前提があり、いうところ。

* 両者の違い、国に誘導された勇気と自発性による戦い
スパルタは幼少期から少年たちに重労働のようなくるしい訓練をしいている。ところがアテネでは少年たちはこのような制約なしで成長してきた。ところがおなじ脅威に立ちむかうに、我々は危機に自発的にむかう。国家が誘導した勇気をもってでなく自然な姿で立ちむかう。

彼はスパルタが社会の仕組みや政治、あるいは彼らの性格があまりに異質で平和的な共存は不可能であるといってる。演説はこの総力戦が前例のないほど大規模なもの残酷なものとなるとの見通しを示唆した。実際、戦いは西はシシリー東はダーダネルス海峡まで、また二十年以上もつづいた。残酷な戦いだったがどちらにも決定的な結果がでないまますぐ 停滞状況になった。スパルタは陸でアテネは海で支配を維持した。五年間にわたり毎年、スパルタはアテネの領土を侵略し田畑に放火し収穫物を台なしにした。アテネは田園地帯から逃げだし都市の壁のなかに退避した。その都市と港、パイリアスは壁で厳重にまもられてる。

* 停滞状況におちた戦い
孤立した都市は港町の艦船をつうじて住民の食糧、資材を確保した。一年すぎる頃、疫病が都市におきた。死体が道に積みあがった。人口のほぼ三分の一が死亡した。歴史家、ツキジデスは人間がたえられる限度をほぼこえてたといった。財力も権力もまもってくれなかった。ペリクリース自身もこの疫病にたおれた。スパルタにとってペリクリースの死は神の加護が自分たちにあることをしめすものだった。しかしそうでないこともおきた。ツキジデスがいう。こんなことがおきるとはとギリシャ全土がおどろいた。それはスパルタの裏庭というべきこの島でおきた。パイロスはペロポネソスの西端にある島である。戦略的な重要地点である。紀元前四二五年である。

* 西の重要都市をうばったアテネ
この島がそれまで奴隷でスパルタに反乱をおこした人々のたすけによりうばわれた。地震の後の出来事だった。スパルタはこの挑発に我慢ができず軍をおくりパイロスをうばいかえそうとした。彼らの計画は島と海でアテネを阻止しようというものだった。パイロスとアテネにたいし城攻めにうつった。ちいさな部隊を岩のうえにおいた。その岩は長さが一マイルと半分(二キロメートル強)パイロス湾を横ぎってのびていた。スファテリア島であった。スパルタは相手をみくびってたことをしる。アテネは海で活躍する人々である。

彼らは艦船をおくり数日後にやってきた。彼らはすぐ制海権をにぎった。戦況は一変した。スパルタは四百の部隊をのこし退却。部隊はスファテリア島に駐屯した。彼らは完全に包囲された七十二日がすぎた。ここでおどろくべき失敗をやった。何人かの兵たちが焚き火の管理に失敗し火はもえひろがり防禦施設を消滅させた。彼らは身をかくす場所をうしなった。アテネはこの状況からどこに何人の兵がいるのかをしった。彼らは島をうばうことにした。八百の弓の射手と八百の軽装の兵が参加した。
* 孤立したスパルタの守備隊
彼らは上陸したがスパルタとの接近戦はさけた。矢をいかけたり投げ槍の攻撃をしたがスパルタが接近してくるとすぐ距離をおいた。この戦い後に三百の死体をのこしスパルタはもどった。生きのこった者たちは防禦ができる島の北端に立てこもった。アテネは弓の部隊をおくった。距離をたもって矢の攻撃をおこなった。スパルタは完全に包囲された。かってのテルモピレの状況ににてきた。そこでは三百人がスパルタの栄光のためにたたかい玉砕した。しかしスファテリアではそのような栄光はなかった。アテネは巧妙な作戦をとった。彼らはしばらくの猶予をおいて使者をおくり丁寧に降服の意志をきいた。おそろいたことに彼らは降服に同意した。

* 百二十のスパルタ兵の降服
これがスパルタ以外だったらおどろくべきことではない。スパルタの兵たちは二ヶ月以上ものあいだ、ほとんどのまずくわずで閉じこめられてた。アテネの射手は毎日、弓矢の練習をかねて彼らを攻撃した。このような状況で彼らはスパルタ人として犠牲者をだしながら降服を拒否してた。ペリクリースがあざけっていった国により誘導さた勇敢さがアテネの巧さにより崩壊させられた。彼らはスパルタがもとめる体がぶつかりあう戦いをさけた。アテネは彼らに死か栄光かの選択以外の、彼らが予想してなかった選択をあたえた。スパルタがもっていた無敵神話がここでくずれた。

これはアテネをすくう勝利である。ここに戦利品がかざってある。盾である。その傷跡からみて投げすてられてあったものを持ちかえったのだろう。そこにアテネがラコニア人からパイロスで獲得したものとかいてある。これは簡潔な勝利の宣言である。このほかに百二十のスパルタ兵が捕虜としてアテネにおくられた。もしスパルタがアテネの領域で活動をするならば彼らは処刑されるとう脅しである。スパルタ人捕虜はアテネ人の好奇のまととなった。彼らは公衆にまるでめずらしい動物のように展示された。アテネ人は押しあいへしあいして捕虜をながめた。喚声をあげた。ツキジデスがいう。群集のなかの一人があざけるようにきいた。本物のスパルタは島でしんだ。針仕事をやってるのがちょうどよい。スパルタはこれにこたえた。針はスパルタでは矢の意味がある。彼らは矢をつかった攻撃は女々しく卑怯の攻撃といったという。

* スパルタの和平とあらたな戦いのはじまり
スファテリアの敗北はスパルタに大騒ぎを引きおこした。すぐ和平をもとめる動きがでた。アテネにはこれにおうじる寛容な雰囲気はまったくなかった。この機会を最大限に利用し有利な条件で合意しようとした。スパルタの捕虜が帰国できたのは五年後のことだった。彼らが帰国しての扱いであるが、臆病者として罰をあたえられることも市民権をうばわれることも街を散歩することを禁止されることも街中で棒でうたれることもなかった。アテネ人のあざけりをだまらすようにまた戦いがはじまった。血まみれの戦い、最後の幕である。

(おわり)

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アレクサンダー大王、その九、マリアン遠征作戦 [英語学習]


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* はじめに
ヒダスペスの戦いを勝利したアレクサンダーはさらに東進したがヒファシスで遠征を断念した。帰国の途についた彼はインダス川流域を船でくだり、そこの部族、マリアンを平定した。さらに南下し海岸線をすすみ沙漠横断をこころみるなどしてスーサについた。ペルシアとの融合のためペルシアの王女を妻とし、さらなる遠征を夢みたが突然の熱病にたおれかえらぬ人となった。
(Alexander the Great: Mallian Campaign 326 BC、BazBattles、2017/10/22 に公開)

* さらなる東進
紀元前三二六年七月、インド、ヒダスペスの勝利の後でアレクサンダーに引きいられたマセドニアの軍はパンジャブにいた。アレクサンダーのインド亜大陸の未知の土地にたいする征服意欲はおとろえることがなかった。当時のギリシャ人は世界の陸は海にかこまれてる。この大陸をぬけるとその海にぶつかるとしんじてた。

アレクサンダーの野望はパンジャブ征服だけではみたされなかった。彼は東にむけ出発する。ガンジス川流域の人口のおおい地域への遠征作戦に取りかかった。モンスーンの季節であった。はげしい雨がマセドニア軍の進軍をさまたげた。ヒマラヤの雪解け水の増水も川の横断をむずかしくした。だが彼らはハイドロオテス川を妨害にあわずすすんでいった。

* 四千八百キロ、東征のおわり
彼らが本土をたってから八年がすぎた。三三四年にダーダネルス海峡をわたりペルシアにむかった。すぐれた指揮官に引きいられマセドニア軍はほぼペルシア全土を征服した。そしてその遠征は東の端をこえた。母国から三千マイル(四千八百キロメートル)もはなれた。神話やおとぎ話の世界で地図にのってない場所にはいってしまった。彼らの装備は擦りきれ衣服もぼろぼろになった。常に雨がふってる湿気のおおい気候は彼らの進軍をますます困難にした。そしてとうとうアレクサンダーがモンスーンで増水した川、ヒファシスをわたろうとした時である。兵のおおくが川をわたることを拒否しもどりたいといったという。このあからさまな反逆行為はアレクサンダーに忠実な将校たちも支持した。部下のためにこの遠征作戦はこれ以上はすすめられないといった。アレクサンダーはこの反乱を予期したか彼らの意気阻喪ぶりをいかったのかはあきらかでない。あるいは、彼が軍の士気低下をしっていた、どこか適当なところで遠征をやめるつもりであったのかもしれない。彼の虚栄心が引きかえすと発言させなりかったのかも。たぶん彼はこの軍の士気低下とか突然月食がおきたとかわるい予兆を口実に彼の偉大な計画、征服を破棄することを正当化しようとしたのだろう。

成人した彼がこれまでてあじわってきたのは戦争の勝利だった。偉大な成果の連続であった。このことをかんがえると彼は神にあいされ神ともおもわれる特性をあたえられた人とであるとかんがえたかもしれない。真相はわからない。だが彼は部下たちの要求にまけヒファシスでとまった。ローマの記録によれば彼は帰国にむかうにさいし十二の祭壇の建立をめいじ野営地の大規模な要塞化をおこなった。これは後世の人々の記憶にのこる記念碑とするためのものだった

* 帰国準備、艦船隊の編成、南下
マセドニアの遠征軍がヒダスペスの川岸にもどってきた。アレクサンダーはすでに平定した地域を単純にもどることははずかしくてできなかった。それはまるで敗北の行軍にみえる。それで中央アジアの道をとるのをやめ南に進路をとることにした。インダス流域を南下し海にいたる。そこから海岸沿いにバビロニアにむかう。そのため次の二ヶ月を部隊をのせられる艦船の作成にかけた。これで川をくだるのである。

艦隊が完成する直前にスレイスから増援隊が到着した。一万五千の新規の兵だった。それといっしょに今まさに必要とする兵の衣服、鎧兜、武器、その他におおくの備品もおくられてきた。彼らは本隊に合流した。もし彼らがアレクサンダーが前進を断念したヒファシスにいたる前に合流していたら彼は部下にむかってさらに東にすすもうと呼びかけ部下を説得したかもしれない。だが紀元前二三六年十一月のはやくだが艦隊はできあがりモンスーンの季節はおわってた。マセドニアの軍は南にすすんでいった。

* オックスドラシァンとマリアンとの敵対
アレクサンダーはほぼ十万の兵を指揮下においた。兵站のため三つの部隊を編成した。プトレミとクラテラスがそれぞれの分遣隊を指揮しアレクサンダーも分遣隊を指揮し川をくだった。数週間後、これらの部隊はインドの二つの部族、警戒をようする部族がすむ土地に上陸した。オックスドラシァンとマリアンという。彼らはギリシャの軍に敵対的であった。

にわかに敵が出現したので二つの部族はあらそいをやめ一時的に同盟をむすんだ。マセドニアの軍はヒダスペスとアセシンズの川が合流してるところにやってきた。そこに野営地を気づ★き部隊は再合流した。ニアカスが指揮する艦隊はアセシンズ川をくだった。そして次のハイドロオティエス川と合流する地点に橋頭堡をきづいた。クラテラスの艦隊はその後にしたがい川をくだっていった。アレクサンダーは最大の部隊を指揮した。両方の川のあいだにある砂地においてインドの敵を攻撃するべく用意した。

* マリアンとの戦い、砂州での衝突
これは非常にむずかしい作戦である。アレクサンダーの攻撃はまったく効果がないかもしれない。しかしこんなことははじめてでない。彼は敵をおどろかすため予想外の手をうってくることがあった。彼はマリアンがこの地域でもっとも獰猛で好戦的な部族であるとしらされてた。この警戒のあまりマセドニア軍は進軍の道筋の街の住民を虐殺していった。さらに恐怖をあたえるために分遣隊を組織しおくった。これで征服の効率をあげ完璧にするためであった。複数以上のギリシャの部隊が巡回した。マリアンはこの侵入者の追及をのがれることがよりむずかしくなった。

安全に逃げだす惟一の方法は南のマリアンの首都にむかうことだった。アレクサンダーは首都にだんだんと近すいていった。それはハイドロオティエス川にそってすすむものだった。その進軍の途中でマセドニアは組織的な反撃をうけた。それは浅瀬をまもる警護隊だった。アレクサンダーは彼の騎馬隊とともに川をわたり攻撃を仕かけた。それはすぐ敵を恐慌におとしいれ防禦をわすれ逃げだした。あきらかにギリシャ軍の凶暴さが地域に周知となってるとわかった。マセドニアの騎馬隊はにげる敵を追いかけていった。しかし敵の指揮官はギリシャの騎馬隊の数が少数であることに気づいた。それでとどまりアレクサンダーとたたかうことにした。小規模な戦いがおきた。アレクサンダーは数で圧倒されているので本格的な戦いにはいるのをさけた。

* マリアンへの城攻め、アレクサンダーの負傷
まもなくこの戦いにギリシャの軽装歩兵隊が合流した。これでマリアンは総崩れになり彼らの砦に逃げかえった。マリアンの最後の抵抗はすぐ包囲されギリシャの軍は城攻めの態勢にはいたっ。その外壁はギリシャの軍の襲撃によりくずれた。しかしそのなかにある壁は強固だった。アレクサンダーはすぐ城攻めがはかどらないことに、いらつきはじめた。壁をのぼる梯子を取りだし壁の攻撃にかかった。彼にしたがうのは少数の親衛隊であった。マセドニアの兵はあわてて王の支援にはしった。彼はすでに壁のうえにたってたたかっていた。おどろくことでないが彼は胸に矢をうけた。彼の危険を無視した攻撃の結果だった。

しかし彼の無謀な行動は兵の急襲を加速した。砦はまもなくおちた。アレクサンダーが死亡したとの噂が彼の兵たちの怒りをよび都市住民の殺戮を加速した。数千人が刃にたおれた。復讐の行為だった。ささった矢は外科医のクリトメダスがぬいた。彼はその後数日、生死のあいだをさまよった。彼の健康がやや回復してマリアンの降服を公式に承認した。その地域にギリシャ人の行政長官をおいた。彼の傷はインダス川を南下してゆくあいだ痛みがつづいた。だがもはや生命の危険はなかった。

* マリアンで帰国準備
マリアンを平定してるあいだマセドニアはこの年の半分をつかって本国への帰国を準備した。紀元前三二五年、モンスーンの季節がおわろうとしてる時である。アレクサンダーが指揮した五万の兵が西に帰国の途についた。ニアカスは自分の艦隊を大洋の航海にたえるように整備した。この艦船は海岸線をすすむ軍にしたがった。だがう都市についた。そこはドランギアナの肥沃な土地からうまれるおおくの供給品をえることができた。

* スーサに到着、合同結婚式、王女を妻に
紀元前三二四年一月である。アレクサンダーはパソガディについた。そこから二ヶ月でスーサについた。そこで彼はニアカスと再会した。そこで彼はあたらしく征服した領土との一体性をたかめる努力をした。忠誠心に問題があるおおくの州長官を更迭し時には死罪とした。マセドニア人とペルシア人のあいだを強固にするためスーサにおいて合同結婚の宴をひらいた。おおくのマセドニアの高官はペルシア人女性を妻とした。アレクサンダー自身もペルシアの王女を妻とした。

* 突然の死
莫大な仕事と努力がこの広大な領土をもつペルシアを統合するのに必要だった。それにもかかわらずアレクサンダーはアラビアと西地中海への遠征を計画してた。しかしもはや征服の途にのぼることはなかった。紀元前三二三年六月である。

突然彼の軍人としての経歴がとだえた。彼は戦いでなくなった友人、ヘイフスティアンをしのぶ集まりをひらいていた。突然胸に痛みをかんじた。痛みをかんじたまま酒をのみつづけた。翌日、彼はおもい熱病を発症した。そして急激に健康をそこなっていった。六月十一日、三十三歳の誕生日をむかえる一月前、その力が頂点にある時に、死亡した。この突然の死は彼の友人や政府の高官にとってはまったく予期してなかった。その後には規則にそぐわない出来事がつづいた。アレクサンダーがきすいた帝国はだんだんとばらばらになりあわててあつまってきた承継者に引きつがれていった。

次は補注のようなもの。
一、アレクサンダーの提唱からはじまったギリシャ人とペルシア人との合同結婚はながくつづかななかった。彼の死後、ほとんどすべてのギリシャ人貴族は離婚した。これはあきらかにアレクサンダーが二つの文化を融合しようとしたことへの彼ら貴族の考えかたをしめしてる。


二、都市、アガディについてアレクサンダーはペルシャの王となろうとした。だが、この都市の滞在中にはできなかった。紀元前三三〇年にサイラス大王の墓があらされたことによって、ペルシアの王となる戴冠式はもう一度延期せざるをえなかった。

三、ヒファシスの反逆からアレクサンダーは保守派の将軍、クラテラスを宮廷からとおざけた。こうしてクラテラスの部隊はインダス流域の反乱を鎮圧するようめいじられ、またすでに平定ずみの中央アジアの道筋をたどりもどるようめいじられた。

(おわり)

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二大政党ができるか [バカにされないクスリ]


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* はじめに
現状の分析では、総定員、四百六十五のところ与党の自民、公明が三百。のこりが希望、立憲民主、維新、共産など、百六十五となるらしい。テレビで解説してた東国原英夫氏が選挙後に野党再編がおきて百をこえる与党対抗勢力が誕生するかもといった。私はこれはすごい二大政党制の誕生か、とおもった。だが無理、まとまるはずがという。小池旋風の登場の当初、安保法制維持、憲法改正の姿勢から、この道筋がみえるかと期待した。だが希望への民進党の合流、選別宣言、小池人気の低落、合流できなかった民進議員をあつめ枝野新党、意外な人気。まことにめまぐるしい変化。風よみ小池氏の安倍一強批判。ぐちゃぐちゃになった野党勢力が選挙後にまとまればとも。せめてそれぐらいの成果をだしてくれといいたいが、どうもそうでないようだ。

* 二大政党の可能性をさぐる、立憲民主党は
立憲民主党は政治的主張をとおした。日本人特有の判官びいきもあり勢力が予想外にのびるかも。だが政治評論家、田崎史郎氏は筋をとおしたようにみえる人たちといってる。事実彼らは前原氏のあっせんで希望の党に希望者全員がうつれるとの説明に万歳した。ところが小池氏の選別方針でやむえず転換して新党結成にむかった。万歳したことはだまって、はじめからイヤといったという人も。

* では希望への転身組は
ところで希望に転身した人たちの政策は。当初のきびしい小池選別なら、いったい党として公式に安保法制を否定してた。ほとんどうつれなかったはず。小池人気がおちて本音がきこえてきた。誓約書をだしたはずだが選挙民相手に憲法改正や安保法制反対を。また離党まで口に。おそらく元民進系が当選するだろう。そうなるともはや求心力をうしなった小池さんのいうことは。自分の嗅覚をたよりに政界再々編にいどむ。

* 野党の再々編の目論見は
ここで意気あがる立憲民主と話しあう。これうまくゆくか。望みうす。気まずいわかれからの再会。もともと政策を突きつめて後の分裂でない。政策はなんとなく共通していても不愉快な気分が優先するだろう。とても二大政党制の一つの対抗勢力とまでにまとまらない。さて私は日本は「一大政党制」だとおもう。

* 日本は一大政党制では
与党は常にに政権をにない人材を内部にもつ。派閥が多様な意見を反映し社会の変化に対応する。党内抗争をつうじ党代表をだす。野党は政権をになう気持はなく人材もすくない。与党批判のみを存在意義とする。これが日本の政治だとおもう。これでうまくいってた。うまくゆくとしんじてる国民がおおいかも。ところが民主党が自民党から政権をうばった。政権の交代を実現させたという意義はみとめるが二大政党制の実現ではなかった。ご存知のとおり政権運営の実力も実態もなかった。二〇一二年の安倍政権復活でたちまち株価上昇、経済指標が好転が事実をしめした。つまり日本は一大政党制だということ。

* 二大政党制がのぞましいが
私は二大政党制、安全保障や憲法観はほぼおなじだが経済や社会政策で特徴をもつ二つの党が国民の選択をきそう。これがのぞましいとおもってるが日本の一大政党制も国民の選択である。今回の選挙の結果では一大政党制の維持だろう。私はそれは馬鹿な国民の選択とひそかにおもってるが、それを馬鹿の選択と切りすてずもうすこしかんがえてみる。

* これでも一大政党制か
一、一大政党制は時代おくれ。追いつき追いこせという時代はとっくにすぎたがあいかわらず一大政党制である。先進国となり未知の世界に足を踏みこんでる。多様な意見を受けとめ時には先進的な政策をこころみる必要がある。一大政党制にある日本の現状といえば現状維持最優先の官僚、特に財務官僚のお膳立てに政治家がのっかってる。政府がマクロ経済の運営を主導すべきだが、そのマクロを理解しているとおもえない。デフレ脱却にくるしんでるのに緊縮財政、予算ベースでなく決算ベースでみれがわかる。また何かといえば増税を持ちだすという頓珍漢をつづけてる。財務省主導の予算づくりに対抗して将来の投資は国債発行と主張する別の与党候補がでてきてほしい。時代おくれの一大政党でいいのか。

二、野党が政策を批判する政党か。日本の野党は政治に不満をもつ国民の受け皿にすぎない。野党が与党の揚げ足をとってるところみて鬱憤をはらし与党や政府がこまってるのに喝采してる国民にサービスしてるだけ。選挙の落選をおそれ希望に万歳してうつろうとした。希望に選別されて新党にはしった。選挙後には将来の選挙をかんがえて野党再々編に知恵をしぼる。そんな野党がほんとうに政策批判ができるか。

三、そんなにおおくの野党議員が必要か。おそらく与党が三百、野党が百五十程度だろう。一大政党制で百五十の批判勢力が必要か。与党のやってることに文句をつけるだけ、けっして政権をになう実力も意欲もない。こんなにたくさんの政治家が必要か。

さて結論である。

* 結論
選挙の結果がまもなくでる。どんなものかをみて、私は馬鹿な国民がどれほどいるか、あるいはいないのかをみるつもりである。

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