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スパルタの栄光、その一、テルモピレの戦いまで [英語学習]


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* はじめに
ギリシャの数ある都市国家で異彩をはなつスパルタについてのべる。かってさかえたマイシニア文明がおわった後に暗黒時代がおとずれ、やがて肥沃な土地をもとめてやってきたスパルタ人がギリシャ西南部、ユラテス川流域にスパルタを建設した。周囲のギリシャ人を奴隷化し国をつくった。数で圧倒的におとる彼らは軍事力で住民を支配した。軍事力の優先が他の都市国家から際だつ特殊な社会をつくった。三部作の第一でテルモピレの戦いまでをあつかう。
(The Spartans - Part 1 of 3 (Ancient Greece Documentary)、Timeline、2017/08/25 に公開)l

* 古代ギリシャを代表するスパルタ
古代ギリシャをかんがえるとアテネのパルテノンが思いうかぶ。そこは西洋文明の起源を象徴する。 哲学、科学、芸術、建築、民主主義の源泉がある。しかし古代ギリシャにはアテネよりもっとみるべきものがある。かっての都市の悲劇の記念碑である。三百人のスパルタの戦士が埋葬されてる塚である。彼らは紀元前四八〇年、テルモピレにおいて最後までたたかってちった戦士たちである。彼らは巨大なペルシア軍の侵攻に抵抗した。ほぼ四十倍の敵にかこまれ玉砕した。彼らはここに埋葬されている。碑文で彼らの行為を顕彰しこういってる。

ここに通りがかった異国の人よ。スパルタの人につたえてくれ。スパルタの法にしたがい我々がここにねむることを。

* スパルタの特徴
アテネとちがいスパルタには高名の哲学者はいない。政治家、芸術家についてもおなじである。彼らは二つで有名だった。

一、倹約ぶり、我々スパルタは言葉を節約する。寡黙な戦士が有名である。密接に関連するが、
二、厳格な行動規範。スパルタの社会でその行為にもとめられる。それは極端な規律遵守と自己犠牲にある


彼らの目的は完全な都市国家をつくり、それを完全な戦士でまもることである。

完璧性の追及はスパルタを奇妙なところにした。お金を法律で禁止した。平等を強制した。虚弱な子どもはすてた。男性中心主義を強制した。一定程度の社会的および性的自由が女性にみとめられた。これは古代の世界できいたことのないものだった。粗暴な軍国主義であり大規模な奴隷社会だった。現代の全体主義の政府をおもわせるものだった。

しかしそれと同時にスパルタは市民の権利と義務を最初にさだめた都市国家だった。スパルタはアテネとともにペルシア帝国からの奴隷化をすくった。それはつまり西洋社会の奴隷化をもすくった都市国家である。スパルタの硬直した理想主義にはアテネ文明がもってた魅力はなかったが西洋文明にとっておなじ程度に重要だった。それはパルテノンが象徴する崇高な理想とおなじ程度に崇高だった。スパルタの物語りは我々自身の物語りである。西洋文明に流しこまれたいくつかの考えが二千五百年前のギリシャの軍国主義国家においてその妥当性をとわれた。


* ペロポネソス半島にまもられたスパルタ
スパルタの物語りには私を劇的感動にさそう歴史がある。私はある旅行にむかった。そこにはその感動に合致する環境があった。それはペロポネソス半島である。そこには岩肌をみせる山脈があった。谷筋がいくつもはしってる。これらがギリシャ本土最南端の景観をつくってた。古代のギリシャ人はそれを島とかんがえてた。

これからする物語りよりもずっと前にスパルタにはかたるべき歴史があった。あのトロイ戦争をたたかったギリシャ人のおおくはここからやってきた。ギリシャを指揮するアガメムノンはペロポネソスの東部のマイシニアをおさめてた。南のスパルタにはメネレイアスとその妻ヘレンの宮殿があった。ヘレンはその美貌ゆえにトロイ戦争を引きおこした。だが紀元前千百年前にすべてがきえた。何がおきたのかたしかなことはわからない。地震、奴隷の反乱。あるいは小惑星が原因かもしれない。ヘレンがいた東地中海の地域のすべてが灰燼にきした。その残滓が数百年つづいたが、突然おわった。

* 北からやってきたスパルタ人
そしてギリシャに暗黒時代がやってきた。歴史の連続がとだえた 。中央で暗黒がつづくあいだに北からあたらしい人々がより肥沃な土地、より住みやすい土地をもとめてやってきた。彼らはあたらしいギリシャの方言をはなす。羊や山羊をつれわずかな財産をもってやってきた。彼らはペロポネソスの全域にひろがった。メネレイアス王がかって支配した土地にもやってきた。くるしい旅のかいがあった。やってきた人々はここに理想郷をみたとおもう。平原がひろがる。ユラテス川がながれる。川は南北に五十マイル(八十キロメートル)ををながれる。土地を渇望してたギリシャ人には肥沃な貴重な農地であった。川は一年中ながれてた。そこの七十パーセントは農地に適当でなかった。そのわずかの農地が山と海にはさまれてた。その西にはジーザス山脈が八千フィート(二千四百メートル)以上の高さの山があった。春から夏になろうとしてる頃にも残雪があった。その斜面で狩をすれば鹿、猪、またゆたかな山菜、木の実などがとれた。ここには数字であらわせないすばらいいものがあった。

安全の感覚である。 どこをみても、どこの水平線をみても丘や山並みがまもってくれる。まさに安全である。そうだから家畜をおう人々がオリーブの木の下で羊をうる。そしてそこに定住する。つまりあたらしいスパルタ人がうまれる。彼らはここにメネレイアスの寺院を伝説の王、メネレイアスとその妻ヘレンをたたえてたてた。暗黒時代がおわりあたらしい時代にスパルタのようなあたらしい都市がギリシャ各地にうまれた。

* 都市国家をつくるスパルタ
その規模、勢力はさまざまだった。しかし一つ共通する。たがいが合意した法と習慣にしたがい統治がおこなわれたことである。その規則の内容はことなるがそれが目的とするところはほぼおなじである。善良な秩序と正義をつくる。そして混乱と無法状態にたいしてそれらをまもる。今日の考古学者はここに三千年前に最初にやってきたスパルタの人々の生活を描きだそうとしてる。

理想を夢み都市を建設した人々、ユートピアを夢みた人々である。ほとんど手がかりになるものをのこしてない。彼らの再構築は容易でない。彼らがのこしたもの。それはうまったままか現代の都市が建設された時に破壊されたものである。建築計画がすすむ時はいつも小片があらわれ謎をおしえてくれる。スパルタ人はアテネ人とちがう。材料をのこさない。建築物をたてない、ものをつくらない、自分たちのことを記録にのこさない。これらで有名であった。このため古代都市と文明について関心をもつ人々にとりスパルタはことさらに関心をよぶ存在である。

* 二人の王の神話と歴史
たとえばスパルタの王である。スパルタはわかってる範囲でずっと王は二人、二つの王宮があった。この独特の仕組みについてスパルタ人はこう説明する。彼らは神話の英雄、ヘレクレスに直接むすびつく子孫である。伝説では双子の二人である。彼らはアガメムノンの子孫からペロポネソスの支配を安定させたという。人々がいう彼ら自身の物語りは示唆にとむ。これは攻撃的な王位簒奪者の二人による領土の奪取だが、神話では高名な英雄の子孫への継承である。これは周辺の人々の不安を掻きたてるメッセージとなってる。

* 奴隷化をすすめるスパルタ、ペリオイコイ
そしてほどなくスパルタ人はユラテス川流域の各地の測量をおこない季節の流量の調整をはじめた。また、それほどとおくない頃に非スパルタ人の奴隷化をはじめた。彼らの公民権をうばいペリオイコイ、周囲にすむ人々という意味だが、こうよぶようになる。彼らは職人と商人となりスパルタの経済活動をになう人々となった。この隣人の奴隷化がスパルタの最初の拡張だった。ユラテス谷に充分な広さがあったにもかかわらずスパルタは他の都市と同様に土地にうえて拡張をもとめた。他の都市はこれを植民都市の建設あるいは衛星都市の建設によってみたした。その西の極限はジブラルタル海峡である。東は クリミアの黒海にいたる。スパルタ人も自分たちの都市建設に取りかかる。

* 奴隷化をすすめるスパルタ、ヘロット
彼らの目は西にむいた。そして山をこしたむこうには彼らの欲求をみたす土地があるかも、また理想郷かもしれない。あるいはまた彼らの暗黒面をあらわにするところかもしれない。それはつまり彼らが主人となり奴隷国家をつくることであるからである。ジーザス山脈の谷筋の道を車でゆくが二千八百年の昔にはスパルタ軍がこうして西に遠征した。領土の獲得をめざし山中のきびしい行軍を数日つづける。そこはマイシニアである。スパルタは領土ばかりでなく住民の自由もうばう。彼らはマイシニアをヘロットにした。それはとらわれた者という意味つまり奴隷である。自分たちの生活のなかに奴隷がいることは古代ギリシャにおいて受けいれられる概念である。しかし奴隷は外国人、あるいは野蛮人とかんがえられギリシャ語をはなさない人々である。そうであれば奴隷という存在は受けいれやすい概念である。ところがおおきな規模でギリシャ人を奴隷にする。これはおなじといえない。マイシニアを奴隷化したことは他のギリシャの都市との違いをきわだたせた。それはまたスパルタが社会の不安定化におびえ反乱がおきることを極度に警戒しなければならない社会に仕たてることを意味する。マイシニア人を奴隷とすることは容易でなかった。

二回の全面戦争が必要だった。それぞれ二十年をようした。ここで二度目の戦争について我々がしってることをのべる。我々はその戦いの目撃者をもってる。その最初はターティエスというスパルタの兵士であり詩人である。

* 奴隷化戦争、マイシニアの侵略
勇敢な男が死ぬことはすばらしい。自分たちの祖国のため戦いの前線にでてたおれ死ぬことはすばらしいことである。この国土のため情熱をもやしたたかおう。我々の子どもたちのために死のう。もはや自分の命をおしむ時ではない。若者よきたれ。自分の心のなかにある情熱をもやし男々くたぎらせよ。戦いに身をおく時に自分の命をおしむべきでない。

ターティエスは戦争詩人である。彼が戦争に身をおく時にあわれみの心をもってなかったとおもう。これらの詩の文章はまるで戦いの雄叫びである。兵を引きいる軍曹のような率直さで意気地なく逃げだそうとする人にもし自分の国土をもとめるなら、たたかって奪取しなければならないとその性根に叩きこんだ。

* 重装兵士の誕生
これはターティエスが重装兵士(ホップライト)とよぶ兵士たちに語りかけたものである。彼らは八フィートの槍とまるい盾をもつ兵士たちである。紀元前七世紀のおわり頃すべてのギリシャの都市は彼ら自身の軍をもってた。彼らは重装兵士である。彼らはフルタイムの職業軍人でなかった。彼らは農民である。彼らは祖国をまもるため鋤をすて槍をとる。彼らは横につらなって敵に立ちむかう。この兵は勇気をしめすばかりでない市民という特権がある資格をもってることをしめしてる。

ここは各種競技がおこなわれることで有名なオリンピアである。そこはまた非公式の重装兵士の寺院でもある。そこに兵士たちが装備した武器を勝利の感謝の意味をこめてささげるところである。ここにかざってあるのは盾についてたホップロン(hoplon)である。重装兵士の装備品である。その兵士の名前がはいってるだろう。これは中央にある革の板に左腕をとおし、縁の革紐をつかむ。こうして盾をささえる。木と金属でできてる。その重量は二十ポンド(九キログラム)。これで一日たたかうから相当の重さである。しかし鎧や盾をおとすことは最大の恥辱であった。

* 密集歩兵隊のたたかいかた
重装兵士の戦法はチームプレイである。盾は自分をまもるともにその左の味方をまもる。重装兵士たちはたがいに近よって強固な防禦をつくる。これを密集歩兵隊とよぶ。七あるいは八の列が縦にかさなり、おそらくその一列は横に五十の盾がならぶ。協同と規律が重要となるがもっとも大事なのは信頼である。もし隣りの兵士がくずれ逃げだしたらその兵士は剥きだしになり敵の槍の餌食になりかねない。二つの密集歩兵隊がぶつかった時は兵は右に位置をかえようとする。これは本能的に隣りの兵の盾の後にかくれようとする動きである。この時、密集歩兵隊の規律がこわれる危険がある。これをまもるため兵たちは歯をくいしばり自分の位置をたもつことが大事である。ターティエスが有益な助言をしてる。しっかりとそれぞれが自分の位置をたもち敵の前線にむかい接近戦にいどむ。そうすれば死者はすくなくなる。そうすると彼らは後の部隊をより安全にする。

いったん密集歩兵隊がぶつかったら、その戦術はおおくない。戦場は粉塵のなかですべてがみえなくなる。そして相手を押しあげる。後列はラグビーのスクラムのように力をだしてこの押しあげをたすける。敵の槍の攻撃にさらされる範囲は前から三列までである。ここの状況が生死をわける。これは盾についてるゴルゴン、神話の女神の飾りである。彼女がにらむと男は石となるという。さてスパルタはこのような戦闘に関連する美術品では他のどの都市よりもすぐれている。彼らは隣人、マイシニア人たちをたおし奴隷にしなければならなかった。紀元前六五〇年頃にそれは完了した。次の三百年のあいだマイシニア人は奴隷となった。スパルタ人の田畑で農奴となりはたらき驢馬のようにおもい荷物をかついだ。ターティエスはそういってる。

* 軍事立国スパルタ、理想郷の維持
マイシニア人の征服をおえたら次にスパルタ人がかんがえたのはこれをどうして維持するかである。ギリシャのほかの都市においては市民戦争により富裕な人々とまずしい人々が分裂した。スパルタにおいてもマイシニア人の反乱の危険が非常にたかまった。ここでスパルタは思いきった方法をとった。まず彼らの理想郷の実現と維持を国家の目標とした。彼らのすべてをそんな完璧な社会にささげることにした。重装歩兵による密集歩兵隊、規律ある集団主義と自己犠牲のうえにつくられた理想郷。これを目ざす革命であった。

* 建国の指導者、ライカーガス
すべての革命には偉大な指導者が必要である。スパルタではライカーガスである。彼は狼の労働者(wolf worker)といわれる。彼が実在したと言いきれない。だがスパルタ人はそうしんじる。彼は奇跡をおこす労働者。神々の助言をえて天と地をつくったという。古代においてこんなに極端にはしたっ文明をつくったのは、彼かもしれない。あるいはある集団にぞくした人々かも。あるいはある複数世代にぞくする 人々かもしれない。

スパルタを変革した革命は紀元前六五〇年頃、スパルタの隣国マイシニアの奴隷化が完了した時である。ヘロットを平定し彼らの反乱をおさえるためスパルタは強力で規律ある専門軍人による重装兵士を作りあげた。かってのギリシャになかった。スパルタの社会は実質的に軍人養成の訓練場となった。スパルタ人は漁師でも農夫でもなく職人でも商人でもない彼らはただたたかう人々だった。彼らがたたかってない時は訓練をうけてる。訓練をうけてない時は同僚の兵士と外をぶらつく。家族のまとまりはほとんど重要視されなかった。大事なのは男子の同輩のあいだの連帯、密集歩兵隊の一体性を強化するものであった。

* スパルタ兵士の育成、きびしい選別
彼らはひたすら脇見もせずにそれを追及した。スパルタにうまれてもそれだけで充分でない。すべての男子はながい期間をかけてきびしい競争にたえて市民としての権利を勝ちとる。それは非常にくるしい訓練の連続だった。最初の関門はうまれてすぐである。ここの渓谷はスパルタから数マイルのところにある。デポゼータイ(処理場)とよばれてる。そこはまた拒絶の場所ともよばれた。生まれたばかりの赤子が投げすてられるところだったからである。スパルタの基準からみて適合してない、身体的能力が完全でないと判断された赤子である。幼児殺しは古代ギリシャにおいてどこでもおこなわれていた。必要とされない女児は山間に置きざりにされた。たびたびおきる普通のことである。時には籠または壺にいれられる。そうするともしかすると誰かがひろってくれる。またはなにかがおきて生きのびるかもしれない。スパルタにおいては事情がちがう。男子のほうが選別される。女子より男子が犠牲となる。判断するのは両親ではなく都市の長老である。神話にでてくるような子どもをそだてようとする女狐や羊飼いは絶対にいなかった。長老の判断は最終的で絶対だった。

最初の試練を生きのびた男子は七歳の時に家族からはなれる。アゴギといわれる一連の訓練にはいる。これはそだてるという意味だが動物よりすこしよい条件であつかうということである。スパルタ人の少年にとってはこれは教室である。ここ、ジーザス山脈のふもとで彼らはスパルタの言葉でブウアイ、蓄牛の一団に編成される。年長の子どもが世話する。彼は規律をまもらせ罰をあたえる。集まりの責任者である。そこで重視されるのは生きのびること。最低限の衣服があたえられる。秋の好天ではよいが冬の零下六度になる状況では不十分である。供給される食糧はわずかである。彼らは他人の配給品をかすめとることを奨励される。もしそれがみつかると彼らは棒でうたれるが理由はぬすみでなく発見されたからである。それは訓練というより悲惨な運命にたえることである。訓練によりきたえることでない。

この山を背景に本当かとうたがわれるスパルタの秘儀がある。クリプテアである。これは秘密の使命をおびた旅団という。極端な例がわかってる。ナイフが各自にあたえられ日中に散開、身をひそめる。夜に彼らは谷に侵入する。獲物をさがし見つけたヘロットをころす。この真相はあきらかでない。だがこのような血にうえた集団がいると噂となり地域にひろまる。これは恐怖による支配をつづけるのに好都合である。奴隷たちをしずめ従順にするのに完璧な戦術であるともいえる。スパルタは集団主義を重視したが個人の業績をよりたかく評価した。子どもたちは他の子どもと比較され評価され、また自分自身の限界との比較で恒常的に評価された。

* スパルタ、恐怖のアルテミス
ここは恐怖のアルテミス(artemis)の聖域があった場所である。ここでスパルタがもつ競争重視の考えが極端なかたちであらわれる。最初の五年のアゴギをこなした子どもたちは十二歳となる。彼らがここにくる。残酷な通過儀礼がおこなわれる。 そこ に祭壇をきづき、チーズがつまれる。そしてそこからチーズをぬすむ。どれだけおおくのチーズをぬすむかがためされる。その前に年長の男子がならんでる。彼らはそれぞれ鞭をもってる。彼らの使命は無慈悲にためらいなく祭壇をまもることである。彼らは忍耐とねばりづよさを徹底的に教えこまれてた。おおくの目があるなかで絶望にかられた十二歳の子どもたちが籠手、それは決闘におうじる印となるが彼らが年長にいどむ。何度も何度もいどむ。ひどいいたみにたえる。ひどい傷をおう。あるものはこれによりしぬものもいたという。このような残酷な訓練につよい嫌悪感をもつかもしれない。だがここアルテミスにかざられている素焼きの陶器の仮面は、このような暴力とはあまりにも縁どおいものとみえる。

こんなことにおどろくのは現代人だけでない。アリストートルもスパルタ人は彼らの子どもを動物におとしめたと批判してる。あるいは別のギリシャ人は蜂の巣のまわりにむらがる蜂とみなした。個性をまったくうしなったものとみてる。これが何世紀ものあいだにスパルタとはそういうものだといわれてきたものである。だが、集団行動のなかでその部分となることは限界からの解放である。もしフットボール場のなかのメキシコの波の集団行動のなかにいたり聖歌隊のなかで合唱したり抗議運動で行進したりすると群集のなかの部分となる。これは自己を極小にするよりむしろ自己を極大にさせ自己の限界を拡張させ自己の自覚を強大にする。このことに気づく。これらがスパルタ訓練の基本的魅力である。自己の限界を超越し自分よりおおきなもの、すぐれたものに属するという感覚になる。これが重要な点である。

* 集団行動を重視した訓練
十二歳になればきびしい訓練が可能になる。読み書き、現代に我々がいうところのものだが、それがおしえられる。これは必要なだけである。そして音楽と踊りは必須とかんがえられてた。重装兵士がぶつかる戦場は戦いの舞踏場といわれることがある。みごとな共同歩調をもってうごくことのできる密集歩兵隊はすばらしい舞踏の相手をつとめることができる。それでスパルタ人はおおくの時間をつかい戦争の音楽といわれる律動のある演習を完全なものにするのにつとめる。方向転換したり歩速を変化させたりを音楽的につたえる。スパルタ人はもっとも音楽をこのみ、かつ戦争をこのむ人々として有名となった。

* 最後の選別、共餐仲間への入会
二十歳のおわり頃に訓練もおわりに近づく。スパルタ人男子はもっとも重要な試験をうける。共餐仲間の一員にえらばれるかどうかである。えらばれたら彼らはほとんどの時間をそこですごす。もちろん、戦いと訓練がない時間である。この男性だけしかはいれない仲間にはいれるかどうかは保障されてない。この入会は現在の構成員の投票によりきめる。これに失敗することははずかしいことでありうまれた地域社会から排除されることである。もし受けいれらたらおおきな土地を国家からもらい、それをたがやす一定数のヘロットもつけられる。それで自分と自分の家族の生活をささえる。これで彼はホミオエの一人、えらばれた戦士となる。彼はスパルタの最上層にぞくすることになる。

共餐仲間のクラブはスパルタの中心から一マイルほどのところにあった。これは都市の政治をうごかす必須の仕組みであった。不協和音やあらそいを寄せつけないようにすることを意図してる。年長者と若者がまざりあい世代間の対立をやわらげる。この争いは他のギリシャでは恒常的にみられた。さらにもっと重要なのは富者と貧者が同一の条件で出あうことである。現実にある差があらわになることをきらう。それはほとんど強制である。この行動原理のうしろにスパルタの平等主義がひそんでいる。たとえもっていても見せびらかさない。それは家屋はもちろん、衣服、食事すら、これにあてはめる。ギリシャの他の場所では富裕なものは二人の売笑婦をしたがえ、仲間をよびワインをあけ雲雀の舌と蜂蜜づけの炙ったツナの食事を振るまう。スパルタでは贅沢な食事の時間はなく、共餐のクラブでは毎日きまった料理がでる。それは豚の血液を沸騰させ酢を調合してつくるスープである。これはメラスゾマスという。悪名たかいくろいスープである。こういう逸話がある。イタリアのシバラス、そこは贅沢で大食で悪名たかいところだがその住民がくろいスープの作りかたをきかされた。なるほどそれでスパルタ人がすぐしにたがるのか、といった。

スパルタの吝嗇ぶりはその同時代の人々をおどろかせ、また現代人もそうだろう。彼らの食事をさておいても、このくろいスープは栄養価がたかく健康的である。食事をとってるスパルタ人の彫像がある。満足そうな表情をうかべてる。この食事は充分に美味だったとおもう。栄養があり生活にあくせくすることなく隣人と協調している。これはスパルタの社会がもとめるきびしい条件にかかわらず、よき生活とは何かをしってる人である。それはまたまったくあたらしい種類の人間、つまり市民という身分の人間である。スパルタの社会は非常にはやい段階から社会契約を導入した社会である。そこでは個人の義務がある種の特権と権利によってバランスされていた。それはふかい意味をもった概念である。他のギリシャの都市よりも数百年もはやく取りいれたものである。

* ギリシャの危機でしめされたスパルタ精神
しかし理想郷は保護が必要である。紀元前四八〇年おそろしい知らせがスパルタにとどいた。ペルシャ帝国がうごきだした。巨大な軍が陸路と海路から西にむかってる。そこでスパルタがギリシャを崩壊からすくうこと、その有名をはせた兵士がその期待にこたえる実力があるのか。それをみせる時がきた。

考古学の目がスパルタにはいったのは近年のことである。一九〇六年、英国の一団が組織的に発掘作業にはいった。一九二五年、原寸大の上半身像が出土した。それがすこしづつ引きだされた時、すばらしい戦士像であることがわかった。ギリシャ人発掘作業員の一人が躊躇なくいった。レオナイデスだ。スパルタの傑出した王。彼は三百人の兵士とともに巨大なペルシアの軍に立ちむかい玉砕した。ギリシャ中部のテルモピレでの悲劇である。これが彼か、たしかな証拠はない。時代があうので可能性はある。私はこの作業員がこうかんがえたことはゆるせる。誰もがしってる伝説上の英雄に顔がないのはいやだろう。

近頃、この戦士はスパルタの博物館にかざられた。それをレオナイデスとよぶが、一応注釈がついてる。彼の彫像は印象的な作品であることは間違いがない。あの謎めいた笑いをうかべた表情はこの当時の典型的なものである。今は彼の目は眼窩だけがのこり空白だが、かっては水晶と貝殻がはめられてかがやいてたろう。その胸回りは将軍にふさわしく力づよい。髮の毛はととのえられ上唇のうえには髭がない。きれいにそられてる。それはライカーガスの改革にある身嗜みにそう。スパルタの男子は髭をたくわえてはいけないというものである。もしあなたがスパルタ人の典型をみたいのならこれがまさしくそれである我々はレオナイデスのことをほとんどしらない。彼はアガダイの家系の一人である。歴代王をだす家系の一つである。在位十年をへた。その時ペルシアが西に侵攻してきた。

* ペルシア帝国が侵攻
ペルシアはエジプトからインドの西端にひろがる超大国だった。東地中海の領域においても超大国だった。ギリシャはとるにたりない存在だったが、だんだんと彼らの西端をさわがす存在となった。ギリシャ人はその領土、小アジアにおいて何度か反乱をおこしてる。最初の軍をおくったのはダリウス王である。彼は懲罰のため軍を陸路、マラソンにおくったが、アテネとその同盟に敗北をきっした。その恥をはらす軍をおくろうとしたが、はたせずしんだ。その仕事は彼の息子、ゼクセスが引きついた。

ペルシャは陸路と海路で紀元前四八〇年のはやくに出発した。陸軍は非常にはやかった。歴史家のヘロドタスがいう。ペルシア軍は川の水を飲みほした。ペルシアは百五十万人にたっしたというが、より厳密な推測では三十万人をこえないという。ギリシャの都市を粉砕するのは充分である。スパルタはペルシアの侵攻時にデルファイに神託をうかがった。神託は神がはっした言葉であるとかんがえられてた。それは神がのりうつった女神官の唇をとおしてはっせられるとかんがえられてた。スパルタは純粋に神をしんじてた。彼らはそれをまるで軍隊の命令のようにあつかった。神託をまじめに読みとく必要がある。スパルタは謎にみちたまわりくどい文章から二つの選択肢を読みといた。降服せよ、さもなくばたたかえ。スパルタ人はスパルタ人である。後者をえらんだ。その侵略への抵抗の先頭にたった。

* テルモピレのたたかい
ペルシアの軍はおおきく南にふれてギリシャの心臓部にむかった。指揮をとるレオナイデスはこれを阻止するべく北にむかった。そこはテルモピレ、ギリシャ語で火の門である。紀元前四八〇年、ここは自然がつくった地形、瓶の首のようにせばまってる。現在は海岸線が数マイル沖にさがってるが南にぬける道は海岸線と山によってせばめられてた。七千から八千の重装兵士がギリシャ全土からやってきた。彼らがまずやったのは、もっもせまい場所に壁をつくること。彼らはここのうしろにしゃがんでペルシアをまつ。ここで進軍を阻止しようとした。

ギリシャの兵力は圧倒的におとってた。しかし彼らは地理をよくしる。ペルシアの進軍をおそくできたなら、もっと強力な陸と海の守りをつくれる。レオナイデスと彼に引きいられた三百の兵にとってはテルモピレは彼らにとりスパルタ人がなんたるかをしめす場所でもあった。ギリシャでは祖国のために貴族である彼らが死におもむく。その姿にさまざまな声があった。何をいわれようとも彼らがそこでもとめたのはカロス・タナトス、うつくしい死という意味の言葉、これの実践だった。

詩人ターティエスがいう。敵にしずかに前進してゆけ。けっして戦場から逃げださず死をまるで恋人のように抱きしめよ。戦いでは神に捧げ物をする。エロスは愛の神である。うつくしい死は真の意味で犠牲の捧げ物である。有限の命をもつものを神聖なものにかえることである。ここでレオナイデスは年長者と若者が心を一つにするようつとめた。彼は誰も祖国にもどることはないとかんがえてた。テルモピレでたたかつたスパルタ人は強力な神風特攻隊であった。

三日間、ギリシャはペルシアをまってた。壁のむこうに身をかくし、くればそこから反撃にでようとしてた。重装兵士の部隊は三度ペルシアの攻撃をうけ、三度反撃に成功した。ゼクセスはほとんど攻撃をあきらめかけた。そこで彼は秘密の抜け道があるといわれた。それは山をぬけギリシャの壁の後にまわることができるものである。レオナイデスはペルシアのこの動きをしった。勝敗の帰趨をさとった。まもなくギリシャは包囲される。まだ逃げだす時間があった。彼は同盟軍の戦場離脱をみとめた。そして歴史にのこる最後の戦いの舞台をととのえた。最後の日の朝、スパルタ人は戦場にむかう前の儀式を取りおこなった。はだかになった。準備運動をした。油を体にぬった。ながい髮を櫛でたがいにととのえあった。木の小枝に名前を書きこんだ。それを腕につけた。それで死体が特定できるようにするためである。ペルシアのスパイはこの奇妙な行動をみてゼクセスに報告すると彼はわらった。彼らはまるでパーティの準備をしてるようだとわらった。だが彼らは自分たちをより偉大にもっと高貴にもっとおそろしくしてた。

* スパルタ軍の玉砕
ヘロドタスがしるしてる。朝、ゼクセスはのぼる朝日にむかい神に神酒をささげた。そして前進をめいじた。レオナイデスの配下にある兵たちはこの戦いが最後の戦いになることをしってた。道のもっともひろいところにむかってすすんでいった。彼らは誰も助けにきてくれないなかで何者もおそれずたたかった。まだ剣をもっていたら剣で。なかったら手で。あるいは歯でたたかった。ペルシアは前からと後からも近づいてきた。

軍事の専門家からいえばテルモピレはたいした意味がない。これでペルシアの進軍は一週間たらずおくれた。そしてすぐまた南下をはじめた。この後にほどなくもう一つの戦いがはじまる。それはここにちかいサラミスである。そこではアテネに引きいられた艦隊がペルシアの艦船を撃破した。テルモピレは価値のない人にしられたくない虐殺であった。しかしサラミスはテルモピレがはじめたことをおわらせた。ペルシアはついにギリシャから追いだされた。この勝利の後である。

* テルモピレ、スパルタ精神の発揮
このテルモピレの悲劇における英雄たちの物語りがギリシャ人の心をつかんではなさなかった。テルモピレはスパルタ人がどのような人々であるかを世界にしめすかっこうの舞台となった。そこをつうじ彼らがその都市の理想を実現し彼らがもとめた理想郷がただしいことだとしめした。さらにヘロドタスがいう。テルモピレがスパルタ人に他の都市がけっしてえることのできないたかい栄誉を作りだした。

(おわり)

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* はじめに
十日公示、二十二日投票の衆院選挙がはじまった。ユーチューブで 高嶋ひでたけ氏と鈴木哲夫氏がこれをかたってる。前原誠司前民進党代表は乾坤一擲の手として衆議院民進党を解党し希望者全員を希望の党に移籍させるという考えをまとめ、大荒れが予想された臨時党大会をのりきった。これでなんとかなると小池さんのところにゆくと、予想外にきびしい条件がつけられ選別、排除がおきた。高嶋さんが前原さんがだまされたとおもってるのかときくと鈴木さんはそうでない。さらに枝野さんと前原さんはながいつきあいの仲間で、枝野さんは前原さんを信頼してた。やってくれるとおもってた。ところで小池さんも前原さんをだますなどの気持はないと側近からきいたという。当時、小池新党はあのまま選別がなければ百五十議席もいく。小池さんが総理となる目がでてきた。これで小池さんは気分が高揚しついあのようなきびしい言葉がでたという。鈴木さんによればどちらの側にもだますという気持はなく、成行きからの齟齬という。

現実は小池氏側の選別により希望の党には五十二名、野田氏などは無所属、さらに枝野新党の立ちあげとなった。高嶋さんは鈴木さんを選挙のプロとして評価してる。つねにデータにもとづき的確な分析をする。とこの見解を受けいれてる。さて感想である。

* 感想
私はこれは国民が馬鹿にされたこととおもう。安保法制反対は党の公式見解である。希望の党にはいるために誓約書をかいた。まさに変節である。もしこの五十二名が当選したとして北朝鮮の 激変にあったら具体的に安保法の適用がおきる。だが彼らは四の五のいって決断をおくらせる。なら彼らの姿勢をしんじて投票した国民を裏ぎってる。おおくの識者が臨時大会は大荒れ、きめられず徹夜となると予想した。ただ議員の職をのぞみ同床異夢の一同が希望の党にいこうとしただけ。さて小池さんは安倍政権の打倒をさけぶ。

友だちが得する政権という。だがいまだに不正の事実がでてこない。私は支持率が三十パーセントをわった時におどろいた。安倍さんは国民に殊勝にあやまった。私は安倍さんが自分と自分の夫人に関与があったらやめるといった。率直にいうが軽率である。ここをあやまるのは理解できる。だが加計学園の真実をみず既成マスコミの報道におどらされて国民の支持率がおちた。それは馬鹿な国民の責任であり安倍さんがあやまる必要はない。既成マスコミは加計学園で重要な当事者である加戸守行元愛媛県知事や特区の委員会の八田委員などの発言を無視した。安倍首相は今回の記者会見でこれを指摘、それを否定する朝日記者とのあいだで口論となった。だが当時、読者が判断するたすけになるほどの記事はなかったことを私はしってる。既存マスコミはネットの攻勢におびえてる。だから売らんかなの姿勢で売れる記事をかく。こんな事情もしらずやすやすと既成マスコミにおどらされる国民はまさに馬鹿である。いまやネットやユーチューブには既成マスコミがのせない真実があふれてる。

ことわっておくが既成マスコミは馬鹿でない。近頃のテレビである。長嶋一茂氏がコメンテーターをしてた。彼の正論にMCがやや持てあましてた。またカンニング竹山さんも正論をはく。これはマスコミの保険である。こうして国民の顔色をうかがってる。さて結論である

* 結論
小池さんはついに知事にとどまることとした。たしか二百九十万を得票した。希望の党を立ちあげ一躍時の人となった。いつもマスコミをあやつりアドバルーンをあげ風をよむ。大風呂敷をひろげたらすこし端に逃げ場所を用意してる。彼女は豊洲の移転で安全だが安心でないといった。私はソレ、キターとおもった。東京都には豊洲、築地のほかにも市場がある。そんなこといったら、ここでも安心の問題がおきる。彼女は見こみちがいからこんな言葉をはっしたとおもう。東京都は金持ち、おそらく豊洲だけなら数十億ですむだろう。ほかの市場にも同様な問題がおきると上念司氏がいってた。彼女はこれを持ちだす誠実さはないだろう。ところで私は彼女の実力を相当たかく評価するものである。単独で都知事選に打ってでた。安倍さんの解散発表にぶつけてすぐ新党宣言をした。どうしても準備不足がでる。大ボラ吹きときらうむきがある。このようなやりかたは日本ではきらわれる。私は男社会でがんばってる彼女に拍手をおくりたくなる。ただしそれは政治家としての実力、実績があってこそである。彼女の知事としての実力はまだわからない。ねがわくば都知事の任期をまっとうしその実力をみせてほしい。国政にてんじるのはその後にしてもらいたい。

(おわり)

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スパルタ、国の成り立ち [英語学習]


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* はじめに
スパルタは軍事最優先の国だった。ギリシャ人先住民を征服し支配を手にした。それを維持することが彼らの究極の目標となった。少数による多数の支配である。そのために社会の仕組みがうまれ維持された。宗教を主宰し軍を指揮する二人の王、五人のエフォースによる立法、監視の仕組み、二十八人の長老による拒否権をもった監視の仕組みが軍事大国スパルタをささえた。これらについてのべる。
(The Constitution of the Spartans、Historia Civilis、2017/09/11 に公開)

* 軍事大国の秘密
私はこんなことをおもった。スパルタは都市国家でもっとも人口がすくない。にもかかわらず、ギリシャでもっとも強力でもっとも尊敬されている都市である。私はスパルタの制度をかんがえた時、なるほどとおもった。それで「スパルタの成り立ち」という標題の本資料をつくった。さてゼネフォンという人がいる。紀元前四世紀の人物である。彼はアテネにうまれだがスパルタで数年間くらすことがゆるされた。彼はスパルタ人の生き方の説明をのこした。それは同様のもののうち最良のものである。彼がいなければこのスパルタという奇妙な生きかたをする人々を我々はほとんどしることができなかったろう。

ではどんな生き方か。古代スパルタ人は基本的に軍事最優先の社会を作りあげた。しんじられないほど厳格な規律とたかい能力。それを男子すべてにこの能力を発揮させる。これで人口寡少の都市をギリシャを支配できる有力国にすることができた。当時のギリシャ人はおなじ言葉をしゃべりおなじ神々を信仰してた。だが他のギリシャ人はスパルタ人をまるで異星の住民のようにみてた。ではスパルタの制度はどんなものか。また何故ゼネフォンがそれらをスパルタの強さの秘密とみてたか。

* 先住のギリシャ人を征服したスパルタ
スパルタは二頭政治の都市であった。二人の王がいた。彼らは二つの王家からでた。両者の力は同等であった。スパルタの誕生神話によればヘレクレスが海をわたってやってきた。彼は追随する人々といっしょだった。そこが後にスパルタとなった。そこに前からいた人々を奴隷とした。ヘレクレスはこれを双子の二人の子孫にあたえた。ユーリスティンズ(eurysthenes)とプロクレス(procles)である。この二人はアジアッド(agiad)とユロポンティド(eurypontid)という王朝をつくった。この二つがいっしょとなり、その後の七百年以上のあいだ都市をおさめた。スパルタ人は自分たちを異国からきた征服者であると説明する。これが他のギリシャ人とのちがいでありその中核である。そのため彼らは非スパルタ人を潜在的に敵とみなした。

彼らが支配した奴隷もまたそのような敵であった。先住民であったギリシャ人だがヘロットとよばれた。彼らはスパルタ人より多数いた。三対一。あるいは七対一。実はよくわからない。どにかく多数である。このためにスパルタは奴隷たちがいつか自分たちに反乱をおこす。その不安のなかでくらしてた。スパルタ人はそれはきっとおきるとおもってた。もしスパルタがたおれる。ならばそれはヘロットの反乱だろうとおもってた。それほど多数の ヘロットの潜在的恐怖はおおきかったがスパルタが存続できたのか。

* 少数支配をささえる強大な富
それはこの強大な軍事優先の社会が巨大な富をもたらしたからである。男子が成人にたっするとスパルタの国家は彼らに国家所有の農地をあたえる。その時、同時にそこではたらくヘロットの人々がつけられた。その農地からあがってくる富はスパルタ人すべてが土地持ち貴族となるのに充分なものだった。言いかえると彼らは生活のためにはたらく必要がない。それほど豊かだった。このように国が無償であたえる農地があるが、そのうえに私有財産があった。ここにスパルタ独特の相続の法がある。それは他のギリシャ人があきれるほど独特だった。スパルタの男子がしんだ時である。

* 相続により富が少数の女性に集中
国があたえた農地は国にもどされる。だが彼に私有の財産がある。するとそれは彼の妻にわたる。彼の息子ではない。これはささいな違いのようにみえるが、わかくして夫がなくなる。これはスパルタのような軍事優先の国では充分にありふれた出来事である。おおくのわかくして夫をなくした寡婦は夫の財産を相続する。それから自分たちがもってた小規模な財産を生涯をかけおおきなものにする。このような富裕な婦人がしんだ。するとその土地はその息子と娘たちに平等に配分される。これが極めて独特なところである。さて遺産相続で富裕となったわかい女がおなじようにわかい富裕な男と結婚する。するとこのわかい男がわかくして戦いでなくなる。よくあることである。すると彼のすべての財産はその妻にゆく。すると富裕な 者かさらに富裕となる。そして彼女はその生涯をかけて財産をふやす。そしてそれを彼女の息子と娘に引きつがせる。これは言いかえれば富裕な婦人はさらに富裕な婦人を生みだすということである。この富裕な婦人がまた富裕な男子と結婚する。おおくの夫はわかくしてしぬ。これはまた富裕化を促進する。

* 少数の女性の富が政治権力に
この極大となった富裕な婦人は時にはスパルタの相続の女主人といわれる。アリストートルはその当時で、ほぼ四十パーセントのスパルタの国土が少数の極大の富裕な婦人の所有、管理にあったという。その富が他のスパルタ人を矮小化させる。その程度はともかく二人の王にも影響がおよんでた。彼女たちは重要な政治的勢力であった。こんなことがある。スパルタの有力者、王ですらスパルタの女相続人たちからの借金にたよってた。その影響力はおおきかった。スパルタでは定期的に政治家から土地制度の改革のはなしがでた。するとそのたびにスパルタの女相続人たちは金を各所にばらまいてこの動きを阻止した。他のギリシャ人はほんのすこし の女性がそんななにつよい政治的影響力をスパルタでもってることに恐怖した。アリストートルは富裕なスパルタの女性が彼女のより富裕でない夫を支配し、スパルタの女性がわがままで贅沢であり害悪をふりまいてるとながながと文句をいってる。だがこれが彼女たちの惟一の楽しみであったということとおもう。このようにスパルタ人はおどろくほど富裕だったが数百年後においてすら彼らは自分たちは異国からの征服者であるという引け目をかんじてた。

* あつい信仰心、宗教の主宰者としての王
彼らの心のなかでは、いつも一歩間違えるとその文明がこわれる。そういうおもいがあった。このため彼らは極端なほど神のお告げや占いを重要視した。一連の神のお告げ、それは時にはたがいに矛盾する内容もあった。その管理を専門にする人がいた。王にはこのような二人の専門の補助者がいた。彼らがこれらのお告げを整理し処理してた。もし王の一人が領土内の神託の一つ、たとえばデルファイにお伺いをたてるとする。その補助者の一人をおくりお伺いをたてさせる。王たちはスパルタの神官のなかの長であった。王がいることでスパルタが永遠につづく。その宗教的正当性をしめしていた。これがスパルタの宗教の中核となる目的だった。

* 軍事力を行使する王
実際の話しである。スパルタが存続できたのはその強大な軍事力のおかげであった。厳密な意味では二人の王だけがスパルタ軍を引きいることができた。王が軍事作戦に従事してるあいだは、彼は基本的には絶対君主に変身した。彼の言葉は法であった。スパルタのすべての市民にたいし生殺与奪の権をもった。それがもし戦争の遂行に必要とみとめられれば財産を没収することもできた。王は戦いで戦利品に 取り分をもった。これで王がとても富裕であることを意味しない。

すでにのべたように王は定期的に、時には強制的に神託という行事をおこなう。この時、王は王にふさわしい量の捧げ物を寺院におこなう。これをやめたり寺院をかえたりするのは容易でない。かえるのはその寺院にまつられた神にたいする冒涜である。極めて信仰心のあついスパルタ人にできないことだった。見のがされがちだが王にはもう一つ費用がかかることがある。軍事作戦の時に王は自分私有の家畜をもってゆかねばならなかった。重要な決断をする時はいつも動物の犠牲をささげる。このために必要だった。犠牲の儀式がありお告げがある。それが彼らにとりよくないなら、さらに犠牲の儀式をおこなう。お告げがかわるまでつづく。おおくの動物の犠牲が軍事作戦には必要である。その費用もおおきい。動物の犠牲があまりにおおくなった。そのため王が破産しないようこんな法がつくれられた。一匹の母豚からうまれた子豚の一匹を王のものとする。王は携行する家畜にくわえるとの法がとおったほどである。しんじられないほどの子豚の数となったろう。法をとおしたといったがこのことに王は関係してない。王の仕事は宗教と軍事だけである。行政は他の人々にまかせられてる。

* 立法や監視をおこなうエフォース
法律を実際に作成する人々はエフォースとよばれた。その意味は監視する人という。何故スパルタではそうよばれたのか。すぐわかる。スパルタには五人のエフォースがいる。年齢が四十五歳以上、一年が任期である。一度任期をつとめると再任はみとめられない。この選任の手続の実態は複雑であるがその詳細はよくわからない。だがいえることはスパルタは一般から候補者を複数、その数はわからないが、えらぶ。そこから五人を選びだす。これは無作為の抽出である。ところで無作為抽出の対象がどの程度のおおきさかわからない。十なのか百なのか、まったくわからない。アリストートルがいう。この仕事は比較的まずしいスパルタ人にゆく。それが事実ならば抽出対象はおおきいだろう。

スパルタの新年のはじめ、その時にエフォースは職につく。そしてただちに儀式にのぞむ。それはヘロットへの戦いの象徴である。この儀式のすべてがスパルタ人は先住民でない。自分たちは先住民である奴隷たちとずっと戦争状態にある。これらをわすれないようにするものである。実際にスパルタ人が奴隷、ヘロットにやってることは残虐である。それを正当なものとしておこなってる。ヘロットにはまったくそんなことをされる理由がない。ひどいものとおもう。

* エフォース、王を監視
それでエフォースは仕事の最初の日にヘロットを政治の対象からはずす。で、残りの一年に何をするか。何を監視するのか。王を監視する。毎月、二人の王と五人のエフォースがあつまる。次の誓いを交換する。王からエフォースに自分はさだめられた法、スパルタの法にもとづき統治する。エフォースがこれにこたえる。その誓いをまもるあいだ我々は王の支配をゆるがすことなく受けいれる。これはどんな意味があるのか。エフォースはしんじられないほど強大な権力をもって監視する。もし王のやることに満足できないなら彼らは投票にかける。もし三対二の過半数できまれば公式に王を罪にとうこともできる。もしこれがおきれば、王は裁判にかけられる。エフォースは証拠をあつめ提出する責任がある。そうしたらグルウジアとよばれる組織とともに陪審員をつとめる。これについては後でのべる。もし有罪となれば、さまざまなことがおきる。一つは彼に罰金がかされる。また王位を剥奪されスパルタからの追放もある。追放の場合であるが王位はたんに次の王位継承権をもつ者にうつる。スパルタ人によればヘレクレスはスパルタの王たちにスパルタを支配する権利をあたえたということを思いだしてほしい。このように王を追放するが王位継承の順番をかえたり制度をかえたりしない。しかし王の追放はめったにおきない。たとえ王がある年のエフォースたちと仲違いしたとしても彼らの任期は一年間である。王たちは彼らの職がいつおわるかを充分に承知し低姿勢をつづける。

しかし戦争は事情がかわる。王は軍を引きいて外にでる。その時、二人のエフォースが随行する。王が作戦に従事してる時はこの二人は王に干渉できない。王を罪にとうことも戦争をおこなうこと、その方法に干渉することはできない。だが記録をつけることはできる。そしてそれを報告することができる。彼らがみたことを本国にのこってるエフォースに報告することができる。戦争がおわるとただちに、彼らは王が枠は踏みはずしたかどうかを判断する。では普通の、戦争でない状態である。

* エフォース、立法、政策づくり
エフォースは時間のおおくを政策立案にあてる。成案の決定は投票である。五人のエフォースが投票する。単純多数の三で採択がきまる。彼らの思いがまちまちであっても投票する。そのため彼らのあいだに波風がたつことはない。というのはエフォースが承認したことが法が成立したということを意味しないからである。どのように法が 成立するかは後にのべる。税と支出について彼らはおおくの時間をさく。また道徳についてふるくなった基本的なきまりやスパルタの生活習慣についてのきまりについても時間がさかれる。エフォースのあいだで立法について合意ができると、それはスパルタのすべての男子により構成される議会に提出される。立法案が説明されるとスパルタ人は然り(やあ)または否(ねい)という言葉で賛否をあらわす。修正案がだされることはなく、また議論も展開されない。ただ言葉で賛否をあらわすだけである。ここまでのべてきたことを要約すると、スパルタの王はスパルタの宗教行事をおこなう主宰者であり軍の指揮者である。他方、五人のエフォースは監視の役をはたし立法を立案する。それを議会の承認により成立させる。

* エフォース、出入国管理
この他にエフォースがこまかな事項を規制する。彼らはスパルタへの入国あるいは出国を希望する人間について可否を決定する。これには商人、外交官、書き物をする好奇心にとむ人物、ゼネフォンのような人物がはいってる。彼がかいたことがこの 文書をつくるのに重要だった。ゼネフォンはスパルタに数年間すむことをゆるされた。彼は王の一人としたしい友人だった。だがゼネフォンのような人間にとってもいつまでスパルタにいられるかわからない。毎年、あたらしいエフォースがやってきて彼らにつきその滞在、出入国を審査する。エフォースは常にスパルタ人を外国におくるのは消極的だった。相当な理由があってもである。これはスパルタ人は外国にでるとその振る舞いが粗暴になることで有名であったからである。大量の飲酒、博打、売春婦をかうこと、喧嘩、これらがスパルタ人がやることの典型である。スパルタ人は地域においてきびしい行動基準のもとに生活してる。その時は善良である。しかしいったん国外にでると何がおきるかわからない。この他にエフォース は何をするか。

* エフォース、教育
彼らは子どもたちの教育に積極的である。子どもたちの集団がそこから卒業し大人になる時、彼らは三人の卒業生をえらぶ。エフォースは他の同輩とくらべすぐれスパルタ人の手本となる者かどうかを判断する。この三人はそれぞれ百人の同輩をえらぶ。そのさいエフォースもその調査、質問、選択に参加する。これがすべて終了したらこの三人は役職につく。その配下にはそれぞれの百人がしたがう。それとともに王の一人の警護官となる。エフォースの一年の任期がおわると監査をうける。次のエフォースが引きつぐまえに任期中におこなったすべてのことを説明する。もし誰かが権限を乱用したとみとめられたら次のエフォースが彼を必要とみとめる方法で罰をあたえることができる。

* エフォース、任期終了時に自己監査
エフォースの無作為抽出による選出や一年の任期は制度を不安定にしうる。しかしこの監視の仕組みがエフォースの極端な措置を抑制するのに役だつ。エフォースについて現在のこってる記録のほかにもっと重要なものがあったかもしれない。立法において業績とみなされるようなものはのこってない。奇妙におもえるが次のような理由があるのかもしれない。任期のおわりにあるこのきびしい監視の仕組みをおそれ行動を抑制したのかもしれない。あるいは業績があったのかもしれないが記録にのこってないのかも。ゼネフォンがたまたま王の友人だったからこれだけのこったのかもしれない。我々は半分しかしらないのかも。あるいはエフォースは外部の機関から制約をうけてたのかもしれない。それがグルウジアを説明すべき理由となる。

* グルウジア、拒否権をもつ長老の監視機関
グルウジアはエフォースを監査する権限をもつ。その詳細である。グルウジアは年長者の審議機関である。二十八人の構成員がいる。二人の王は名誉構成員となる。すなわち全体で三十人の構成員がいる。王をのぞく他の構成員は六十歳をこえる男子である。なんらかのすぐれた業績をあげた男子であることが期待されている。実際をみると彼らは富裕な層や、それと関係のふかい極めてちいさな集団からやってくるようだ。この職には選出されてつく。任期は終年である。もし構成員がしぬと職があく。それにたいしきびしい競争がうまれる。その実情はさだかでないが、ある学者によれば政治勢力が二つの王宮のまわりにあつまり自分たちの候補者がえらばれるようあらそう。この機関が何をするか。

それはスパルタの議会が承認した決定を棚上げすることができる。別言すると彼らは拒否権をもつ。エフォースは立法として法をつくる。スパルタ人の市民はそれを承認するがグルウジアが最後に拒否権を発動できる。さらにこんなことができる。グルウジアは立法の審議日程を作成できる。彼らはここにのせないという方法で審議を拒否できる。一年しか任期がないエフォースの立法案を阻止することは終身任期のグルウジアには極めて簡単である。これでわかるようにグルウジアはスパルタの政治にたいし保守傾向をもたらすつよい圧力となる。改革はグルウジアがその気にならなければおこなわれない。

議会が投票する時にグルウジアは奇妙なことができる。その構成員が別の建物にはいる。そこは投票してる場所からとおくない。エフォースは会議に出席し立法案を提出する。そして議会が投票する。そこで投票は言葉でおこなわれる。グルウジアはちかい場所にいる。そこから何がおきてるかをみることはできない。しかし投票の様子をきくことができる。投票の後にグルウジアがやってくる。賛否のどちらの側の声がおおきかったかを発表する。そしておおきなほうが投票が勝利する。こんなことをするのはグルウジアを公平にたもつためという。どうだろうか。彼らはもし立法案をのぞまないのなら、それを拒否できる。

* エフォース、グルウジア、王が陪審員となる裁判
すでにのべたが、王、市民が裁判にかけられる。それは殺人のような深刻な罪である。エフォースとグルウジアが合同して三十五人の陪審員団をつくる。王はグルウジアの名誉構成員であるから彼ら自身の裁判においても陪審員となる。奇妙でないか。さて単純多数で結果がでる。そして二十八の陪審員の席につきエフォース五人とえらばれたグルウジアが参加する。彼らはいつも力の均衡をたもつ役割をもつ。もし事案が裁判にかけらる。すると決定がなされる前に王は非公式にグルウジアに相談することをこのむ。年長者は自分が尊重されてるとかんじるからである。もしエフォースが王の後にグルウジアにゆくとしたら彼らがグルウジアの同意にそって行動をしてたことがわかってることが常によいことだった。

* スパルタの保守性をささえるグルウジア
スパルタは極端なほど慎重で保守的な都市国家である。それをもたらす制度的な仕組みの主要部がグルウジアである。スパルタが衰退した頃かかれた書物であるが、シセロ(cicero)、ローマの政治家がスパルタの仕組みを非常にほめてる。彼は王は自分が職責からかんたんにはずされることを充分に自覚してたことを評価した。エフォースが任期のおわりに後継者に自分たちの行為の正当性を説明しなければならないということを評価した。グルウジアが極めて強力であることを評価しこの年長者たちが競合する利益の均衡をとってることを評価した。またもし事態が限度をこえたならその立法案を阻止したことを評価した。彼はこれはすぐれた制度をつくるたしかな方法であるとかんがえた。シセロは保守派として安定をあいした。ゼネフォン も賛意をあらわしてる。スパルタの制度と安定性が彼らの力の源泉であるという。しかし最後のところでその安定がたぶんすぎたのだろう。

* 保守性がもたらしたスパルタの衰退
その力の頂点にある時にスパルタはすべての男の市民を動員しすくなくとも二万人の軍をつくった。たぶんもっとだったろう。百五十年の後、アレクサンダー大王の時代に、この数は千人に縮小した。その理由はわかってない。これがアレクサンダー大王の父、フィリップ王がスパルタを脅威とかんじないですんだ理由だろう。これから百五十年の後に、ローマがギリシャに干渉してきた時にスパルタはもはやなんの存在感もない村落であった。おもしろいことだが、なおも王をいただく生活、エフォース、グルウジアがある生活、なおもきびしい古代からの習慣をまもっていた。このような急激な衰退の原因はわかってない。しかしたぶん三百年をこえる時間のなかでもし改革が取りいれられてたら回復をもたらしたかもしれない。たぶんゼロだった外国からの移民が回復をたすけたかもしれない。もしかしたらヘロット、奴隷に市民権をあたえることかもしれない。あるいは彼らのきびしい結婚の法をゆるめることであったかもしれない。改革、あたらしい発想が問題を解決する。これが政府がなすべきことである。彼らがもっともそおそれてたこと、スパルタの征服者である自分たちがヘロットの反乱によりたおされることはなかった。あるいはいかったギリシャの同盟によりたおされることもなかった。

そのかわりに彼らは彼ら自身の事情により衰退した。自ら萎縮していった。それは別の侵略者たちの征服をゆるしただけだった。この征服者たちは彼らを古代の習慣に固執したもの、かがやかしい時代がすぎて取りのこされて今にいたってる人々とみなしただけだった。

(おわり)

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アレクサンダー大王、その八、ヒダスペスの戦い [英語学習]


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* はじめに
アレクサンダー大王の事蹟をその戦いをとおしておう。今回はペルセポリスで事実上のペルシア支配を完成、その後、ダリウス、新王を排除、その王位を完璧とする。さらにインドの国境まですすみ東征をおわりにするところまでをのべる。
(Alexander the Great: Battle of the Hydaspes 326 BC、BazBattles、2017/06/23 に公開)

* アレクサンダー東征の行きつくところ
紀元前三二六年五月、無敗のマセドニア軍がインド亜大陸のパンジャブ地域に侵入した。どしゃぶりの天候のなか、あくまでも勢力の拡大をもとめマセドニア、アジアとペルシアの王、アレクサンダーはヒダスペス川の西岸にたってた。彼は対岸におきるであろう戦いをどのようにすべきかをかんがえてた。インドのおそるべき王とその巨大な軍との戦い、アレクサンダーの最後の主要な戦いがまさにはじまろうとしてる。

* ペルセポリスの奪取、ペルシアの王と宣言
紀元前三三〇年の春である。ザグロス山脈における困難な戦いに勝利しマセドニア軍は最後の目的地、ペルセポリスにやってきた。アレクサンダーはペルシア王の財宝の大部分がメディアのエクバタナに運びさらたことをしった。これはペルセポリスのはるか北西にある。戦いにやぶれたダリウスがさらに兵をあつめようとしてたからである。アレクサンダーはこれまでにペルシアの主要都市をうばっていた。そしてこの首都においてペルシアの新年をいわう儀式をおこなうことにした。

* エクバタナのダリウスを追撃
彼は地域の貴族たちに自分の支配にしたがう誓いをもとめた。しかしその儀式に出席したのはあらたに州長官に任命された者のほかわずかな貴族たちだった。彼は自分がアジアの王であるといってる。だが本当に全ペルシアの王であるのか疑問がのこってたことをしめす。まだ形式的にペルシアの王であるダリウスを殺害するほかない。彼はエクバタナに出発する前にペルセポリスを焼討ちにした。百五十年前にペルシアがアテネを焼討ちにしたお返しであった。

ダリウスの追撃がはじまった。六月にエクバタナにマセドニア軍がやってきた。ダリウスはいない。マセドニア軍の動きをよくしってた彼は数日前にそこをはなれてた。そして財宝と随行者を引きつれて北東にさった。その先はペルシアでまだ征服されてないもっとも東部の地域であった。そこにはまだダリウスにしたがう人々がいた。しかしマセドニアの追撃をしってダリウスの随行者のなかからつぎつぎと脱落者がでてきた。最後にはバクトリアの州長官ベッソスを長とする臣下によりとらえられた。彼はダリウスをマセドニアに引きわたし彼らが支配してる州の征服をまぬがれようとした。

* 殺害されたダリウス、新王となったベッソスを追撃
アレクサンダーはベッソスの申し出を拒否した。彼はペルシアの王位を主張してるのでよい選択であったろう。ベッソスはダリウスをころした。アレクサンダーはダリウスをペルセポリスで丁重に埋葬した。その頃ベッソスはペルシアの新王となった。アーティゼクシという。彼はマセドニア人は結局、ヨーロッパにもどるとおもってた。従来の普通の侵入者の考えだった。アレクサンダーには通用しなかった。また遠征作戦がはじまった。一年ほどのあいだにアレクサンダーは中央アジアの広大な平原を横断し平定した。

* 本国帰還をねがう兵の気持、 勢力拡大をもとめるアレクサンダー
ちょうどこの頃である。最初の対立がマセドニアの軍のなかにうまれた。ペルセポリスの征服の後、ダリウスの死の後におおくの兵士たちはアレクサンダーが本国にもどることをのぞんだ。ペルシアとたたかうためにダーダネルス海峡をわたってから五年がたった。兵の気持がかわったがそれ以上に敬愛する王がかわった。彼はたびたび自分を神のようにあつかうことをもとめた。おおくのペルシアの慣習を引きついだ。彼の周囲におおくのペルシア人助言者をおいた。彼はだんだんと猜疑心がつよくなった。彼の命をねらった陰謀が発見された。彼は配下の指揮官の一人、フィロタスを充分な証拠なしに裁判にかけころした。これは重大な問題を引きおこした。彼はパーメニオンの長男であった。パーメニオンはアレクサンダーがもっとも信頼をおいた部下であり筆頭の副将である。息子の処刑は父親の死を意味する。アレクサンダーはいそぎ使者をおくった。そこにはきびしい命令がかかれてた。おいた副将はエクバタナでしんた。そこで彼は王室の財宝をまもり軍の強化を監督してた。パーメニオンは最後までアレクサンダーを裏切らなかった。

* ベッソスを東に追いつめ処刑
その頃、アレクサンダーの軍はヒンズーのクシュの地域を横断しようとしてた。ベッソスの支配をおわらすため最後の障害だった。冬の晩期である。ベッソスはまさかアレクサンダーが雪におおわれた山岳の道を進軍してくるとはおもわなかった。彼はまたアレクサンダーのつよい意志を見あやまった。アレクサンダーは敵の抵抗にあわず兵をほとんどそこなうことなく山岳地帯を横断した。ベッソスは驚愕した。すぐマセドニアはバクトリアをうばった。ベッソスはオクソス川にそい北に逃走した。だが何者も彼をとどめることができない。妨害にもかかわらず彼は沙漠を横断し川をわたりベッソスの部隊と直接に対決した。ベッソスの最後である。アレクサンダーの怒りをおそれた彼の部下が牢獄にいれアレクサンダーに引きわたした。彼は十字架の刑にしょせられた。これでアレクサンダーをペルシアの王でないという者がいなくなった。

* 東部を安定させインドにむくアレクサンダー
あたらしい征服地が安定するのにほぼ一年かかった。彼は東部の州にすむ部族を安心させるためバクトリアの王女、ロクサナと結婚をした。こうして東部の国境が安定すると彼はおおくの人々がすむ肥沃なインド亜大陸の土地に目をてんじた。たぶんあたらしい遠征作戦の動機はアレクサンダーのおさえがたい征服欲であろう。どんな利益があるのかうたがわしい。失敗におわる危険性が充分にある。いずれにしてもマセドニア軍は紀元前三二七年の晩期、パンジャブに進出した。そしてまもなくタクサイルの人々がすむ土地にやってきた。

* 服従しないポラス王とヒダスペスで対決
アレクサンダーのところにその土地の王たちがあいさつにきた。彼はすべての周辺国が自分に友好をちかうことを期待した。実際、おおくの王たちがこの異国の王に膝をくっした。しかしヒダスペス川の対岸の王が服従を拒否した。ポレイビアの王、ポラスは高貴で勇気ある指導者であった。彼には充分な力をもつ軍と、ひろい川がまもるおかしがたい国境があった。この拒否はアレクサンダーのみとめるところでない。すぐにマセドニアの軍がヒダスペス川の西岸にやってきた。ポラスは渡河を阻止するべくそこにいた。五月であった。そこでしばらくのあいだアレクサンダーを足止めすることは簡単であった。

* 嵐のなかで渡河作戦
ヒマラヤの雪解け水とこれからやってくるモンスーンの雨季が川を数カ月間、ほぼ渡河不可能にする。アレクサンダーもこれをしってた。できるだけはやくうごきだそうとした。川をつぶさにしらべて彼は確信した。敵が対岸にまつのに渡河をする。兵をそこなう暴挙である。別の方策を見つけねばならない。マセドニア軍は渡河をねらいうごいた。ポラスの軍は警戒をおこたらない。だがマセドニアの動きは実はポラスの警戒心を一方に引きつける罠であった。三十キロメートル上流に渡河にてきした浅瀬を見つけた。アレクサンダーはよりすぐりの部隊をあつめ嵐の夜に彼らを渡河させた。ポラスにその情報がはいってきた。

* アレクサンダー渡河、阻止に失敗
彼は二千の騎馬の分遣隊を派遣した。その指揮は彼の息子だった。彼はちょうどアレクサンダーが渡河してるところに出くわした。ただちに攻撃した。これはマセドニア軍により簡単に阻止された。マセドニアは前哨戦の後に、たちまちポラスの偵察隊におおきな損害をあたえた。わかい王子はここでしんた。渡河を阻止できなかったがポラスはすくなくとも敵がたしかに渡河したことを確認した。

* 渡河部隊がポラスの左翼を攻撃
ただちに軍をうごかしこれにそなえた。マセドニアの兵力はポラスよりまさってた。しかし大部分はまだ対岸にとどまってた。渡河したアレクサンダーの分遣隊はポラスの軍より過少だった。だがマセドニア軍は充分な訓練、きびしい規律と豊富な経験をもってた。ポラスは百以上もの戦闘用象をうごかした。マセドニア部隊には脅威であった。彼らにとり戦場でこれだけ多数の象に対決するのははじめてだった。戦いはシシア人騎馬兵の射手による攻撃からはじまった。

彼らの目的は象の妨害だった。つづいてアレクサンダーとそれにしたがう騎馬隊がポラスの左翼をおそった。彼は象にぶつからないよう注意した。マセドニアの騎馬はこのような巨大な敵とたたかう訓練をうけてなかった。彼らは巨大な象をおそれ騎馬兵のいうことをきかない。長槍をもつ密集歩兵隊がポラスの中央の戦闘線にやってきた。そして部隊との戦闘にはいった。長槍は戦場でたたかう前に、さらにながくしてあった。だが象との戦いは困難なものだった。象の部隊は一時的には各所で戦線を突破した。ポラスはその左翼があきらかに窮地にいるとみた。たすけの二輪戦車と騎馬隊を左翼におくった。

* ポラスの右翼を攻撃、対岸からの部隊も参加
アレクサンダーの攻撃に参加せず待機してた騎馬隊の指揮官、コアナスはこれをみてすばやく部隊をポラスの右翼におくりそれを包囲した。また左翼を背後から急襲した。中央の戦闘用象の御者の幾人かがころされた。恐慌におちた象が逃げだし自軍の歩兵を踏みつぶした。中央でマセドニアの優位があきらになってきた。また左翼においてもそうであった。複数の象の部隊がたじろいて戦場を逃げだした。
だが彼らはすぐに対岸からやってきたクレイタスが指揮する部隊に追撃された。彼らをころしクレイタスとその部隊はポラスの背後を襲撃した。ポラスは象のうえにのってたたかってた。だが敗北を覚悟した。降服を拒否したが最後に彼はとらえられた。残りの部隊は殺戮をまぬがれた。ポラス側の損失はおおきかった。戦いの概要は次のとおりである。マセドニアは兵力が四万五千、損失が千。ほとんどが中央。ポラスは三万五千、損失は一万二千だが、騎馬隊は全滅、相当数の歩兵がうしなわれた。

* 圧倒的な勝利
ポラスは七フィートの偉丈夫であったがアレクサンダーからどのようなあつかいをのぞむかときかれた。彼は王が王をあつかうようにあつかってもらいたいとこたえた。アレクサンダーはこの返答に感銘をうけた。ポラスをあたらしいパンジャブの州長官に任命した。もはやアレクサンダーに敵対しようとする者がいなくなった。ヒダスペスの戦いがその最後だった。だが彼の物語りはなおもつづく。

* 東征のおわり、まだつづくアレクサンダーの物語り
もしあなたがこの話しのつづきがネットに登場するのをまてないというならアレクサンダーとその帝国についてもっとまなぶことができる。ネットをみてリンク先にたどりつけばできる。次は補注のようなものである。

ソグディアナの征服をいわうマラカンダの州長官宮殿の祝典があった。その酒席で争いがおきた。アレクサンダーはクレイタスをころした。彼はアレクサンダーの友人でありグラニカスの戦いでアレクサンダーの命をすくった。彼は翌日それをくやみ後悔のあまり自殺をこころみた。

ポラスのわかい王子がアレクサンダーの渡河を阻止しようとした。それはもっとうまくいってたかもしれないが嵐の天候と泥ですべりやすくなった地面のため彼の二輪戦車がほとんど役にたたなかった。

バクトリアの沙漠を横断してる時である。マセドニア軍はひどい飲料水不足におちいった。アレクサンダーは兵士の苦難を支援するため軍がオクソス川に到着するまで水をのまなかった。

(おわり)

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アレクサンダー大王、その七、ペルシアンゲイトの戦い [英語学習]

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* はじめに
アレクサンダー大王の事蹟をその戦いをとおしておう。今回はペルシアの軍事力を崩壊させペルシアの王となろうとするアレクサンダーに最後の抵抗をこころみるペルシアとの戦いをのべる。
(Alexander the Great: Battle of the Persian Gate 330 BC、BazBattles、2017/04/30 に公開)

* 軍事的勝利からペルシアの王への道
マセドニアがペルシアにガウガメラにおいて勝利をしてから三ヶ月がすぎた。アレクサンダーは次にペルシャ帝国の象徴の中心部に進軍する。彼は軍を引きつれて山岳地帯をすすんでいった。それは彼とペルシャの中心部のあいだにある最後の障害であった。マセドニアは戦争がここまですすんでこれほどおおきな抵抗があるとは予想してなかった。だがダリウスに忠誠をしめす州長官の一人が彼の前進を阻止しようと攻撃してきた。ダリウスはアレクサンダーの侵略に対抗する兵をあつめてた。予想外の反撃がザグロス山脈のこおった山頂をとおりぬけようとした時におきようとしてる。

* おおくの州長官の服属
紀元前三三一年十月おそくである。ダリウスがガウガメラで壊滅的敗北をきっした知らせは帝国全土にすぐひろまった。ダリウスの威信がすっかりおちた。ペルシャの州長官はペルシャ帝国への忠誠をつづけるのか、あるいはアレクサンダーにしたがうのかをきめていった。無敵をしらしめたマセドニア軍がペルシアの富裕な都市、バビロンやスーサに到着しようとしてる時である。アレクサンダーがペルシアの既存の支配階級をどうあつかったかという噂は間違いなくメソポタミアの州長官たちにとどいていた。

権力と地位を継続させるため彼らは手のひらをかえしアレクサンダーに降服した。これらの都市をしたがえアレクサンダーは莫大な財宝を手にいれた。それを彼はきびしい戦いにしたがった軍に分けあたえた。きびしい戦いにたえ忠誠をつらぬいた報酬であった。また相当額の金がギリシャにおくられた。それはアレクサンダー遠征中の留守をあずかってたアンティパータをたすけるためだった。彼はヘレニック同盟の盟主をつとめスパルタの反乱を鎮圧してた。

* バビロンとスーサの降服、守備隊、東進へ
バビロンとスーサはマセドニアの支配を受けいれ略奪をまぬがれた。従来の行政はほとんど変化しなかった。あのガウガメラの戦いでペルシアの左翼を指揮しバビロンの知事であったマザイアスがその職を維持した。あたらしく服属した者の忠誠をたしかなものにするためアレクサンダーはギリシャ人の守備隊を配置した。そして東方に進軍していった。それはペルシアの中心地域である。マセドニアは三度の勝利をとおしてペルシア軍の軍事力を壊滅させた。しかし彼は東部の州長官の何人かがなおもダリウスに忠誠をちかってることをしってた。噂ではダリウスはなおも侵略者に対抗するため兵をあつめてるという。

アレクサンダーが前方にみてるけわしいザグロス山脈はペルシアの中心地域の入口をまもってるようである。彼は軍を二分しリスクを低減した。おおきく、ゆっくりとはこぶ物資の車列と野営の工兵たちは山脈を迂回し南にすすんだ。それはパーメニオンが 指揮した。アレクサンダーはより俊敏にうごき、より数がすくない部隊を引きつれた。彼はザグロスの山岳地帯でせまく警戒を必要とする道をぬけペルシアに直行する。

* アレクサンダーのザグロス山脈越え
部隊はユキシアの人々がすむ地域にはいった。彼らは山岳民族でありペルシアの支配に服従してない。彼らはその地域をぬけるペルシアの部隊に貢ぎ物を差しだすよう要求してた。アレクサンダー は従来の慣習をみとめず、あたらしい支配を打ちたてたいとおもってた。彼はユキシアの人々を策略にかけ彼らの村をかこんだ。幾人かの村人をころし毎年貢ぎ物をするようめいじた。この反抗した部族の話しはひろまった。これでマセドニアに反抗する人々はいなくなった。

それから数日、アレクサンダーの部隊は何事もなく東進していった。まったく何事もなかったのでアレクサンダーは事前に斥候をおくるのをやめた。二キロメートルの幅の平原にでたが休養をとらなかった。そしてペルシアンゲイトにそのままはいっていった。道がせまくなり山には人々がいるのに気づいた。だが彼らはたぶん避難民だろうとおもった。そしてマセドニアは前進をつづけた。道が南東にまかった。まだ早朝であったので太陽の光がその先をてらしてなかった。その道をすすんでマセドニアの先駆け部隊がするどくまがってる地点にやってきた。その前方に土と岩でできた壁が立ちふさがってた。

* アリオバルザネスの待ち伏せに敗走
アレクサンダーはたぶんここで自分がおおきな間違いをしたことに気づいた。だが手遅れであった。数千のペルシアの軍が山の上から攻撃してきた。彼らは立ち往生してたマセドニア軍に雨、霰と投石攻撃をした。それは、なおも忠誠をちかうペルシアの州長官、アリオバルザネスがおこなった不意打ちだった。彼はアレクサンダーの進軍を妨害しペルシアの中核地域の抵抗を準備するための時間をかせごうとしたのだった。マセドニア軍はいそぎ防御態勢をととのえたが、おおくの兵が滑落していった。彼らは敵を切りぬけて平原にもどるか谷にとどまって全滅するか選択しかないことがあきらかとなった。アレクサンダーは損害をすこしでもへらすため全軍に退却をめいじた。それはばらばらにさせられたマセドニアの軍が優勢にあるペルシア軍に圧倒されている。この状態よりよい選択であった。これはアレクサンダーがペルシアの将軍に出しぬかれたはじめての敗北だった。アリオバルダネスはもっともよい場所をええらび待ち伏せし作戦を見事に成功させた。マセドニアは平原にもどり野営し負傷兵の手当をした。このアレクサンダーの状況は危機だった。

* アレクサンダー、平原において軍を立てなおす
彼は敵地において冬の最中、山岳の高地に足止めされた。この先にはおおくの敵が待ちかまえている。この周辺で軍がとおりぬけられる惟一の道はペルシアンゲイトであった。マセドニアの指揮官たちは数日どのようにこの封鎖を突破するか議論した。その土地の羊飼いがアレクサンダーを案内して山岳をとおりペルシア軍の後方にみちびいたという話しがある。これは百五十年も昔だがテルモピレの戦いでエフィアルテスがペルシアに裏道をおしえギリシャ軍の後方に案内した話しと奇妙なほどおなじである。これが事実かどうかはともかく、マセドニアはペルシアの攻撃を警戒しながらすすむことになった。彼らはどんどんと兵糧がへってゆくなかで、いそぎ攻撃態勢をつくっていった。夜がきた。アレクサンダーは相当数の部隊を引きいてひそかに北東の抜け道にすすんでいった。クラテラスに指揮された残りの部隊は敵の注意を引きつけるためおおくの明かりをともしつづけた。

* 反撃、ペルシアの象徴の首都への道をひらく
クラテラスは夜があけるすこし前に残りの部隊を引きいて山にはいっていった。これは偽りの攻撃であった。アリオバルザネスはまた攻撃をする態勢をととのえ、まさに攻撃にうつろうとした時である。マセドニアのトランペットがペルシアの野営地の後方でなりひびいた。アレクサンダーの分遣隊が攻撃してきた。ペルシア軍には完全な不意打ちだった。またヒロタスに引きいられたもう一つの部隊が山の上にいるペルシア軍を攻撃した。はげしい戦いがはじまった。だが今度はペルシアが不利な状況であった。こうなると勇敢で戦いになれたマセドニアの敵ではなかった。マセドニアの兵士はその優秀さをしめしアリオバルザネスの軍を圧倒した。アリオバルザネスはこの包囲をやぶり退却しようとした。しかし部隊はかこまれ彼は降服をいさぎよしとしなかったので最後の一人になるまでたたかった。アレクサンダーは最初の敗北でおおくのすぐれた兵をうしなったが最後にはペルシアの阻止作戦を突破することができた。このアリオバルザネスの抵抗がペルシア軍による組織的な最後の抵抗であった。最後の目標のペルセポリス、ペルシア帝国の象徴の首都といえるがこれが水平線のかなたにみえてきた。次は補注のようなものである。

アリオバルザネスはヨウタブ、ペルシアの女戦士でかつ貴族であるが彼女と彼自身の姉妹も同行させてた。彼女は勇敢にたたかったが最後の戦闘でたおされた。

ガウガメラの戦いの直後にダリウスはペルシアにもどったが、そこではあらたな軍のための兵をあつめることができなかった。そこでエクバタナで兵をあつめるのが彼の目標となった。

アリオバルザネスはダリウスのしたしい友人であったとおもわれる。ダリウスは彼のために特別に州長官の職をあたえた。それは紀元前三三五年であった。

(おわり)

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アレクサンダー大王、その六、ガーガメラの戦い [英語学習]


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* はじめに
アレクサンダー大王の事蹟をその戦いをとおしておう。今回はダリウスとの最後の決戦を勝利しペルシアの覇権をうばったガウガメラの戦いを取りあげる。
(Alexander the Great: Battle of Gaugamela 331 BC、BazBattles、2017/04/18 に公開)

* 最終決戦にむかうアレクサンダー
紀元前三三一年九月、フェニキアとエジプトをうばった後にアレクサンダーはペルシャ帝国の内陸にむかって東進する。彼がチグリス川をわたった頃に斥候から報告があった。ペルシアの王、ダリウスがまた強大な軍をつくろうと兵を招集してる。マセドニアと最終的な対決を目ざすという。両軍はガウガメラという村のちかく、その広大な平原でとうとう遭遇した。古代において最強といえる二つの軍が最終決戦をおこなった。

* エジプトへの遠征、軍の休養
紀元前三三一年の年頭、タイヤとガザの服属に成功した後にマセドニア軍はナイルの肥沃な谷で次にそなえ休養をとった。エジプトをおさめる州長官はアレクサンダーを征服者というより解放者として受けいれた。エジプトはペルシアの州ではもっとも忠実な州ではなかった。イッソスにおける壊滅的な敗北の後に、ペルシアの王、ダリウスはマセドニアへの態度をあらためた。マセドニアがこれ以上ペルシアを侵攻するのを阻止するため外交を展開してきた。だがアレクサンダーは三度にわたるダリウスの提案を有利な条件にもかかわらず拒否した。

冬がすぎアレクサンダーはきたるべきバビロン遠征作戦の図をかいた。すべての準備がととのい充分な休養とととのった装備のマセドニアの軍が四月はじめにフェニキアに進軍を開始した。ここで見のがされがちだがアレクサンダーが征服作戦で戦線への補給、兵站に充分に配慮してたことを補足しておく。本国をとおくはなれ長期間を遠征してる大規模な軍の状態を最良にたもつこと。これは周到な準備と総合的な管理が必要であった。

* 北方ルートをとるアレクサンダー
マセドニアの軍はできるだけながく沿岸沿いに進軍した。艦船が補給の世話をできるためだった。ダリウスはマセドニアの動きを充分にしってた。アレクサンダーがユーフラテス川をわたる頃、ペルシア軍の兵の招集がおこなわれてた。ダリウスはマセドニアがユーフラテス川沿いに進軍しバビロンに直行すると予想してた。彼はユーフラテス地域の収奪をめいじた。焦土作戦である。しかし川にそった繁栄した都市への攻撃をひかえそこから補給をおこなう。これは非常にむずかしい作戦である。そのためアレクサンダーは遠距離となるが北方のルートをとった。そこでは田園に散在する村から水と食糧の補給をえることが容易であった。この予想外の展開にダリウスはすぐバビロンを出発しチグリス川東岸にそい北進した。

* チグリス川をさかのぼるダリウス
彼は騎馬隊の指揮官にマザイアス、バビロンの知事であったが、彼を任命した。これはチグリスの北でマセドニアが渡河するのを阻止し東岸の地域を収奪してマセドニアの進軍を妨害しようとするものだった。しかし渡河の阻止は間にあわなかった。九月、アレクサンダーはチグリスの東岸にやってきた。ダリウスは両軍がまもなく遭遇すると予想した。きたるべき戦いの適地をさがしはじめた。彼はガウガメラという村のちかく広大な平原を野営地とし準備をはじめた。その頃、アレクサンダーの部隊はペルシアの斥候部隊を捕捉した。

* 両軍、ガウガメラ村で遭遇
ダリウスはそこから東三十キロメートルの場所に野営してることをしった。アレクサンダーはすぐ自軍から斥候を派遣した。そして敵にちかよった。野営地を丘の背後、想定した戦場から十キロメートルのところに設営した。数日間の休養の後、九月末にアレクサンダーはペルシア軍にむけ出発した。両軍のあいだに丘があった。これはマザイアスの分遣隊がまもってた。マセドニアの全軍が近づくのをみるとすぐにマザイアスはたたかうことなく退却し主力の野営地にもどった。占拠してた丘を放棄したのである。

* アレクサンダー、丘を占拠
丘の占拠はペルシアに利益があった。しかしダリウスは兵の数でまさる。その戦いに有利な平原を前にしてた。丘は重要であるが、うしなうことの損失は許容できる。アレクサンダーは丘をうばった。周囲をたしかめて一時的な野営地を設営した。この野営地は彼にとり有利だった。高地からペルシアの野営地や部隊の配備がのぞける。さらに丘にいれば敵の不意打ちをおそれる必要がなくなる。

アレクサンダーはゆっくりと敵の攻撃の心配なく戦いの準備ができた。部隊に充分な食事と休養、それを快適な環境であたえることができた。これにたいしてダリウスは常にマセドニア側の不意打ちをおそれねばならなかった。夜になってもその可能性がのこった。彼の部隊は常に警戒態勢を維持しなければならなかった。そうはいってもダリウスには数の優位、強力な騎馬隊、戦いに好適な地勢とい有利があった。

* 昼すぎに開戦
ペルシアはひたすらまつだ。丘の上の敵を急襲するのは無理であったからマセドニアが動きだすのをただまっていた。太陽がしずみ夕方となった。アレクサンダーは将校とともに作戦会議をひらいた。副将のパーメニオンは敵のすきをついて夜襲する提案をした。アレクサンダーは危険がおおすぎるとみとめなかった。翌日朝に攻撃することにきまったという。夜がすぎ最初の太陽の光が戦場をてらした。十月一日のことだった。ペルシアはマセドニアの攻撃、実際にはなかったが、それにそなえて夜をすごした。ダリウスの編隊である。

* ペルシアの編隊
彼は巨大な兵力をたくみにつかった。十万にのぼる兵をあつめた。一万が不死歩兵隊という職業軍人によるものである。それにあわせて数千のギリシャ人傭兵部隊。これらがペルシア軍中央の中核をなしてた。しかし本当のダリウス軍の中核は両翼にいる騎馬隊であった。三万以上の騎馬隊。彼らはおおくのペルシアの州からやってきた。彼らはこのようなひろく平坦な場所では特に脅威であった。
ダリウスは数百のインドの大鎌をもつ二輪戦車、さらに十五の象をもってた。この象たちはたぶん戦いには参加しなったろう。その他にペルシアの各地からきた部族の歩兵隊がいた。だが戦闘能力には疑問がのこった。この大規模な軍の指揮はダリウスと信頼されてた副将のマザイアス、ベッソスによりおこなわれた。さらにバクトリアの騎馬隊、パルティアの歩兵隊がいた。

* マセドニアの編隊
たたかいは昼にはじまった。充分な睡眠をとったアレクサンダー充分な休養をとったマセドニアの兵が丘からおりてきた。そして編隊の配置についた。四万の歩兵隊、七千の強力な騎馬隊がやや傾斜した戦闘線をつくった。敵の包囲をさけるため両翼には騎馬隊が補助部隊をもち、わずかにうしろにひいたかたちでいた。マセドニアの中央には規律をほこる長槍の密集歩兵隊がいた。彼らには強力な盾持ち歩兵隊が支援をする。騎馬隊は二つにわかれる。そして両翼につく。テッサリの部隊は左翼、えらばれた騎馬隊は右翼である。後方、第二列にはスレイスとイリリアの歩兵隊がいた。これまでの戦いとまったくおなじだが指揮はアレクサンダーとパーメニオンがとる。両翼にひろがる利点をつかうためアレクサンダーはその編隊を右にうごかした。ダリウスはただちにその左翼をひろげてこれに対応した。

* 両騎馬隊の激突
ダリウスは平原のたいらなところをえらび障害物を取りのぞいた。これで二輪戦車が充分な働きをできるようにした。これでマセドニアの初動を牽制しようとした。ペルシアの騎馬隊が飛びだしてきた。彼らは最右翼にいるアレクサンダーを攻撃した。はげしい戦いがおきた。どちらが優勢かわからない。時間とともにマセドニアが優勢となりペルシアのいくつかの部隊におおきな損害をあたえた。しかし彼らの犠牲もおおかった。

* ペルシアから二輪戦車
苦境におちた左翼をみてダリウスは大鎌をもった二輪戦車をすべてをおくり敵の中央を急襲させた。しかしこの攻撃はさほど成功をおさめなかった。防禦側が隊列をあけ攻撃側をやりすごした。それと同時にはげしい投げ槍攻撃をした。これにつづいてマザイアスが指揮する右翼がパーメニオンの左翼を急襲した。この時におおくのギリシャ人をころした。これによりパーメニオンはおされていった。彼は深刻な危機においちいった。数で圧倒され部分的に包囲された。しかしこのような危機は彼にとりはじめてのことではなかった。彼の部隊は勇敢にたたかった。ペルシアの攻勢に犠牲をはらいながらたえた。アレクサンダーが編隊を右にずらした。この時である。マセドニアの左翼はその場所に釘づけになってたのでマセドニアの中央がまばらになった。

* アレクサンダーと騎馬隊、中央のすきを目がけ突撃
この時、ダリウスはここが弱点とみて衝動的に不死の歩兵隊をこのまばらになった場所におくった。しかしこれは相手が用意したエサだった。これによりダリウスの中央が剥きだしとなった。アレクサンダーはこの時をまってた。彼はえらばれた騎馬隊を引きつれ、それにつづく救援部隊とともにペルシアの中央を急襲した。そこでダリウスは剥きだしとなり親衛隊が立ちむかった。第二列にひかえてた部隊の支援があったがマセドニアの攻撃はきびしくペルシアの編隊をやぶった。すぐにダリウスは自分の危機をさとった。そして彼が二年前にとったおなじ行動をとった。戦場から逃亡した。

* 逃走するダリウス、自軍をたすけるアレクサンダー
アレクサンダーはただちにこれをおった。しかしすぐこれをやめ左翼、パーメニオンの救援にむかった。そこでははげしい戦いがつづいていた。救援がやってきた時にのこってたペルシアの騎馬隊はたちまち圧倒され、おおくの損害をうけた。ダリウスはまたしても逃走に成功したがアレクサンダーがペルシアの王位につくという複雑な政治的計画はまだだがペルシャ帝国の軍事力の破壊はおわった。この戦いの結果は次のとおりである。マセドニアの兵力は四万七千。損失は千。ペルシアは兵力が五万から十万、損失が四万である。

* ペルシアの覇権をうばったアレクサンダー
マセドニアはメソポタミアの中核都市をうばいペルシャを自由にできる立場についた。このかがやかしい勝利は彼が戦略、戦術にすぐれかつ勇敢であることをしめした。アレクサンダーは事実上、ペルシアの覇権をおわらせた。五年たらずの偉業である。このようにペルシアを服属させたことで彼は満足しなかった。さらにおおきな力をもとめ彼の物語りはなおもつづく。以下は補注のようなものである。

アレクサンダーは外交で成果をおさめた。ダリウスはアレクサンダーにユーフラテスから西の領土を提供し、ペルシア帝国の共同支配者をみとめダリウスの娘をアレクサンダーの妻とすると申しでた。

二輪戦車、たとえ大鎌を装備したものであっても戦いの時に編隊の隊列をやぶるものとしてはすでに時代遅れとなってた。アレクサンダーのたかい規律をほこる歩兵隊(pezhtairoi)にあっては簡単に対応できるものだった。

戦いの後にマセドニアはペルシアの野営地をおそった。そこには数々の戦利品があった。アレクサンダーはダリウス個人のための二輪戦車と弓を手にいれた。

(おわり)

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アレクサンダー大王、その五、タイヤの戦い [英語学習]

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* はじめに
アレクサンダー大王の事蹟をその戦いをとおしておう。今回はアレクサンダーがペルシアの制海権をうばい、その拠点であったタイヤを城攻めでおとした戦いである。
(The Siege of Tyre 332 BC、BazBattles、2017/03/10 に公開)

* アレクサンダー、制海権をうばいフェニキア沿岸を平定
マセドニアがペルシアの王、ダリウスに偉大な勝利をイッソスのちかくでおさめた。それが数ヶ月前だった。マセドニアの王、アレクサンダーはフェニキアの海岸にたって古代において非常に強固なまもりをもつ拠点をながめてた。彼はこれをこのままにしておけない。またほこりたかいタイヤの市民たちがアレクサンダーに服従し降服することはないこともしってた。マセドニアにとってとりたくない選択、ながくてくるしい城攻め。これが現実のものとなろうとしてた。

* タイヤの城攻めまで
紀元前三三三年十一月、イッソスでの戦いの余燼がまださめやらぬ頃である。アレクサンダーがこれまであげてきたかがやかしい勝利をまだ一度もいわってない頃である。彼にとり東進への道がひらかれたがその遠征に乗りだそうという気持にはならなかった。彼は地中海においてペルシアの艦隊がなおも深刻な脅威となってることをしってた。これではペルシャ帝国内部への侵攻に力をそそぐことができない。それで彼は南進をきめフェニキアの裕福な海岸地帯を平定することにした。

紀元前三三二年一月、繁栄してる港町であり交易の中心であるアワッド、ビブロス、シドンは次々とマセドニアとの同盟関係にはいることをちかった。アレクサンダーの次の目標はシドンの三十キロメートル南の都市、タイヤにおかれた。これはフェニキアの都市でもっとも富裕で影響力をもってた。貴重な染料を産出し巨大な経済力で有名であった。また、なおもペルシャ帝国に海軍の基地を提供し、この地域でペルシャの影響力をのこしていた。この都市は二つの地区にわかれる。一つはふるいタイヤとよばれる沿岸の地区である。敵にたいする防禦施設がない。水、木材と墓地を提供する。

* アレクサンダーへの降服に抵抗
二つ目は沖の島の上、厳重に要塞化された地区である。あたらしいタイヤとよぶ。沿岸から七百メートル沖にある。この海の上の要塞は過去、おおくの城攻めにたえて今にいたってる。その有名な例が二百年も前のことバビロンの王がおこなった城攻めである。彼らは十三年もたえぬき最後に妥協が成立した。彼らがその抵抗力をしんじるのは無理がない。あつい城壁と強力な海軍、傭兵部隊をもってる。この都市を征服しようとの目論見はほとんど妄想にみえた。

マセドニアの意図を予見しタイヤはきたるべき城攻めにそなえ女子と子どもをカルタゴに避難させてた。このフェニキアの植民都市には四万の人々が自衛のためのこった。アレクサンダーはタイヤの城攻めは一年はかからなくとも数ヶ月をようする。おおくの資材と人力の投入を余儀なくさせられる。また彼はフェニキアの抵抗拠点をこのまま放置してエジプトに進軍することはできないとかんがえた。

当初、タイヤの使節はアレクサンダーの条件をのむとの印象をあたえた。しかしあたらしいタイヤにあるヘラクレスの寺院に彼が犠牲をささげることをみとめるという要求をことわった。使節はあきらかに罠が仕かけられることをおそれた。かわりにふるいタイヤにある寺院の使用を申しでた。それはアレクサンダーの受けいれるところとならなかった。本土側の施設は戦略的に意味がないとかんがえたからである。アレクサンダーはおおくの犠牲をしいる城攻めをさけるため最後の降服要求をおくった。しかしタイヤはマセドニアの使節を切りころし死体を海に投げいれた。

* 交渉の決裂
この非礼な行為はアレクサンダーを激怒させた。彼はただちにふるいタイヤの破壊と城攻めの準備をめいじた。ここですぐ疑問がうかぶ。アレクサンダーが船をつかわずどのように海上都市の城攻めをするのか、である。この答は簡単である。あたらしいタイヤは本土と自然にできた土の堤でつながってた。ただしそのほとんどが二メートルの水深にしずんでいる。アレクサンダーは破壊されたふるいタイヤの建築資材や残土をつかって本土と要塞都市をむすぶ連絡の道をつくろうとしたのである。

* アレクサンダー、城攻めの開始
はじめの建設は順調にすすんだ。ちかくに城攻め塔をつくる。そこから城壁にむけ投石、弓矢を発射するというもの。だがマセドニアの工作兵が城に近づくにつれ建設はすすまなくなった。水深がふかくなってきた。そのためよりおおくの資材や労力が必要となった。建設作業が相手の投石火器の攻撃の範囲にはいってタイヤの妨害もはげしくなった。牛皮でおおわれた二つの城攻めの塔がつくられ連絡の道の先頭におかれた。そこに装備された投石機が相手の妨害を邪魔した。これにより建設作業の進行をたすけた。

タイヤは自分たちの妨害工作がうまくいってないのをみてもっと積極的な妨害工作に乗りだした。ふるい馬を移送する船を持ちだした。そこにもえやすいものをつめ火をつけた。それを他の船で引っぱって桟橋にぶつけた。すると炎がひろがり柵や城攻めの塔に火がうつった。マセドニアは消火に躍起となってる工作兵たちはタイヤの海軍の攻撃をうけた。これで彼らを本土に逃走させた。アレクサンダーは攻撃をあきらめなかった。連絡の道の幅を二倍にすることをめいじた。そしてもっとおおくの城攻めの塔をつくることをめいじた。

* アレクサンダー、ペルシャの制海権をうばう
彼は海軍力で優位にたてないと城攻めに成功できないとさとった。シドンにもどり征服したフェニキアの都市の艦船にこの戦いに参加するようもとめた。またイオニアとマセドニアの船も招集することができた。こうして彼は百隻をこえる船をその指揮下においた。最後にはアレクサンダーの勝利をしったキプロスの王がマセドニアに味方してさらに百二十隻の船をマセドニア艦隊に参加させるよう願いでた。劇的に増大したマセドニアの海軍力を引きつれてアレクサンダーはタイヤに船でもどった

こうしてタイヤの艦船を港に追いやった。こうして制海権をにぎった。城攻めの塔は再建され連絡の道におかれた。今度はさらに艦船に装備された投石機から都市に投石の攻撃をおこなった。このように攻撃力が増強されたにもかかわらず島の要塞はくずれず降服の意志はなかった。タイヤから突撃があった。城攻めでマセドニア艦船が海上にいた。その錨の鎖を切断した。今度は反撃にあい港に逃げかえった。しかしなお縄を潜水兵が切断するという攻撃をくわえた。このため縄のかわりに鎖をつかわざるをえなかった。

* 攻撃が城壁に近づく
艦船の装備をかえ城攻めの打撃槌をそなえた船をつくった。これをつかうためにはマセドニアはクレーン船が必要となった。城壁にちかずけなくする外壁があった。それを取りのぞく必要がある。タイヤは城攻が危機的な状況にはいったことをしった。よりすぐった兵をあつめ突撃をおこなわせた。これをシドン側の港からおこなった。不意打ちは兵員が充分にいないキプロスの艦船がねらわれた。いくつかが破壊されその他は散開した。これで島北側の防禦への脅威が緩和された。アレクサンダーはすぐ反撃をめいじ彼らを港に追いもどした。彼らがやったことは一時的に包囲網に穴をあけただけだった。

妨害がつづいたがマセドニアは連絡の道を完成させた。彼らの妨害は不発におわった。マセドニアはさらに城内への侵入をはかったが人命の損失がふえた。船にのせた打撃槌が城壁に攻撃をくわえた。最後に効果がでた。南の壁にちいさなやぶれができた。トンネルの奧にぼんやりと明かりがみえた。城攻めが成功するとのわずかな希望である。アレクサンダーはその機会をずっとまってた。

* アレクサンダー、城内突撃をめいじる
アレクサンダーはよりすぐった盾持ち兵、特殊な兵(pezhetairoi)をやぶれへの攻撃にあてた。ここでマセドニアはあらゆる方向から火器による攻撃をくわえた。相手をこの対応に手いっぱいとした。この攻撃が引きおこした騒音や煙にかくされてアレクサンダーは崩壊が近づいた城壁の攻撃を指揮した。はげしい戦いがやぶれ周辺でおきた。まもなく攻撃側は都市に侵入した。このやぶれがおおきくなり、おおくの部隊がなかに侵入した。無慈悲な殺戮がおきた。マセドニアの兵は六ヶ月のくるしみをこの機会にはらした。六千のタイヤがころされ、さらに二千が海岸で十字架にかけられた。アレクサンダーは寺院に退避した者の命をすくった。のこりの三万の市民を奴隷にうった。マセドニアの王にさからうこと。その代償が極めてたかいことをしめした。

* 南進への道をひらいたタイヤの戦い
タイヤの服属がアレクサンダーの偉大な功績であることはうたがいがない。彼のたくみな外交技術、たしかな戦略眼、強烈な遂行の意志を血ぬられたかたちでみせつけた。フェニキアの沿岸地域を平定してはじめて彼は南に集中することができた。そして次の作戦にとりかかることができた。アフリカにはいりナイルの繁栄してる谷を支配してるペルシャにたたかいをいどむことができるようになった。以下は補注のようなものである。

アレクサンダーがつくった連絡の道はそのままのった。潮流が変化し何世紀ものあいだに拡張された。

ペラのダイアデスはアレクサンダーにしたがいタイヤをうばった。彼は才能にあふれるエンジニアである。マセドニアの城攻め塔におおくの発明をした。これらはアレクサンダーの遠征においてひろく活用された。

タイヤの守護神、メルカアトはギリシャ人からはヘラクレスとおなじとみなされている。

(おわり)

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アレクサンダー大王、その四、イッソスの戦 [英語学習]

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* はじめに
アレクサンダー大王の事蹟をその戦いをとおしておう。今回はアレクサンダーがおさめた二度目の勝利でありペルシアの王が歴史上はじめてきっした敗北である。
(The Battle of Issus 333 BC、BazBattles、2016/11/19 に公開)

* ペルシアの王、ダリウスとの対決まで
紀元前三三三年、アレクサンダーのペルシア遠征作戦が頂点をきわめる。グラニカス川の戦いの勝利はそのはじまりであった。ペルシアの王、ダリウス三世は自ら十万の軍を引きいて侵攻したマセドニア軍に罰をあたえようとやってきた。アレクサンダーの次の戦いは古代の都市、イッソスのちかくで、まさにはじまろうとしてた。

* アレクサンダー、小アジアを攻略
紀元前三三四年、グラニカスの戦いのすぐ後にアレクサンダーはそこの州知事たちを服属させ西部小アジアを征服することに成功した。最初の敗北だったがペルシア帝国にはまだ侵入者をヨーロッパに簡単に押しもどす力があった。ペルシアの王、ダリウス、ギリシャ人からはコドマヌスとよばれてたが、マセドニアの侵略をおさえるため兵をあつめる 段階にはいってた。アレクサンダーはさらに前進しようとしたが、そのためにペルシアの艦船の脅威を取りのぞく必要があることをしってた。というのはその頃にはこの地域で抵抗できる惟一の力となってたからである。

* ペルシャの海軍力の攻略、ゴディアムの結び目
アレクサンダーには忠実、有能で装備のととのった兵士がいた。しかしマセドニアには海軍がなかった。それでアレクサンダーが取るべき次の手段はエフェソス、マイリーダス、ハリカマサスの港を攻撃しペルシア艦隊を無力化することだった。これをおえると彼は北進あるいは東進し次々と都市を攻略していった。フリジアの古代の首都、ゴディアムに滞在した時の伝説がある。そこには有名なゴディアムのけしてほどくことのできない結び目があった。この結び目をほどく者はアジアの王となるとされてた。彼は剣できりつけほどいた。こんな伝説である。この話しはこれくらいに次にすすむ。

* ダリウスの大軍がシリアに進出
ターソスのちかくで野営してたマセドニア軍に斥候からダリウスがバビロンで兵 をあつめ巨大な軍を編成しようとしてるという情報がはいった。ターソスは小アジアの南にありシリアにちかい。彼はただちに軍を二分し彼の右腕ともいえる副将パーメニオンと軍をイッソスにおくりその周辺を占領させた。これによりダリウスとペルシアの艦船が共同作戦にはいることをふせぐものだった。

紀元前三三三年、十一月のはじめアレクサンダーは巨大なペルシア軍がシリアに進軍しアマナス山脈の東に野営してるとの情報を受けとった。彼はイッソスを出発しアッシリアの門でパーメニオンと合流しようとした。ダリウスはアレクサンダーがベイランパスをまもってることをしった。それでダリウスはアマニアン門をぬけ北のルートをとりシリシアにはいった。そしてイッソスをうばった。そこにいたマセドニアの負傷兵や病気の兵をころした。

* 北進したダリウスをおうアレクサンダー
アレクサンダーはダリウスが東からくると予想し北にむかうとはおもってなかった。他方、ダリウスは自分がマセドニアの二つの軍のあいだをすすんでるとかんがえすでにパーメニオンがアレクサンダーに合流してたことをしらなかった。ダリウスはイッソスを出発し二分されて戦力を半分としてる軍を攻撃しようとした。アレクサンダーはダリウスをおって引きかえし北にむかった。彼は巨大なペルシア軍を背後にのこしペルシア帝国の内部に進出するという危険をおかす気はなかった。

* イッソスから南下したダリウスと対決へ
ダリウスはまもなく自軍がマセドニアの合流軍と出あう進路にいると気づいた。しかし巨大な軍を引きもどすのにはおそすぎた。それで彼の部隊を展開できる適地をさがすことにした。そしてピナラス川のそば、岸辺のせまい平原をつかうことにした。イッソスの南東にあり、たたかうには完璧な場所とはいえなかった。一から二キロメートルの幅の平原であるが、ダリウスが全軍を横一線に展開するには充分でなかった。もう一つの欠点は騎馬隊をおもうままにうごかすのにはせまいということであった。

* ピナラス川で対峙、開戦へ
その日は雨がふっていた。ピナラス川の岸辺はすべりやすかった。ペルシアの歩兵に優位をあたえるためマセドニアのすぐれた密集歩兵隊がかけてくる圧力を軽減するためダリウスは騎馬隊を岸辺のうえにおいた。これで敵の編隊をやぶる。ここだけが騎馬隊が充分にうごける広さがあった。のこりの中央と左翼は二列の編隊とした。ここで付けくわえるがギリシャ人傭兵隊はペルシアの歩兵隊の重要な戦力となってた。ダリウスはまた有名なペルシア不死部隊をつれてきてた。

十一月五日のお昼すぎアレクサンダーは戦場についた。そこでペルシア軍がすでにまってるのをみた。彼はグラニカスの戦いとおなじように軍を展開した。中央は長槍を装備した重装歩兵、みじかい槍で装備した部隊。軽装の盾持ち歩兵(hypaspist)の部隊、軽装歩兵(peltast)の部隊。騎馬隊は両翼の端においた。テッサリの騎馬隊は左翼。えらばれた騎馬隊はアレクサンダーの右翼のなかにおいた。副将、パーメニオンに引きいられた部隊は左翼だった。

* マセドニア、騎馬隊におされる左翼、もみあう中央
戦いはペルシアの騎馬隊の攻撃からはじまった。彼らは川をわたりパーメニオンの部隊を圧倒しようとした。同時にマセドニアの密集歩兵隊は前進しペルシア軍との戦いにむかった。すぐに彼らはペルシアの弓攻撃の射程にはいった。彼らは敵のはげしい火器による攻撃のなかで川をわたっていった。投石機による礫が鎧の装甲にあたりおそろしい音をたて兵の士気をくじいた。しかしこんな時にあってもマセドニアの密集歩兵隊は前進した。それはすぐれた訓練とたかい士気をしめすものだった。

* アレクサンダー、騎馬隊とともに攻撃
アレクサンダーの歩兵隊は編隊をたもってペルシアの中央をばらばらにしようとした。その頃に彼はえらばれた騎馬隊を引きいて攻撃をはじめた。これでダリウスの左翼を突破しようとした。はげしい戦いが戦場にひろがり両者におおくの犠牲がでた。中央においてペルシア側のギリシャ人傭兵隊は疎開した編隊を利用してマセドニアを押しこんだ。左翼における事態もうまくゆかなかった。パーメニオンはペルシアの騎馬隊の攻撃を阻止するのが困難だった。テッサリの騎馬隊は頑強で戦いなれてたが二倍の数をもつペルシアの騎馬隊は古代で最強とみられてた。

アレクサンダーに引きいられた騎兵隊はペルシアの歩兵を切りさいて侵入しその編隊に穴をあけた。ペルシアの左翼は徐々に崩壊しはじめた。アレクサンダーのえらばれた騎馬隊のすぐれた戦闘能力が惟一の勝利への道だった。二倍の数の敵を引きうけた中央の歩兵隊と左翼の騎馬隊は強力なペルシア部隊の攻撃にたえることが困難だった。アレクサンダーは高地にいてこの状勢をみた。ただちにペルシアの中央の側面を攻撃することにした。これは困難にたえてる密集歩兵隊の救援であった。この騎馬隊の攻撃の効果はすぐにでた。

* アレクサンダーの騎馬隊が戦況をかえダリウス退却へ
騎馬隊は編隊を頑強にくずさなかった敵の歩兵隊におおくの損害をあたえた。これで密集歩兵隊は前進することができ弱体化したペルシアの中央を無力化した。接近戦のなかアレクサンダーはダリウスがいることを発見した。彼はえらばれた騎馬隊とともに王がいる部隊をはげしく攻撃した。ダリウスは不利をさとって退却をきめた。アレクサンダーはダリウスをおった。その頃えらばれた騎馬隊のおおくは岸辺で崩壊しそうになってるマセドニア部隊の救援に急行した。ナバゼイナス、ペルシアの騎馬隊の指揮官が王が退却してゆくのをみて、もうすこしでその戦いに簡単に勝利できたにもかかわらず彼の部隊に退却をめいじた。

マセドニアは軍を立てなおし、にげる敵をおった。そして数百人をころした。時はすでに夕方であった。彼らの追撃はながくつづけられなかった。ダリウスは退却し軍は散開した。おおくがころされた。アレクサンダー側の犠牲も相当だった。マセドニアの兵力は四万、損失は七千。犠牲のおおくは中央の分断された部隊のもの。ペルシアの兵力は五万から十万、損失は二万であった。

* ペルシアの王が歴史上はじめて敗北
ダリウスははじめて戦いにやぶれた。しかし戦争はまだつづく。彼の組織を立てなおす能力はたかい。広大な帝国の資源をたくみにつかう能力がある。強大なペルシアにたいする偉大な二度目の勝利はアレクサンダーのシリア侵攻を可能にした。これは偉大な征服者としての彼のかがやかしい歴史にあたらしい章を書きしるすこととなる。以下は補注といえるものである。

この戦いでマセドニア軍は裕福な野営地をうばった。そこにはダリウスの母、妻、娘がいた。その娘はアレクサンダーの妻の一人となった。イッソスの衝撃的敗北はアケメネス朝ペルシア帝国、二百二十年の全歴史においてペルシアの王が敗北したはじめての戦いである。この戦いの前までアレクサンダーが王の称号をつかった証拠はない。人々が自分を王とよぶようもとめるようになったのはこの戦い以降である。

(おわり)

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アレクサンダー大王、その三、グラニカスの戦い [英語学習]

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* はじめに
アレクサンダー大王の事蹟をその戦いをとおしておう。今回はアレクサンダーがはじめてペルシャに侵攻し小アジアのグラニカス川で勝利をおさめたものである。
(The Battle of Granicus 334 BC、BazBattles、2016/09/16 に公開)

* フィリップを引きついだアレクサンダの登場
紀元前三三四年、マセドニアの王、アレクサンダーはその父王がはじめたことを継続しようとダーダネルス海峡をわたりペルシャ帝国侵攻に乗りだした。小アジアのグラニカス川の川岸から彼の偉大な生涯がはじまる。彼の阻止をめざす強力なペルシャ軍をむかえうった。彼の力をみせる最初の機会となった。

* フィリップの暗殺からペルシャ進軍まで
紀元前三三七年、カロネイアの戦いの後にフィリップはヘレニック同盟をとうして全ギリシャのほとんどを支配下におさめた。そして東方遠征作戦の準備をすすめてた。しかしここで彼が暗殺されこの計画は数年間一頓挫した。彼の息子、アレクサンダーがあとをついだ。彼は王位をねらう競争者を排除し先王の死が引きおこした不安定な状況を鎮静させて王位についた。それはそれほど簡単なことではなかったがここではその事情は省略する。

* アレクサンダー、神話の英雄、アキレスをしのぶ
紀元前三三四年、アレクサンダーは戦争準備をおえ彼の軍をダーダネルス海峡にすすめ、そこから小アジアにわたった。彼はここでアジアの地に軍事力を展開し強大なペルシャ帝国を征服しアジアを神からの贈り物として受けとることをのべその決意をしめした。彼は父王とくらべ戦いに熱心だった。父は自分の得意の外交力をつかって問題を解決することをこのんだ。パーメニオン、第二指揮官が引きいた先遣隊がかえってきて合流した頃に彼はトロイを訪問し愛読したホーマーのイリアッドに登場する英雄、アキレスをしのんだ。

* 迎えうつペルシャの作戦
その頃、西部ペルシャの州長官たちは軍をあつめアレクサンダーをヨーロッパに押しもどそうとしてた。マセドニアの侵攻はすでに六年前から予測できた。だが彼らは戦争への充分な準備をおこたってた。彼らがやったことはただ先遣隊を追いやったことだった。概して彼らはアレクサンダーをわかいと過少評価してた。彼はまったく抵抗をうけず渡河した。それはこのマセドニアの軍事力より自軍がすぐれているとみてたからである。だがペルシャ軍にあってマセドニアの軍事力をおそるべきものと気づいてた人物がいた。それはギリシャ人傭兵隊の指揮官、メムノンであった。彼は焦土作戦を提案した。それは穀物、農園、村落を火で焼きつくすことである。

これによりマセドニアの軍への兵糧の獲得を阻止し同時にペルシャ軍を東方に移動させ戦いをさけるというねらいだった。だが州長官たちは受けいれなかった。その理由の一つは彼がギリシャ人で信頼できないとかんがえたこと。さらに自分たちの領地を破壊することは受けいれがたかったからである。かわりに彼らがやろうとしたことは防禦にてきした地点をえらびマセドニアを戦略的にそこに誘いこむことであった。こうしてアレクサンダーは彼が東に移動しその背後の安全と供給線を確保する前に州知事たちの作戦により戦いをはじめなければならない状況となった。

* グラニカス川での戦い
アレクサンダーの斥候かペルシャ軍がグラニカス川の東岸に野営してるとしらせてきた。彼はただちに彼らと遭遇するため進軍をめいじた。ペルシャ 軍は東岸に強固な防禦拠点をつくってた。その騎馬隊のすべてを前面におき、傭兵隊からなる歩兵隊を第二線においてた。彼らは丘のうえにいた。それは馬鹿げた編隊のようにみえた。というのは騎馬隊が川と歩兵隊に邪魔され充分な攻撃力を発揮できないからである。だが彼らの考えはアレクサンダーの騎馬隊を誘いこむことだった。

これで自分たちのほうがすぐれているとしんじてる騎馬隊により相手を圧倒しアレクサンダーを殺害する。マセドニアの部隊に決定的損害をあたえ戦争を初期の時点で効率的に終結させるという考えであった。第三日目の午後、アレクサンダーの軍はついにグラニカス川の西岸についた。そして横一線にならんだ。騎馬隊は両翼におかれ密集歩兵隊は中央におかれた。パーメニオンがむかいの岸にいるペルシャ軍をみて警告した。というのはアレクサンダーが当初かんがえていた前面からの攻撃は川の流れがはやく岸が急峻である。そのため渡河は容易でないとおもったからである。

* アレクサンダーの渡河作戦
アレクサンダーはもしグラニカスをおそれたらダーダネルス海峡を馬鹿にしたことになるといって、この警告を聞きいれなかった。そしてただちに攻撃をはじめペルシャの作戦の誤りを利用するといった。マセドニアの軍を二つにわけて指揮することとしパーメニオンが左翼、アレクサンダーが右翼である。最初にマセドニアがうごいた。騎馬隊と密集歩兵隊の混成部隊がさそいの攻撃をペルシャの最左端に仕かけた。そこは傭兵隊のメムノンが岸辺でまもってたところである。最初の兵が川にはいったところ相手は投げ槍や矢でいっせいに攻撃してきた。おおくの犠牲がでた。東岸で両軍によるはげしい前哨戦がたたかわれた。マセドニアのねらいはこのさそいの戦いにおいてできるだけおおくのペルシャ軍を引きつけることであった。

数でまさる敵におされながらも彼らはペルシャ騎馬隊をその編隊から引きはなすことに成功した。アレクサンダーが主攻撃を仕かける絶好の機会がやってきた。彼は親衛隊(Hetaioi)を引きいて攻撃にうつった。それに重装の密集歩兵隊がつづいた。そして編隊がばらばらとなってきた中央の攻撃にむかった。彼らはアレクサンダーがそこにいることに気がついた。彼はかがやく鎧とおおきなしろい羽根飾りがついたヘルメットをし攻撃の命令をだしてた。彼らはこの部隊に攻撃を集中した。きびしい接近戦がはじまった。騎馬にのった戦いであったがまるで密集歩兵隊の戦いのようだった。両者はたがいの優位をきそった。

* 命を危険にさらしたアレクサンダーの攻撃
アレクサンダーは騎馬隊の長槍で相手をさした。彼はペルシャの貴族をころしたが、そこでほかの貴族が彼の頭をうった。それですこし傷をおった。彼は剣で反撃した。また他のペルシャの騎馬兵が剣をあげて彼の背中をうった。しかし彼ののびた腕はクレイタス(Cleitus the Black)により切りおとされた。彼は騎馬隊の親衛隊分隊長であるが彼が王の命をすくった。ペルシャは頑強に抵抗したがマセドニアのえらばれた騎馬隊の進撃をとめることはできなかった。彼らはだんだんと急峻な岸辺で陣地を確保していった。とうとうアレクサンダーの右翼の残りも川をわたりペルシャの騎馬隊と戦いにはいった。

* アレクサンダーが中央を突破
最後にではあるがギリシャの左翼もテッサリの騎馬隊をつれて戦いに参加した。この騎馬隊の戦闘能力は極めてたかい。ここて一つ説明しておくがペルシャの騎馬隊はそれまで最強とみとめられてた。それでペルシャの指揮官たちは親衛隊の騎馬隊やマセドニアの騎馬兵一般のたかい戦闘能力におどろいた。ペルシャ軍の指揮はおおくの指揮官が分担する。だがマセドニアの指揮はすぐれた者だけにかぎる。ペルシャはおおくの貴族をうしなった。騎馬隊はだんだんと戦闘意欲をなくしていった。

* ギリシャ人傭兵隊をゆるさなかったアレクサンダー
彼らの戦闘線は中央でやぶられた。もっともはげしい戦いがあったところだった。アレクサンダーとそれにしたがう部隊がペルシャの戦闘線を突破し他の部隊の背後と両翼にむかった。これが敵に恐慌を生みだした。そして大量の逃走者をだした。マセドニアはにげるペルシャの騎馬隊を追撃できなかった。そこにはなおペルシャにいたギリシャ人傭兵隊がいたからである。傭兵隊はアレクサンダーに条件付きの降服を申しでた。アレクサンダーはこれを拒否し密集歩兵隊に前面からの攻撃を、騎馬隊には防禦がなくなった側面と背後からの攻撃をめいじた。

二千はたすかったが、残りはころされた。これらの幸運な者はおくられマセドニアの石切場ではたらかされた。アレクサンダーはギリシャ人が敵に協力することをゆるさないとはっきりとしめした。戦いはおわった。マセドニアは数百をうしなった。これは最初の誘いの攻撃の時のものがほとんどである。ペルシャの犠牲者はおおかった。千の騎馬兵、三千のギリシャ人傭兵、そこでペルシャの指揮官層にいる貴族がふくまれてる。アレクサンダーが死亡したものを軍隊の礼儀により埋葬するようめいじた。結果は次のとおり。

マセドニアの戦力は二万五千の歩兵、五千の騎馬隊、損失は三百から四百。たいしてペルシャの、戦力、一万の歩兵、一万の騎馬隊、ギリシャ人傭兵隊が五千、損失が四千であった。
* 西部侵攻の道をひらいた勝利
若い王はこの最初のおおきな戦いに勝利した。彼の作戦にはほとんと失敗はなかったが自分の命を危険にさらした。こうしてペルシャの西部の州への道はおおきくひらかれた。だがまたおおくの戦いがまってる。ダリウス、ペルシャのあたらしい王はこのわかきマセドニアの王をあなどれないことをしった。

(おわり)

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ここまできたのか北朝鮮 [バカにされないクスリ]


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* はじめに
 Jアラート(全国瞬時警報システム)がなったらしい。十五日朝、北朝鮮からミサイルが発射れ北海道地方を通過し襟裳岬の東約二千キロに着水したという。さてここまできたか、北朝鮮は。という気持になった。この事態は予想外でない。やっとものがいえる事態となった。だが嫌な気分である。この国の問題に何があったかグーグルもつかって思いだしてみた。次のとおりである。

* 何故、北朝鮮の原子炉に協力するのか
クリントン政権で北朝鮮の原子炉に協力する。日本も数百億円の資金援助をするという話しがでた。なんのことかとおもった。これはその当時、米が北の攻撃を検討し犠牲者のおおさに断念し、でてきた話しと後でしった。一九九〇年代のことだった。北からの不審船が撃沈された。北との関係がひえきってたのに北から定期船がやってきた。在日の北朝鮮にかえる人間の交流、さまざまな貿易のルートになってるという。後に暗殺された金正男氏が不法パスポートで入国しつかまった。いったいなんという国か。何故国交もないのにこれだけ縁があるのか。それもあやしげなものがあるのかとおもった。

* 拉致被害者の帰国
二〇〇二年に北から拉致被害者五人が帰国した。これですこし関係が正常化されそうになった。だが一時帰国だから拉致された人間をまた北にもどせ。約束違反だといって話しがこわれた。冗談ではない。拉致された人間を拉致した国にもどす理由などない。小泉政権の時だった。

* トランプ政権が攻撃するのか
今年の五月、トランプ政権がついに北を攻撃するとさかんにいわれた。大統領のツィッターでは強硬だったが外交交渉が政権の本音のようだ。中国を持ちあげ圧力をかけさせた。最近の情報では大統領は何もしなかったといったという。この中国である。

今まで中国が鍵だという解説が主流だった。米が中国に圧力をもとめた時、その報道官が主役でないと否定したのにはあきれた。事情をしる人から北京の中央政府の意向に北に隣接する軍区が面従腹背、利権構造がある。だから圧力はきかないという。建前では中国は非核化という。それを対話をつうじて解決といってる。その程度のものかと、馬鹿馬鹿しくなった。お隣の韓国のことである。

* 韓国の事情、文在寅大統領の気持
韓国と北は休戦だがまだ戦争はおわってない。昔、朴正煕大統領の頃、日本人旅行者の話しとして北をむくホテルの窓はあけない。そこからのぞくのもあぶない。定期的に避難訓練をやってる。ところがいつのまにか平和ムードがただよい今にいたる。北のミサイルや核実験とかまったく事情はかわってない。分断国家のドイツは一九九〇年に西が東を吸収するかたちで統一された。韓国もことあるごとに統一をとなえるが御題目以上の実質があるのか。また北が主体で高麗連邦をつくるかもしれない。トランプ大統領は最近、韓国が北に圧力をかけてないと不満をもらした。

* 日本は国連決議をたてに非難を繰りかえす
別にわるとはいわないが日本は国連決議をたてに非難を繰りかえしてるがそれが事態を好転させたか。その効果は疑問充分。最近の北朝鮮の事態に経済評論家の三橋貴明氏がいったこと二つをのべる。

一、戦後七十年ちかく戦争がなかった東アジアはもはや平和な地域でなくなった。すぐれた見識である。日本がかわらなくとも相手がかわれば平和はくずれる。韓国は同族だから自分たちを攻撃するまいとおもってる。文在寅大統領の融和策はあくまでも南北間だけ。そこからこぼれてひろがる紛争が日本におよぶことまで心配してない。

二、米のライス元国務長官が北の核保有を容認しようという発言がある。もし米がこれをみとめた時、安保条約の核の傘で日本がまもられてるという前提がくずれる。米は核保有国とたたかったことはない。日本のためにたたかうと期待するのは幻想である。もっともである。英、仏も核武装をしてる。これもおなじ論理で米が核保有国のロシアを攻撃してくれるか。この疑問があって核武装をしたときいた。インドの国防長官室には広島原爆の写真がかざってある。それをしめして日本人にインドはこのような悲惨な状況をさけるため核武装に踏みきったと説明してくれたそうだ。さて結論である。

* 結論
まず、日本は後悔が先だつ国。政策には特にいえる。あの時やっておけばとか、もうちょっとはやければ楽だったのにというわけだ。目の前に危機がかたちをみせないとうごこうとしない。いつも手遅れになる危険をおかしてる。この北の事態を心配してる人はおおかった。公言しなかっただけ。やっと核武装も敵基地攻撃能力もタブーとしないで議論できる状況がやってきた。米英仏など欧米や東南アジア、インドなどの理解をえて軍事力の強化に踏みきるべきである。政治家は国民に応分のリスクを引きうけるようもとめるべきである。

(おわり)

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